論理的推論力よりも愛国的感情の方が強い人が少なくない?

(既にどこかで引用したと思われますが・・・/二度見る人はすみません。)

gca_xenophobia 異なった国家政府間の関係が(国際)法によって規制されなければ,即ち,それが人類の一部にどれほど不人気であっても,いかなる国家政府より強力であり,自らの決定を強制できる力で規制されなければ,世界の永続的な平和を望むのは無益である。,驚いたことに,国家主権のほんのわずかでも譲るくらいなら,戦争のあらゆる恐怖にもかかわらず,あえて戦争を選びたいと言われるかもしれない。私は誤った意見だと思うが,この立場は理屈としては考えられる。
しかし,戦争には反対であるが,各国政府が紛争時において自己の立場の’最終的判定者’である現在のシステムに賛成であるという意見には,いかなる’論理の見せかけ’すらないことは確かである。もしも戦争が永久に廃絶されるべきであるならば,抵抗できない軍事力を備えた国際的な政府の樹立以外には不可能であろう。そして戦争の絶滅なしでは,文明は存続しえない。論理的推論力よりも愛国的感情の方が強い人にとっては,これは苦しいジレンマであるが,★戦争廃絶の必要性が知的に理解されなければ,事態の進展によって,悲惨に立証されるであろう。

It is useless to hope for lasting peace in the world until the relations between different national governments are regulated by law, that is to say, by a force stronger than any of the national governments, and able to enforce its decisions, however unpopular they may be with a section of the human race. You may say, if you please, that you prefer war, with all its horrors, to the surrender of one iota of national sovereignty. This is an intelligible position, though, to my mind, a mistaken one. But you cannot say, with any semblance of logic, that you are against war but in favour of the present system, according to which, in a dispute, every government is the ultimate judge in its own case. If war is ever abolished, it will have to be by the establishment of an international government possessed of irresistible armed forces. And if war is not abolished, civilization cannot survive. This is a painful dilemma for those whose patriotic feelings are stronger than their reasoning powers, but if it is not apprehended intellectually it will be disastrously proved by the march of events.
* if you please (古風な使い方で)驚いたことに
出典: Right and Might (written in early of 1930s and pub. in 1975 in Mortals and Others, v.1, 1975.]
詳細情報:http://russell-j.com/SEIGI.HTM

[寸言]
明治の始めに廃藩置県をやったように,廃「主権国家」置「世界連邦」が必要。各国には警察力だけ認めて,他国を攻撃する能力を剥奪し,強力な軍事力は世界連邦政府に集中する必要がある。旧主権国家は世界連邦のなかの自治領のようなものであるから,それぞれの文化や個性は保たれる

(国家主権,特に,戦争を出来る権利を国際政府(あるいは世界連邦政府)に委ねたくないと思う人(「愛国心」にとらわれている人)が少なくない。廃藩置県により,各藩は戦争をする権利や軍事力を放棄したのと同様に,廃「国」置「自治領」して,世界連邦政府をつくり,軍事力を集中させれば,国と国との戦争はなくなるが,そう考えない人が多い。戦争によって人類(の文明)がほろびるのが先か,国家間の戦争をなくすのが先か・・・!?)

国民の生命を守る,というのならよいが,領土を「絶対に」守ると勇ましいことを言う政治家には注意が必要。領土については国によって考え方が違う以上,たとえ自分たちの主張が正しいとしても、「絶対に」という言葉(表現)で酔ってはいけない。本当に「絶対に」ということであれば戦争も辞さないということになり,最初は小競り合いだったものが,エスカレートしていき,非難合戦終始することになる。政治家とともに「愛国心」に燃えた国民も同調し,政治家は国民の支持があるということで、なかなかひけなくなってしまう。・・・。

