口述したものがそのまま本になる- 某教祖の(中身のない)霊言集とはわけが違う!

beetle_and_wedge  私は,1914年の春に米国ボストンにおいて,ローウェル記念講義を行うとともにハーバード大学で哲学の短期非常勤講師を務めるように,との招請を受けた(注:Abbott Lawrence Lowell, 1856-1943: 当時ハーバード大学学長),。私は,ローウェル記念講義の主題(「外部世界に関する人間の知識」 )を公表したが,何を話したらよいかまったく思い浮かべることができなかった。私は,(テムズ川上流にある)マウルスフォードの ‘The Beetle and Wedge’のパーラー(上記写真)によく座り,「外部世界に関する人間の知識」 --このテーマで近い内に一連の講義をしなければならなかった。-- について,話すべきこととして何があるだろうかと,思案した。
私は,1914年の元日に,ローマからケンブリッジに戻った。そうして,本当に講義の準備をしなければならない時期が来たと思ったので,その翌日に速記タイピストに来てもらうよう手配した。ただし,彼女が来たら何を言うか,その時はまったく何の考えも持ちあわせていなかった。彼女が部屋に入って来た時に,私の考えはしかるべく定まった。そうしてその瞬間から仕事が完結するまで,完璧に整然とした順序で,口述した(注:このように,口述したものを速記タイピストに打たせ,ほとんど修正しないで出版するやり方は,専門書ではない,いわゆる ‘popular books’ の大部分に以後採用されるようになる)。私が彼女に口述したものは,後に単行本として,「哲学における科学的方法の一適用分野としての,外界についての知識」(1914)という書名で出版された。

I was invited to give the Lowell lectures in Boston during the spring of 1914, and concurrently to act as temporary professor of philosophy at Harvard. I announced the subject of my Lowell lectures, but could not think of anything to say. I used to sit in the parlour of ‘The Beetle and Wedge’ at Moulsford, wondering what there was to say about our knowledge of the external world, on which before long I had to deliver a course of lectures. I got back to Cambridge from Rome on New Year’s Day 1914, and, thinking that the time had come when I really must get my lectures prepared, I arranged for a shorthand typist to come next day, though I had not the vaguest idea what I should say to her when she came. As she entered the room, my ideas fell into place, and I dictated in a completely orderly sequence from that moment until the work was finished. What I dictated to her was subsequently published as a book with the title Our Knowledge of the External World as a Field for Scientific Method in Philosophy.
出典:The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 7: Cambridge Again, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB17-120.HTM

[寸言]
INDECENC ラッセルが1914年に出した Our Knowledge of the External World は,通俗本 (popular books)ではないが、一般の人が理解できるように、読みやすい文体や言葉で書かれている。こういった哲学の本を口述し、ほとんど修正なしにそのまま出版できるラッセルの能力は驚くべきものである。
もっと驚くべきは、哲学以外の幅広い分野・主題に関する専門的な事柄に対する理解力である。ラッセルの著作は、論理学や数学関係の(ラッセルの)専門の分野だけでなく、言語学、また、『相対性理論入門』や『原子のABC』のような物理学の専門的内容を初心者でもわかるように書いたもの、科学論、それから、政治学、経済学、社会学、平和論等のような社会科学関係の本、さらに教育論、2冊の小説など、とても一人の人間が書いたとは信じられない。
もちろん、Principia Mathematica のように論理記号の羅列が延々と続くような多くの人が理解できない著作もあるが、専門的な分野の著作も、ほとんど一般人が読解できるものとなっているおかげで、我々は多くの恩恵を受けることができる。

