私たち(ラッセル一家)は,アメリカ時代の最後を,プリンストンで過ごした。プリンストンでは,湖畔に建っている小さな家を手に入れた。プリンストン滞在中に,アインシュタインの人となりをかなり知るようになった。私は,週に一度アインシュタインの家を訪ね,彼やゲーデルやパウリと議論した。議論はいくつかの点で期待を裏切るものであった。というのは -この3人ともユダヤ人で,亡命者で,’世界市民’のつもりであったが- 形而上学に対するドイツ人的な先入感をもっており,お互い最大限努力したにもかかわらず,議論を展開する共通の前提に到達することがなかった(訳注:ゲーデルはユダヤ人ではないらしい。ただし,サルトルが『ユダヤ人』(岩波新書)で指摘するように,「ユダヤ人」の定義は難しそうである)。ゲーデルは,結局,純粋のプラトン主義者であることがわかった。そして明らかに,★永遠の「否定(‘not’)」が天国には保存されおり,有徳な論理学者は死後(来世)に天国で永遠の「否定」に出会うことを期待できると信じていた★
(参考:否定神学 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%A6%E5%AE%9A%E7%A5%9E%E5%AD%A6 )。
プリンストンの社会はきわめて心地よいものであり,全体的に見て,私がアメリカで出合った他のどの社会集団よりも心地よいものであった。
(表紙画像:順番に、アインシュタイン、ラッセル、ゲーデル、パウリ/因みに、著書のタイトルとなっている「マーサー・ストリート」とは、ニューヨークのマンハッタンの南側にある通りの名前でニュヨーク大学の東側を走っている。)
The last part of our time in America was spent at Princeton, where we had a little house on the shores of the lake. While in Princeton, I came to know Einstein fairly well. I used to go to his house once a week to discuss with him and Goedel and Pauli. These discussions were in some ways disappointing, for, although all three of them were Jews and exiles and, in intention, cosmopolitans, I found that they all had a German bias towards metaphysics, and in spite of our utmost endeavours we never arrived at common premisses from which to argue. Goedel turned out to be an unadulterated Platonist, and apparently believed that an eternal ‘not’ was laid up in heaven, where virtuous logicians might hope to meet it hereafter. The society of Princeton was extremely pleasant, pleasanter, on the whole, than any other social group I had come across in America.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 6: America, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB26-090.HTM
[寸言]
「(ゲーデルは)否定(not)に出会うことを期待」と書かれた部分がよくわからないかも知れませんが,次の例が参考になるのではないでしょうか?(即ち)
安倍首相が,2月3日(2016年)の国会の予算委員会において,民主党の岡田代表が質問(甘利氏側への政治献金によってTPPなど政策が影響を受けたのではないか,そうでないとしたらそれを証明せよと主張)したのに対し、首相は「ない(影響を受けていない)ということをない、と証明するのは★悪魔の証明★だ。あるものをあるんだ、と言うんだったら、ある(影響を受けている)ということを主張してる側に立証責任がある。当たり前だ」と応じた。
この応答自体には間違いはない。即ち、この宇宙(TPPの問題の場合はこの現代世界)をくまなく、一度に、その証拠を探すことはできない以上、「~でない」ということは証明できないことは確かである。2チャンネルなんかでは、哲学好きな投稿者がそのことを得意になっているのが散見される。
岡田代表の論理的思考能力が少し弱かったということであろう。しかし、金権政治がはびこる土壌は現代の日本の状況にはあふれており、論理的思考能力を高めて追求していく必要がある。岡田代表の追求の弱さを指摘するだけで、自分の論理的思考能力の高さを自慢するような視野の狭い人間になってはならない。
(ところで、「悪魔の証明 devil’s proof」だという反論は、答弁書を書いた理屈好きの官僚か、あるいは、御用学者が事前に安倍総理に吹き込んだものと想像される。なぜなら、「安倍総理の知性」では考えつかないだろうと思われるからである。「考えつかない」なんて主張するなら、「考えつかない」と証明しろと言われても、それは「悪魔の証明」だから、私にも証明できませんがね、安倍さん。)