知恵も増大しないかぎり,知識の増大は悲しみの増大となる

DOKUSH56 大ざっばにいえば,我々(人類)は,手段についての人間の(優れた)技能・技術と,目的についての人間的愚かさとの競争の真っ只中にいる。(仮に)目的に関する十分な愚かさが与えられているとすれば,その目的を達成するために必要ないかなる技能・技術の増大も,事態を悪化させる。人類はこれまで,無知と無能力の故に生き残ってきた。しかし愚かさと結びついた知識と能力とが与えられると,生き残る確実性はまったくなくなる。知識は力である。しかし,それは善いことへ向かう力であるとともに悪しきことへ向かう力でもある。従って,人間が,知識におけると同様,知恵も増大しないかぎり,知識の増大は悲しみの増大となるであろう。

Broadly speaking, we are in the middle of a race between human skill as to means and human folly as to ends. Given sufficient folly as to ends, every increase in the skill required to achieve them is to the bad. The human race has survived hitherto owing to ignorance and incompetence; but, given knowledge and competence combined with folly, there can be no certainty of survival. Knowledge is power, but it is power for evil just as much as for good. It follows that, unless men increase in wisdom as much as in knowledge, increase of knowledge will be increase of sorrow.
出典: The Impact of Science on Society, 1952, chap.7: Can a scientific society be stable?
詳細情報: http://russell-j.com/cool/43T-0701.HTM

[寸言]
善い目的・目標があればこそ,手段の工夫が生きてくる。しかし,目的・目標に問題があれば,手段の工夫がよりまずい事態を生じさせる。
すぐには達成できない大きな目的を達成するために,より達成しやすい目標をたてる。その際,目標は目的を達成するための手段となる。より難しい目標を達成するためには,より実現しやすい目標を設定する。そのうちに高次な目的は忘れ去られ,小さな目標がいつのまにか目的化され,不適切な手段がとられるようになる。現実主義者の陥る危険がここにある。
原発の再稼働,特定秘密保護法,集団的自衛権・・・。

ラッセル曰く:
政治的指導者たちの大部分は,自分たちは利他的欲求のために行動していると多くの人々を信じ込ませてその地位を得ている。そのような信念も,興奮の影響下では一層容易に受け容れられることはよく理解できる。ブラスバンド,集団祈祷,私刑(リンチ)の執行,そして戦争(注:オリンピックの招致,国会議員団による靖国集団参拝,マスコミによる集団リンチ,仮想敵国による国土侵略の恐怖,その他) と,段階を追って興奮は高まる。不合理を唱道する者たちは,どうやら,大衆を興奮状態においておけば,自分たちに都合のよいように彼らをだますずっと良い機会がでてくる,と思っているようである。 (麻生元総理が推奨したナチスの手口も効果を発揮する。)

「知識は力なり」という名言を残した F.ベーコンの時代と現代では状況がかなり変わってしまった。
現代においても「知識は力」(現代であれば,「情報(データ)は力」「ビックデータは力」など)であることには変わりはないが,人類を滅ぼすこと(それを自滅という)ができるほどの「力」となっている。
宇宙のことがいろいろわかってきて,宇宙に出て行くことが多くなってきても,未知のものは無限大であり,星雲の大爆発に比べれば人間の力はいかに小さいことか。
しかし,普段はそのようなことを考えずに,「核抑止力」があるために大きな戦争が起こっていないなどと,人類が核と共存できると考えてしまっている権力者が少なくない。国民の生命よりも国家の主権の確保(実際は為政者のメンツの確保)のほうがずっと重要だとひそかに考えている政治家がけっこういるようであり・・・。

時間配分が間違っている!-無駄な騒ぎが多すぎる

もし毎日30分間黙想し,じっとしていれば,我々は,個人的,国家的,国際的なもろもろのものごとを現在よりももっと正常に取り扱っていけるだろう,と私は確信している。
第一次世界大戦の休戦記念日に,毎年2分間の黙祷が捧げられるだけで,1年の残りの時間のほとんどはせわしげな活動に費やされる。この時間配分は間違いである。もしも静かにしている時間がもっと長ければ,そういった騒ぎも無益さがより減少するだろう。