哲学者の最高の責務(義務)the supreme duty of the philosopher

DOKUSH28 私は今でも、真理は事実へのある種の関係であり、事実は一般に非人間的なものである、と考えている。(また)私は今でも、人間が宇宙的にはとるに足りない存在であり、今とここ[時空)とによって歪められずに宇宙を公平に見渡すことのできる絶対的な存在者 - そういうものが存在するとして ー であるならば、おそらくは書物の終り近くにつける脚注以外では、人間のことにほとんど言及しないでであろう、と考える。しかし、私はもはや、人間的要素が存在する場所からそれらを追い払おうとは望まない。(即ち)私はもはや、知性感覚よりすぐれているとも、プラトンのイデヤの世界のみが「真実の」世界を知らしめるとも、感じない。以前は、感覚や感覚の上に築かれた思想をひとつの牢獄と考え、感覚から解放された思考によってのみ,我々はそこから脱出しうる、と常に考えていた。今ではそうは感じない。感覚と、感覚の上に築かれた思想とを、牢獄の格子としてではなく、窓として考える。我々は、いかに不完全であったとしても、ライプニッツの単子のように世界を映しうる、と私は考える。そして、物を歪めない鏡となることにできるかぎり努めることが哲学者の義務である、と考える。しかしまた、我々の本性そのもののゆえに避けがたい歪みをはっきり認めることも、また哲学者の義務である。そういう歪みのうち最も根本的なものは、我々が世界をここと今(時空)の見地から見て、有神論者が神に帰するような広い公平さで見るのではない、ということである。そういう公平な見方に達することは我々には不可能であるが、それに向って一定の距離を旅することは我々にもできる。そしてこの目標へ向かっての道を示すことは,哲学者の最高の義務なのである。

ANDROMEDI still think that truth depends upon a relation to fact, and that facts in general are non-human; I still think that man is cosmically unimportant, and that a Being, if there were one, who could view the universe impartially, without the bias of here and now, would hardly mention man, except perhaps in a footnote near the end of the volume; but I no longer have the wish to thrust out human elements from regions where they belong; I have no longer the feeling that intellect is superior to sense, and that only Plato’s world of ideas gives access to the ‘real’ world. I used to think of sense, and of thought which is built on sense, as a prison from which we can be freed by thought which is emancipated from sense. I now have no such feelings. I think of sense, and of thoughts built on sense, as windows, not as prison bars. I think that we can, however imperfectly, mirror the world, like Leibniz’s monads; and I think it is the duty of the philosopher to make himself as undistorting a mirror as he can. But it is also his duty to recognize such distortions as are inevitable from our very nature. Of these, the most fundamental is that we view the world from the point of view of the here and now, not with that large impartiality which theists attribute to the Deity. To achieve such impartiality is impossible for us, but we can travel a certain distance towards it. To show the road to this end is the supreme duty of the philosopher.
出典: Bertrand Russell: My Philosphical Development, 1959.
【George Allen & Unwin Ltd., 1959, p.258】
* theist (n):有神論者
詳細情報:http://russell-j.com/cool/54T-1701.HTM

[寸言]
 ラッセルの哲学(基本的な考え方)は一貫しているとも、多くの変遷をしているとも、どちらとも言える。
ラッセルは、生涯、理性や知性に信頼を起き続けたが、徹底的に論理を追求していく過程で、人間の知性や論理的思考能力の限界をも実感するようになった。
だが、人間には(今とここ)に縛られるという宿命があるにしても、「(世界のより正しい理解や認識に向かって)一定の距離を旅することは我々人間にもできるそしてこの目標へ向かっての道を示すことは,哲学者の最高の義務」であるというラッセルのいくらか控えめの態度こそ、哲学者のみならず、多くの学者や研究者が旨とすべき態度ではないだろうか?

命題と命題関数との違いをはっきりと意識しよう!

 命題関数とは、

   常に真であるとき、     必然的な
   時に真であるとき、     可能な
   決して真ではないとき、   不可能な

関数と言ってよいでしょう。

Logicomix-and-Cat 命題関数と命題とを混同したために、多くの誤った哲学が生まれました。非常に多くの伝統的哲学は、命題関数にのみ適用される述語を命題に帰属させることによって、またいっそう悪いことに、述語を個物に帰属させることによって成り立っています。必然的な、可能な、不可能な,という述語は、その良い例です。全ての伝統的哲学では、「様相」の名の下に、命題の性質としての必然性、可能性、不可能性が論じられていますが、実際それらは命題関数の性質なのです。★命題は真か偽であるだけです。
 「ⅩはⅩである」は、「Ⅹ」が何であろうと真になる命題関数、つまり必然的な命題関数です。「Ⅹは人間である」なら可能な、「Ⅹは一角獣である」なら不可能な命題関数になります。
★命題は真か偽のどちらかでしかありえませんが,命題関数には以上3つの可能性があります。様相に関する学説で述べられていることは全て命題関数についてのみあて★る、と私は考えます。

One may call a propositional function

necessary, when it is always true;
possible, when it is sometimes true;
impossible, when it is never true.

Much false philosophy has arisen out of confusing propositional functions and propositions. There is a great deal in ordinary traditional philosophy which consists simply in attributing to propositions the predicates which only apply to propositional functions, and, still worse, sometimes in attributing to individuals predicates which merely apply to propositional functions. This case of necessary, possible, impossible, is a case in point. In all traditional philosophy there comes a heading of ‘modality’, which discusses necessary, possible, and impossible as properties of propositions, whereas in fact they are properties of propositional functions. Propositions are only true or false.
If you take ‘x is x’, that is a propositional function which is true whatever ‘x’ may be, i.e. a necessary propositional function. If you take ‘x is a man’, that is a possible one. If you take ‘x is a unicorn’, that is an impossible one.
Propositions can only be true or false, but propositional functions have these three possibilities. It is important, I think, to realize that the whole doctrine of modality only applies to propositional functions, not to propositions.
* a case in point 良い例,適切な例
出典:Bertrand Russell: The Philosophy of Logical Atomism, 1918.
【 La Salle, Illinois; Open Court, c1985, pp.96-97. paperback ed.】

[寸言]
一見わかりにくいと思うかもしれませんが、ゆっくり冷静によめば、大部分の人にわかる、当たり前のことを指摘しています。命題と命題関数との違いをはっきり区別するようにすると、日頃の思考に大きな進歩があるのではないでしょうか?

天空のティーポット a china teapot revolving in an elliptic orbit

teapot_russell いま一つ例をあげて申しますと,地球と火星の間に楕円形の軌道にのって回転している中国製の陶器製のティーポットがないとは誰も証明することができませんが,だからといって,そういうものがあるということが,実際に十分に計算に入れられるべきだなどとは誰も考えません。私は,キリスト教の神も,ちょうどこれと同じように実在しそうもないと考えます。

To take another illustration : nobody can prove that there is not
between the Earth and Mars a china teapot revolving in an elliptic
orbit, but nobody thinks this sufficiently likely to be taken into
account in practice. I think the Christian God just as unlikely.
* elliptic = elliptical (adj.):having the shape of an ellipse
* ellipse (n):楕円,長円
出典:ラッセル『拝啓バートランド・ラッセル様-一般市民との往復書簡』の中の「(ラッセルは)無神論者か不可知論者か」)]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AGNOSTIC.HTM

[寸言]
有名な「天空のティーポット」の喩えです。「~である」ということは、一つでも実例をみつけられれば証明できます。しかし「~でない」ということは、宇宙の「全て」を「一度に」見ることができない以上、理論的に不可能なことです。従って、「~でないなら、それを証明してみろ!」というのは、不当な要求です。(たとえば、甘利氏が賄賂をもらっていないということは証明できません。だから「身の潔白をはらす」なんてできないんです。)
ウィキペディアにも「ラッセルのティーポット」という見出しで解説が書かれています。
即ち、「宇宙のどこかに地球と火星の間を通って太陽を周回するティーポットがあると主張する者が、それは誤りであると誰も証明できないことを根拠にして、周回するティーポットの存在を信じることを求めるのはナンセンスである。(「神の存在」の証明についても同様である。)」という指摘です。

帰納法(機能的推論)の間違い易さ -人類や地球に対する過大な期待?

foolish-thing_foolish-people・・・。家畜は、いつも餌をくれる人の姿を見ると、餌を期待する。こういった斉一性(一様性)に対するいささか粗雑な期待はすべて、まちがいやすいものだということをわれわれは知っている。雛に生まれてからずっと毎日餌をやってきた人間も、最後には餌をやらずにその首をひねてしまう。このことは、自然の斉一性に関してもっと洗練された見解をもっていた方が雛にとって役にたったであろうということを示している。
しかしながら、そうした期待のまちがいやすさにもかかわらず、やはりその期待はある。あることが何度かくりかえして起れば、それだけで,人間や動物にまたそれが起るだろうという期待を抱かせる。このようにして,われわれの本能は、太陽がまた昇るだろうということを信じさせるが、その場合われわれは、思いがけなく首をひねられる雛より以上の地位にいるわけではないのかもしれない。それゆえ、われわれは、過去にあった斉一性が未来に関する期待をひき起すという事実と、その期待の妥当性についての疑問がだされときになおその期待を重視するだけの合理的な理由があるかどうかという問題とを、区別しなければならないのである。