If we spent half an hour every day in silent immobility, I am convinced that we should conduct all our affairs, personal, national, and international, far more sanely than we do at present.
Two minutes a year, on Armistice Day, are given to silence, and all the other minutes of the year to largely futile bustle. The proportion is wrong; if the silence were longer, the bustle would be less futile.
出典: The decay of meditation (written in Nov. 7, 1931 and pub. in 1975 in Mortals and Others, v.1, 1975.]
詳細情報:http://russell-j.com/MEDITATE.HTM

[寸言]
第一次世界大戦を,8月15日の終戦記念日にしたほうがピンとくるでしょうか?
sendai_ganpatu 東日本大震災や福島原発は今でも頻繁に報道されるので,まだ日本人にとって忘却のかなたにはいっていませんが,神戸大地震などは,テレビや新聞で関連記事が報道されない限り,被害にあった人以外は,すでに忘却の彼方にあります。

大分前のことですが,WBSで,ニュースキャスターの小谷真生子(今の前任者)が原発が再稼働し始めようとしており喜ばしいとそれとなく言っていました。財界のホステスと言われる由縁でしょうか?。美人で感じのよい女性ではありますが,財界人へのリップサービスでしょうか,庶民や弱い立場の人々の気持ちをさかなでするようなことを時々,わざとでしょうか,ボソと言います。

★他人の命★よりも経済を優先して考える人達(←自分は被害にあわないと思っている)は,福島原発のような大事故がもう一度起こらなければ,原発を重視する考えを改めないだろうと思われます。

真っ暗な宇宙から打ち上げ花火を観察すれば(昔の暗い地球の時のお話)

TPJABCR2気球(今なら宇宙船)から祭りの夜を観測すれば

宇宙(天界)を研究する時には,見ることを除いて他のすべての感覚が締めだされます。太陽に触ることはできませんし,太陽まで行くこともできません。いまだを歩きまわることはできませんし(注:1969年になってようやくアポロ11号月面着陸),ましてや,すばる星にものさしをあててみることもできません。それにもかかわらず,天文学者たちは,地球上で役立つことがわかっている幾何学と物理学とを,なんらためらうことなく(これまで)宇宙にあてはめて来ましたが,もともとその幾何学と物理学は,触ることと移動することに基礎を置いていました。そうすることによって,アインシュタインが一掃するまで,苦労の種をみずからにもたらしました。けっきょく,私たちが触るという感覚から学んだ多くのことが,実は非科学的な偏見なのであって,そういう偏見は,真の世界像を得るためには拒否されなければならないということがはっきりしました。
uchu_hanabi 地球上のものごとに興味を持っている人間にくらべて,天文学者が(五感の全てを使えないことから)どれくらい困難をかかえているかを知るには,1つのたとえが役に立つでしょう。いま一時的に無意識になる薬をあなたが服用し,目覚めたときには記憶力を失っていて,推論する能力だけはある,と仮定します。さらに,あなたが気を失っている間に気球に乗せられて,気づいたときには暗い夜空を――イギリスにいるならば11月5日の夜,アメリカならば7月4日*注 の夜を――風を受けて漂っている,と仮定します。すると,あなたには,地上や汽車やあらゆる方向に進む飛行機から打ち上げられる花火が見えるはずです。しかし,暗いので地上や汽車や飛行機は見えません。そういった場合,あなたはどんな種類の世界像を組み立てるでしょうか? 永続的なものはなにもない,即ち,ただあるのはつかの間の閃光だけで,そのはかない存続期間中に,それらの閃光が非常に多様かつ奇怪なカーブを描いて虚空(宇宙空間)を移動する,と考えることでしょう。あなたはこれらの閃光に触ることはできません。ただ見ることができるだけです。明らかにあなたの幾何学,物理学それに形而上学は,(地上にいり)通常の人間たちのそれとはまったく異なったものになるでしょう。かりに通常の人間があなたと気球に乗り合わせていても,あなたには彼のいうことを了解できないでしょう。しかしアインシュタインが一緒にいれば,,あなたは普通の人よりもはるかにたやすくアインシュタインの言うことがわかるでしょう。なぜなら(気球上の)あなたは,多くの人の理解を妨げているいくたの先入観から解放されているからです。
*注:イギリスの11月5日は, Guy Forkes Day(1605年11月5日,議事堂を爆破し,ジェームズ1世と議員の殺害を企てた旧教徒による火薬陰謀事件があったが,その首謀者ガイ・フォークスの奇怪な像をつくり,子どもたちが町内を引き回して夜焼き捨てるお祭り。)アメリカの7月4日は,Independence Day, つまり,独立記念日(1776年)。いずれの日にも花火の打ち上げがある。