Domestic animals expect food when they see the person who feeds them. We know that all these rather crude expectations of uniformity are liable to be misleading. The man who has fed the chicken every day throughout its life at last wrings its neck instead, showing that more refined views as to the uniformity of nature would have been useful to the chicken.
But in spite of the misleadingness of such expectations, they nevertheless exist. The mere fact that something has happened a certain number of times causes animals and men to expect that it will happen again. Thus our instincts certainly cause us to believe the sun will rise to-morrow, but we may be in no better a position than the chicken which unexpectedly has its neck wrung. We have therefore to distinguish the fact that past uniformities cause expectations as to the future, from the question whether there is any reasonable ground for giving weight to such expectations after the question of their validity has been raised.
出典: The Problems of Philosophy, 1912, cahpt. 6: On Induction]
詳細情報:http://russell-j.com/07-POP06.HTM

[寸言]
almagedon ラッセルのこの「雛がある日突然首を捻られる」話は、よく引用されるものです。
実験科学(応用科学)は、結局この機能的推論によっており、1,000回予想通りだったとしても、1,001回目も同じとは限らない、という宿命的な限界を持っています。こういった分野においては、確率が重要となります。「哲学の問題は確率の問題だ」とまで言う哲学者もいます。人間(人類)は、大きな目で見れば、家畜が置かれた立場とそう異なるわけではない、とも言えそうです。
地球や人類は(太陽がダメになるまでの)あと数十億年は大丈夫か、それともそれは「幻想」にすぎないか? 、人類の運命やいかに!?

哲学者が仕事中にやっていること-他の人間(学者、一般人、その他)との違い

TP-WOW 哲学者は,仕事中に何をやっているのであろうか? これは実に変な質問である。そこで,まず,仕事中の哲学者がやっていないことは何かについて着手することによって,その質問に対し,解答を試みてもよいだろう。私たちの周囲の世界には,私達がかなりよく理解していることがたくさんある。たとえば,蒸気機関の働きを考えてみるがよい。これは機械工学(機械学)と熱力学の分野に属することである。さらにまた,人体がどのように造られ,どのような働きをするかについても,私たちはかなり多くのことを知っている。これは解剖学と生理学で研究される問題である。あるいは最後に,星の動きのような,多くのことのわかっているものを考えてみるといい。これは天文学の表題のもとにある(扱われる)ものである。こういった,境界のはっきりした(十分定義された)知識は全て,諸科学のなかのいずれかに属するものである。

だが,これらの知識の分野(領域)の全ては,それらの周囲をとり巻く未知のものの領域に隣接している。境界領域に入り込み,さらにそれを越えると,科学から思弁の領域へと移っていく。この思弁活動も一種の探究であり,これは,とりわけ,哲学本来のものである。後で分かるように,科学の多くの分野はみな,この意味での哲学的探究として出発したものである。ひとたび1つの科学が,しっかりと基礎が確立すると,それは,境界領域の問題と方法の問題とを除けば,多かれ少なかれ,独立した進みかたをする。しかし,ある意味で,この探究過程はそういうもの(=当初の姿のまま)として進むものではない。それはただ進み続け,そうして新たな仕事を見つけ出すのである。

TPJ-WOW 同時に,私たちは,哲学とその他の各種の思弁とを,区別しなければならない。本来,哲学は,私たちの悩みを解決しようとするものでもなければ,私たちの魂を救おうとするものでもない。哲学とは,ギリシヤ人が言っているように,(他の目的のためでなく)そのもののために行われる,一種の冒険的な観光旅行である。このように(従って),本来の哲学には,原則として,ドグマ(独断的な意見や教義)の問題も,儀式も,いかなる種類の聖なる実体もない。たとえ個々の哲学者が確かに手に負えぬほどドグマ的であることがわかったとしても,である。実際,未知なものに対して取りうる態度には2つある。1つは,書物や神秘に基づいて,あるいはその他の霊感の根源に基いて,自分は知っていると言っている人たちの意見(見解)を,(そのまま)受け入れるやりかたである。今1つは,出ていってみずから探究するやりかたで,これが科学と哲学の方法である
最後に,哲学の固有な特徴を1つあげてよいだろう。誰かに,数学とは何かと質問された場合,私たちは,たとえば,それは数の科学だという辞書の定義を,議論の種として与えることができる。これは,議論に関するかぎり,今さら議論の余地のない陳述であり,その上,質問者が数学を知らなくてもすぐ理解することができるものである。定義は,このように,ひとまとまりの明確な知識の存在する分野なら,いかなる分野についても,与えることができる。しかし,哲学は,このように定義することはできない。いかなる定義にも,議論の余地があり,定義(の提示は)は既に1つの哲学的態度の具現である。哲学とは何かということを見つけ出す唯一の方法は,哲学を実践することである。人びとが従来このことをどのようにやってきたを示すことが本書(The Wisdom of the West, 1959)の主要目的である。

What are the philosophers doing when they are at work? This is indeed, an odd question, and we might try to answer it by first setting out what they are not doing. There are, in the world around us, many things which are understood fairly well. Take, for instance, the working of a steam engine. This falls within the fields of mechanics and thermo-dynamics. Again, we know quite a lot about the way in which the human body is built and functions. These are matters that are studied in anatomy and physiology. Or, finally, consider the movement of the stars about which we know a great deal. This comes under the heading of astronomy. All such pieces of well defined knowledge belong to one or other of the sciences.
But all these provinces of knowledge border on a circumambient area of the unknown. As one comes into the border regions and beyond, one passes from science into the field of speculation. This speculative activity is a kind of exploration, and this, among other things, is what philosophy is. As we shall see later, the various fields of science all started as philosophic exploration in this sense. Once a science becomes solidly grounded, it proceeds more or less independently, except for borderline problems and questions of method. But in a way the exploratory process does not advance as such, it simply goes on and finds new employment.
At the same time we must distinguish philosophy from other kinds of speculation. In itself philosophy sets out neither to solve our troubles nor to save our souls. It is, as the Greeks put it, a kind of sightseeing adventure undertaken for its own sake. There is thus in principle no question of dogma, or rites, or sacred entities of any kind, even though individual philosophers may of course turn out to be stubbornly dogmatic. There are indeed two attitudes that might be adopted towards the unknown. One is to accept the pronouncements of people who say they know, on the basis of books, mysteries or other sources of inspiration. The other way is to go out and look for oneself, and this is the way of science and philosophy.
Lastly, we may note one peculiar feature of philosophy. If someone ask the question what is mathematics, we can give him a dictionary definition, let us say the science of number, for the sake of argument. As far as it goes this is an uncontroversial statement, and moreover one that can be easily understood by the questioner though he may be ignorant of mathematics. Definitions may be given in this way of any field where a body of definite knowledge exists. But philosophy cannot be so defined. Any definition is controversial and already embodies a philosophic attitude. The only way to find out what philosophy is, is to do philosophy. To show how men have done this in the past is the main aim of this book.
出典: Wisdom of the West, 1959, prologue.
詳細情報:http://russell-j.com/cool/55T-PROL01.HTM

[寸言]
哲ちゃん) 「今仕事中で忙しいので邪魔しないでね」
哲の子供) 「何の仕事してるの?」
(哲ちゃん) 「いろいろこと考えている(哲学的思索をしている)んだよ」
(哲の子供) 「え、ぼんやりしてるとしか見えないけど・・・。僕といっしょに遊んでよ」