In studying the heavens, we are debarred from all senses except sight. We cannot touch the sun, or travel to it; we cannot yet walk round the moon, or apply a foot-rule to the Pleiades. Nevertheless, astronomers have unhesitatingly applied the geometry and physics which they found serviceable on the surface of the earth, and which they had based upon touch and travel. In doing so, they brought down trouble on their heads, which it was left for Einstein to clear up. It turned out that much of what we learned from the sense of touch was unscientific prejudice, which must be rejected if we are to have a true picture of the world.
An illustration may help us to understand how much is impossible to the astronomer as compared with the man who is interested in things on the surface of the earth. Let us suppose that a drug is administered to you which makes you temporarily unconscious, and that when you wake you have lost your memory but not your reasoning powers. Let us suppose further that while you were unconscious you were carried into a balloon, which, when you come to, is sailing with the wind on a dark night―― the night of the fifth of November if you are in England or of the fourth of July if you are in America. You can see fireworks which are being sent off from the ground, from trains, and from aeroplanes travelling in all directions, but you cannot see the ground or the trains or the aeroplanes because of the darkness. What sort of picture of the world will you form? You will think that nothing is permanent: there are only brief flashes of light, which during their short existence, travel through the void in the most various and bizarre curves. You cannot touch these flashes of light, you can only see them. Obviously your geometry and your physics and your metaphysics will be quite different from those of ordinary mortals. If an ordinary mortal were with you in the balloon, you would find his speech unintelligible. But if Einstein were with you, you would understand him more easily than the ordinary mortal would, because you would be free from a host of preconceptions which prevent most people from understanding him.
出典:From: The ABC of Relativity, 1925.
詳細情報:http://russell-j.com/cool/22T-0101.HTM

[寸言]
ラッセルが1925年に出した名著『相対性理論入門』(ABC of Relativity, 1925)は,版を重ね、その後の物理学の進歩にあわせて一部の語句を修正した上で、現在でも(改訂第5版)が出されている。

体制擁護に回りがちな(多額の研究資金を必要とする)科学者

EGAMI 科学が教会の迫害を受けた時代の科学者たち寛大で進歩的であった。(これに対し)現代にあっては,科学者は名誉に包まれ,広く尊敬を受けており,彼らは、通常。体制擁護’に回りがちである。

In the days when science was persecuted by the Church, men of science were liberal and progressive; nowadays, when they are covered with honours and universally respected, they tend to be supports of the satus quo.
出版: Success and Failure (written in Jan. 11, 1932 and pub. in Mortals and Others, v.1, 1975.]
詳細情報:http://russell-j.com/JIYU-KYO.HTM

[寸言]

特に多額の資金が必要な big science においては,権力にたてつくような科学者は,十分な科学研究費や研究開発費を交付してもらうのは難しいので、体制擁護をするか、少なくとも体制を批判することを控えがち。即ち,栄誉・名誉が与えられ,研究費を獲得できるのであれば,自分が属している組織や自分に力や研究資金を与えてくれる権力に従順になりやすい。
たとえば、原子力の研究開発(政府公認の原子力科学)に携わる研究者,医薬品の開発者,軍事技術に資する研究者(注:今年はかなり多くの大学が防衛省からお金をもらいたいために、軍事に役立つ研究申請としている!)、その他いろいろ。

海外、特に米国ではノーベル賞受賞者でさえ,・・・。権力に媚びを売らない科学者はそれほど多くない・・・? (ノーベル物理学賞受賞の)益川さんなどは,貴重な存在。

自分の専門以外のことについても「科学的な」科学者が増えてもらいたい

goyo-kagakusha 本物の科学者に対しては,私は最高度の尊敬を抱いている。本物の科学者は,現代世界において,真に建設的であると同時に,心底から革命的な一つの力である。科学者は,一般の人たちと同様に持っている偏見に関係ない専門的な問題を扱っている場合は,他の誰よりもずっと正しい判断を下す傾向にある。だが,残念ながら,個人的に強い感情を抱いている問題に取り組む場合に,公平無私な立場を維持できる科学者がほとんどいない。

For the genuine man of science I have the highest possible respect. He is the one force in the modern world at once genuinely constructive and profoundly revolutionary. When the man of science is dealing with technical matters that do not touch upon the prejudices which he shares with the average man, he is more likely to be right than anyone else. But unfortunately very few men of science are able to retain their impartiality when they come to matters about which they feel strongly.
出典: Are men of science scientific? (written in Feb. 24, 1932 and pub. in Mortals and Others, v.1, 1975.]
詳細情報:http://russell-j.com/KAGAKSHA.HTM

[寸言]
学問研究の世界は専門分化が極度に進んでおり,自分の専門や自分の専門に近い分野については知識や理解力・判断力はあっても,自分の専門以外についてはお粗末な知識や判断力しか持ちあわせていない人が少なくありません(例:原発,経済政策,歴史教育,その他)。
そのことを自覚しているのならよいですが,「一つの分野を極めれば他の分野でも少し勉強すればかなりの見識を持つことができる」と勘違いしている人がけっこういます。そういった人が強い偏見のもと,テレビなどでいっぱしの意見を言っているのを目撃すると,しらけます。
政府が任命した学識経験者(特に首相を含めた閣僚が任命した「識者」)のなかにそういった人物がいると,しらけるだけではすまず,国民に実害が及びます。
 専門バカも謙虚さを失った科学者も不要・不用であり,真の意味で「科学的な」科学者が増えてもらいたいものです。

政治体制に関係なく,権力の暴走には要注意

TP-P 私の次の著作は,『権力 -新しい社会分析』(1938年刊)であった。この本の中で私は,自由のための領域(を確保すること)は社会主義国家においてさえもいまだ望ましい問題であるが,それは自由主義の用語(自由主義の観点)ではなく,新たに定義しなおす必要があると主張した。私は今なおこの信条を保持している。この本の主題は重要なものに思われ,実際に世の注意を引いている以上に,もっと多くの人々の注意をひいてほしいと願った。 本書は,マルクスと古典派経済学者の両者に対する論駁を意図したものであり,細目についてではなく両者が共有している基本的な仮定について,両者の誤りを指摘した。私は,富よりもむしろ権力(注:政治的権力だけでなく広い意味での権力)が社会理論における基本的な概念であるべきであり,社会正義は,実際に可能な最大限まで権力を平等化することにあると論じた。続いて,もし国家が民主的でないならば,(社会主義国におけるような)土地と資本の国有(化け)はまったく前進とは言えず,また国家が仮に民主的であるとしても,役人(官僚)の権力を抑制する方法がとられた時にのみ前進と言える,と主張した。
私の主題の一部は,バーナム(著)「経営者革命」(注:Burnham’s Managerial Revolution)の中にとりあげられ,普及した。しかし,それがなければ,この本はむしろ失敗に終わっていたと言ったほうがよいだろう。けれども,私は,もし全体主義の害悪が回避さるべきものとすれば,-特に社会主義政権下においては- 『権力』における私の主張はきわめて重要性を持っている,という考えを今なお抱いている。