さて、この哲っちゃん(哲学者)はどんな仕事をしているのでしょうか? というラッセルの問い

論理学は人間の推理の間違いをなくすためには効果的。しかし・・・

SOCRATES 科学的推理はそれが正当であるためには経験によっては確からしいとさえ言えない諸原理を必要とするということは,確率の論理からの不可避の結論である,と私は信じる(注:帰納法の限界及び絶対的真理でないものの確からさは確立が高いか低いかの問題)。それは,経験論(経験主義)にとっては,やっかいな結論である。しかし,私は,この結論は本書(Human Knowledge, 1948)の第二部で行う「知識」の概念の分析によって,もう少し快適な(←味の良い)ものにすることができると考える。「知識」は,私の意見では,一般に考えられているよりずっと不精確な概念であり,大部分の哲学者が進んで認めようとしてきた以上に,言語化されない動物の行動のなかにずっと深く根をおろしているものである。(注:チョムスキーの生成文法の理論に通じるところがある!) 我々の分析が導くところの論理的に基本的な諸仮定は,心理学的には,「ある種の臭いをもったものは食べられる」というような動物に見られる期待の習慣から出発する,一連の長い洗練過程の終端に存在するものである。それゆえ,我々が,科学的推理の要請(基本仮定)を「知っている」かどうかを問うことは,見かけほど確定的な問題ではない。その答は,ある意味では我々は知っており,ある意味では知らない,といったものに違いない。しかし,「知らない」というのが正しい答とするならば,その意味においては,我々は,何であれ何も知らないのであり,この意味では「知識」は幻覚である。哲学者たちが困惑するのは,かなりの程度まで,彼らが幸福な夢から覚めたがらないためである。

That scientific inference requires, for its validity, principles which experience cannot render even probable, is, I believe, an inescapable conclusion from the logic of probability. For empiricism, it is an awkward conclusion. But I think it can be rendered somewhat more palatable by the analysis of the concept of “knowledge” undertaken in Part II . “Knowledge”, in my opinion, is a much less precise concept than is generally thought, and has its roots more deeply embedded in unverbalized animal behaviour than most philosophers have been willing to admit. The logically basic assumptions to which our analysis leads us are psychologically the end of a long series of refinements which start from habits of expectation in animals, such as that what has a certain kind of smell will be good to eat. To ask, therefore, whether we “know” the postulates of scientific inference, is not so definite a question as it seems. The answer must be: in one sense, yes, in another sense, no; but in the sense in which “no” is the right answer we know nothing whatever, and “knowledge” in this sense is a delusive vision. The perplexities of philosophers are due, in a large measure, to their unwillingness to awaken from this blissful dream. From: Human Knowledge, its scope and limits, 1948, introduction. http://russell-j.com/cool/39T-0102.HTM
出典: Human Knowledge, its scope and limits, 1948, introduction.
詳細情報:http://russell-j.com/cool/39T-0102.HTM

[寸言]
知っていると思っていても、いかに確実な知識と言えるものが少ないことか? そうは言っても、できるだけ間違いを少なくして、確からしい推論をしたい。論理学(記号論理学)は,我々の推論や思考が間違っている場合はそれは間違っているということを示してくれる。しかし、論理学が正しいと言っている(保証する)ものは、A=A(同語反復)ということにすぎず、それ自体は無味乾燥なもので思ったほど実際の役にたたず、論理学だけでは不十分である。人間に役立つ、間違いの少ない科学的な推理を行うための基本的な原理は何だろうか。ラッセルは、そこで、『人間の知識』(みすず書房)において、科学的推理のための5つの公準をあげる。

長くなるのでこれでやめておきます。興味のある方は、みすず書房刊の『人間の知識』を公共図書館で借りてお読みください。なお、ウィキペディアにもこの5つの公準が簡単に紹介されています。『人間の知識』の方を読まないとよくわからないだろうと思われますが・・・。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB

哲学と科学と神学との関係 - 三すくみ?

sansukumi_3way 我々が「哲学的」(philosophical)と呼んでいるところの,人生や世界に関する諸概念は,2つの要因から産み出されたものである。1つは,過去から受け継がれてきた宗教的,倫理的概念という要因であり,もう1つは,最も広義の意味で「科学的」(scientific)と呼んでよい種類の研究という要因である。個々の哲学者は,これら2つの要因が彼らの哲学体系に入りこむ割合に関して,非常な相違があったが,とにかくなんらかの程度で,この2つがともに存在していることが,哲学を特徴づけているのである。
「哲学」という語は,ある者は広義な意味で,ある者は狭義の意味でというように,これまで多様な意味で使われてきた。私はそれを非常に広い意味で使うことを提案する。これからその説明を試みよう。
私がその言葉で理解したいところの「哲学」は,神学と科学との中間に位置するものである。神学と同様に,哲学も,これまで明確な知識を主張し得なかったような事柄に関する思弁から成り立っている。しかし,また,哲学は、科学と同様に,伝統という権威であれ,啓示という権威であれ,とにかく権威というものに訴えるよりは,人間の理性に訴えるものである。すべての明確な知識は,科学に属すると,私は主張せざるを得ない。明確な知識をこえる事柄に関するすべての独断は,神学に属している。しかし神学と科学との間には,この両方からの攻撃にさらされている未踏の領域がある。この未踏の領域が哲学である。思弁的な人々にとって最も興味ある問題のほとんど全ては,科学が解答を与え得ないようなものであり,神学者たちの自信に満ちた解答というものは,もはや過去何世紀に渡って持ち得たような説得力を有していないように思われる。