My next piece of work was Power: A New Social Analysis. In this book I maintained that a sphere for freedom is still desirable even in a socialist state, but this sphere has to be defined afresh and not in liberal terms. This doctrine I still hold. The thesis of this book seems to me important, and I hoped that it would attract more attention than it has done. It was intended as a refutation both of Marx and of the classical economists, not on a point of detail, but on the fundamental assumptions that they shared. I argued that power, rather than wealth, should be the basic concept in social theory, and that social justice should consist in equalization of power to the greatest practicable degree. It followed that State ownership of land and capital was no advance unless the State was democratic, and even then only if methods were devised for curbing the power of officials. A part of my thesis was taken up and popularized in Burnham’s Managerial Revolution, but otherwise the book fell rather flat. I still hold, however, that what it has to say is of very great importance if the evils of totalitarianism are to be avoided, particularly under a Socialist regime.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 5: Later Years of Telegraph House, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB25-060.HTM

[寸言]
権力(悪)の問題は、単なる一部の悪徳政治家や官僚等による汚職などの問題としてではなく、権力そのものが有している危険性に対処することの重要性(権力者は必ず腐敗する、従って常に相互チェックする仕組みを埋め込まないとダメ)という視点で考えないといけない、ということ。その監視を抜けるためには、権力者にとって、特定秘密保護法や非常事態対処法や憲法の恣意的解釈は好都合。

1920年にロシア共産主義を批判する本を出版

TPJ-PTB 私たち(ラッセルと翌年正式に結婚するドーラ)は,ポルト(Portos)という名前のフランス汽船に乗って,マルセイユから中国まで船旅をした。(しかし)ロンドンを離れる直前になって,同船で伝染病(ペスト)が発生したために,出航が3週間延期されるということがわかった。だが私たちは,お別れの言葉を二度言うようなことはしたくなかったのでパリに行き,そこで3週間を過ごした。このパリ滞在中に私は,ロシアに関する著書(The Practice and Theory of Bolshevism)を書き終えた。そうして,大変躊躇した後,その本の出版を決意した。ボルシェヴィズム(ロシア共産主義)への反対意見を述べることは,当然のことながら,ロシア革命に反対する者(反動側)を利することであり,私の友人たちの大部分は,ロシアについてはロシア(革命)に好意的なものでない限り自分の考えを言ってはならない,という見方をしていた。けれども私は,第一次世界大戦期間中,愛国者たちからの同様の議論(注:自国がたとえ間違っていても,自国の誤りを指摘することは敵国を利することになる。大英帝国万歳!)に耐えた(という経験がある)し,長い目で見ると,沈黙を守ることによってはいかなる良い目的も達成されないだろうと,私には思われた。私とドーラとの個人的関係の問題は,当然のことながら,事態をいっそう複雑にしていた。ある暑い夏の夜,彼女が寝てしまってから私は起き上がり,ホテルの部屋のバルコニーに坐り,夜空の星を凝視した。私は,熱した党派的感情から離れて,冷静に問題を理解しようと努めた。そして,カシオペア座と語りあっている自分を想像した。私には,ボルシェヴィズム(ロシア共産主義)について私が考えていることを発表しないよりは発表する方がずっと星との調和を保てるだろうと思われた。そこで私は,執筆を続け,私たちがマルセイユに向かって出発する前夜にその本を書き終えた。

We travelled to China from Marseilles in a French boat called Portos. Just before we left London, we learned that, owing to a case of plague on board, the sailing would be delayed for three weeks. We did not feel, however, that we could go through all the business of saying goodbye a second time, so we went to Paris and spent the three weeks there. During this time I finished my book on Russia, and decided, after much hesitation, that I would publish it. To say anything against Bolshevism was, of course, to play into the hands of reaction, and most of my friends took the view that one ought not to say what one thought about Russia unless what one thought was favourable. I had, however, been impervious to similar arguments from patriots during the War, and it seemed to me that in the long run no good purpose would be served by holding one’s tongue. The matter was, of course, much complicated for me by the question of my personal relations with Dora. One hot summer night, after she had gone to sleep, I got up and sat on the balcony of our room and contemplated the stars. I tried to see the question without the heat of party passion and imagined myself holding a conversation with Cassiopeia. It seemed to me that I should be more in harmony with the stars if I published what I thought about Bolshevism than if I did not. So I went on with the work and finished the book on the night before we started for Marseilles.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 3: China, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB23-010.HTM