The conceptions of life and the world which we call ‘philosophical‘ are a product of two factors: one, inherited religious and ethical conceptions; the other, the sort of investigation which may be called ‘scientific’, using this word in its broadest sense. Individual philosophers have differed widely in regard to the proportions in which these two factors entered into their systems, but it is the presence of both, in some degree, that characterizes philosophy.
‘Philosophy’ is a word which has been used in many ways, some wider, some narrower. I propose to use it in a very wide sense, which I will now try to explain.
Philosophy, as I shall understand the word, is something intermediate between theology and science. Like theology, it consists of speculations on matters as to which definite knowledge has, so far, been unascertainable; but like science, it appeals to human reason rather than to authority, whether that of tradition or that of revelation. All deflnite knowledge- so I should contend- belongs to science; all dogma as to what surpasses definite knowledge belongs to theology. But between theology and science there is a No Man’s Land, exposed to attack from both sides; this No Man’s Land is philosophy. Almost all the questions of most interest to speculative minds are such as science cannot answer, and the confident answers of theologians no longer seem so convincing as they did in former centuries.
出典: A History of Western Philosophy, 1945, Introduction
詳細情報:http://russell-j.com/cool/38T-0101.HTM

[寸言]
あなたの好む哲学の立場や傾向は?

それが何であるかによって、あなたの欲求や思考傾向がわかる。哲学によって倫理的欲求を満たしたい人、たとえ人間に(あるいは自分に)不利であってもこの世の真実について知りたい人(ただし、何の意味もないというのが結論かも知れない)。あるいは、哲学によって実利を得たい人。それから、哲学を人を支配する道具として使いたい人。

あなたは哲学に何を求めますか?!

哲学者は’真空の中’に存在する(時代の影響を受けない)わけではない!

(ラッセル『西洋哲学史』の序文から)

TPJ-ABR3 多くの哲学史が執筆され存在しているが,私の知る限り,そのいずれも,私が自分に課した目的をもっているとは言えない。哲学者は,結果であるとともに原因である。すなわち哲学者は,彼らが生きた時代の社会的環境及び政治や制度の結果であり,また(もし哲学者が幸運に恵まれれば)後世の政治や制度を形成してゆく諸信念の原因となる。大部分の哲学史においては,個々の哲学者は,真空地帯に現われる。各哲学者の意見は,せいぜい先行する哲学者の意見と関連づけられる以外は,まったく他のもの(社会環境その他)と無関係に著者によって述べられてゆく。それに反して,私は,真実の許す限り,各哲学者を彼らが置かれた環境の所産として提示するように試みた。また各人の属する社会というものに,アイマイに拡散した形態で共通している思想や感情が集中し結晶したところの人間として,哲学者を呈示しようと努めた(のである)。

There are many histories of philosophy, but none of them, so far as I know, has quite the purpose that I have set myself. Philosophers are both effects and causes: effects of their social circumstances and of the politics and institutions of their time; causes (if they are fortunate) of beliefs which mould the politics and institutions of later ages. In most histories of philosophy, each philosopher appears as in a vacuum; his opinions are set forth unrelated except, at most, to those of earlier philosophers. I have tried, on the contrary, to exhibit each philosopher, as far as truth permits, as an outcome of his milieu, a man in whom were crystallized and concentrated thoughts and feelings which, in a vague and diffused form, were common to the community of which he was a part.
出典: A History of Western Philosophy, 1945, preface.
詳細情報:http://russell-j.com/cool/38T-PREF.HTM

[寸言]
個々の哲学者の思想は,その哲学者の思想の発展・展開の歴史の形で,あるいは哲学者間の相互影響という観点で,記述され,説明されることが多い。つまり,固有・特有の時代に生きた一人の人間の思想ではなく,あたかも時代を超えた真空状態で,思想が形成されたかのような記述や説明が多い。個々の哲学者は時代の産物という側面もあるので,時代から影響を受けるとともに,(力のある哲学者の場合は)時代に影響を与えた,というように両側面から見る必要がある,というラッセルの指摘
その思いが『西洋哲学史』として結実し,今でも世界中で読み継がれている。

ラッセルのやり方を気に入らない哲学者や哲学研究者は,ラッセルの哲学史は「読み物」であり,独断的な決め付けが多いと非難するが,無味乾燥かつオリジナリティの乏しい論文を書くことが「学術的」だと考える人は、大学でのみ生き残ることができる。彼らは哲学研究者であっても哲学者ではない,というのは言い過ぎだろうか?

人間の五感がまったく関与しない「客観的な」科学など存在するだろうか?

ANDROMED科学の聖典は -その最も正典として(規準的なものとして)認められた形で- 物理学(生理学を含む)の中に具体的に表現されている。物理学は我々に次のことを保証している。即ち,「対象物の知覚」とは,対象物から出る(始まる)長い因果の連鎖の終端における出来事であり,せいぜい,非常に抽象的な意味で似ていると言えるかもしれないが- 対象物(自体)とは似ているとは思えないものである。我々は, 素朴実在論 -即ち,事物は見える通りのものであるという学説- から出発する。草は緑色をしており,石は固く,雪は冷たいと思っている。しかし,物理学によれば,草の緑,石の固さ,雪の冷たさというものは,われわれが経験から知っている緑や固さや冷たさではなく,それとはずっと異なったものである。観察者は, 自分では石を観察していると思っている時, 実際は -物理学を信ずべきとすれば- 彼自身に対する石の影響を観察しているのである。そうだとすると,科学は,それ自身と戦っているように思われる。つまり,科学は,最大限客観的であろうとする時,意に反して主観に陥ってしまっていることがわかる。素朴実在論から物理学が導かれるが,その物理学に従って考えると,物理学が真なら,素朴実在論は偽だということになる。すると,素朴実在論は,それが真であるなら,同時にそれは偽であるような代物ということになるので,結局,素朴実在論は偽である。ここから考えると,★行動主義者は外的世界について観察を記録していると思っていても,実は,自分自身の中で起っていることを記録しているのである★。

Scientfic scripture, in its most canonical form, is embodied in physics (including physiology). Physics assures us that the occurrences which we call “perceiving objects” are at the end of a long causal chain which starts from the objects, and are not likely to resemble the objects except, at best, in certain very abstract ways. We all start from “naiive realism“, i.e., the doctrine that things are what they seem. We think that grass is green, that stones are hard, and that snow is cold. But physics assures us that the greenness of grass, the hardness of stones, and the coldness of snow, are not the greenness, hardness, and coldness that we know in our own experience, but something very different. The observer, when he seems to himself to be observing a stone, is really, if physics is to be believed, observing the effects of the stone upon himself. Thus science seems to be at war with itself: when it most means to be objective, it finds itself plunged into subjectivity against its will. Naive realism leads to physics, and physics, if true, shows that naive realism is false. Therefore naive realism, if true, is false; therefore it is false. And therefore the behaviourist, when he thinks he is recording observations about the outer world, is really recording observations about what is happening in him.
出典: An Inquiry into Meaning and Truth, 1940,Introduction.
詳細情報:http://russell-j.com/cool/37T-INTRO02.HTM

[寸言]
外的世界についての観察を(客観的に)記録していると思っていても,実は,自分自身の中で起っていることを記録している」。つまり、「観察者は, 自分では石を観察していると思っている時, 実際は -物理学を信ずべきとすれば- 彼自身に対する石の影響を観察しているのである。」
いや、一人の人間の観察ではなく、非常に多くの人間の観察によっている、と反論する人がいるかも知れない。しかし、その場合でも、やはり、(たとえば、人間よりもっと高等な宇宙人への効果=観察ではなく)、人間に対する効果に基礎をおいていることには代わりはない。
人間の五感がまったく関与しない「客観的な」科学とは何か!? そんなものがあるのだろうか?

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