[寸言]
民主主義国であれ、社会主義国(あるいは共産主義国)であれ、理念がどんなに素晴らしくても、権力を握った集団は、必ず、その理念に反する強権政治や情報統制を行うようになる。
ラッセルには有名な権力に関する本(Power, 1938)があるが、ラッセルは早くから権力の問題の重要性を指摘(権力は常に監視しなければならない、権力はできるだけ分散させなければならない、権力には必ずチェック機構が必要だとの主張)をしてきた。

共産主義国であろうが、民主主義国であろうが、「民主主義の手続き」(麻生元副総理が推奨した「ナチスの手口」)によって、しだいに独裁へと進んでしまう。特定秘密保護法、教育基本法、憲法の解釈変更に続いて、テロ対策のための非常事態措置法、憲法への非常事態対処のための国民の権利の制限へと進んでいく危険性があるが、気がついた時にはもう遅いということにならないか!?

新しい政治哲学の提唱-「所有衝動」よりも「創造衝動」を基本とすべし

CAXTON-H 1915年(注:ラッセル43歳)の夏,私は『社会再建の原理』という書名の本を,--アメリカでは,私の同意なく 「人はなぜ戦うのか」(Why Men Fight)というタイトルに変えられた本- を執筆した。私には『社会再建の原理』のような本を書くつもりはなかった。そして,その本は,私が以前書いたいかなる本とも,まったく趣きを異にしており,自然な(自発的かつ無意識的な)やり方で生み出されたものであった。事実,書き終えてしまうまで,それがどのようなものになるか,自分にも全くわからなかった。その本には,1つの骨組みと(一定形式に表現された)信条(松下注:この後に書いてあるように,「人間生活の形成において,意識的な目的よりも衝動の方がより影響力をもつという信条」)があったが,最初と最後の言葉を除いて,全部を書き終えてから,ようやく両者(骨組みと信条)に気がついたしだいである。その本の中に,私は,人間生活の形成において,意識的な目的よりも衝動の方がより影響力をもつという信条に基づいた’政治哲学’を提示した。私は,衝動を,所有的衝動と創造的衝動の,2つのグループに分け,’最善の生活’は大部分創造的衝動の上に築かれると考えた。私は,所有的衝動が具現化された実例として,国家,戦争,貧困をあげ,創造的衝動の実例として,教育,結婚,宗教をあげた。創造性の解放(発揮)’が’,改革の原理’であるべきであると,私は確信していた。私は,当初,この本を(数回の)講演用として献じたが,後になって出版した。驚いたことに,たちどころに成功をおさめた。私は,読まれるだろうという期待はまったくなしで,ただ信条の告白として,本書を執筆した。しかし,この本は,私に大金をもたらし,その後の私の所得の基礎をおいた。
(写真は、ラッセルが「社会再建の原理」について連続講演を行ったロンドンの Caxton Hall

During the summer of 1915 I wrote Principles of Social Reconstruction, or Why Men Fight as it was called in America without my consent. I had had no intention of writing such a book, and it was totally unlike anything I had previously written, but it came out in a spontaneous manner. In fact I did not discover what it was all about until I had finished it. It has a framework and a formula, but I only discovered both when I had written all except the first and last words. In it I suggested a philosophy of politics based upon the belief that impulse has more effect than conscious purpose in moulding men’s lives. I divided impulses into two groups, the possessive and the creative, considering the best life that which is most built on creative impulses. I took, as examples of embodiments of the possessive impulses, the State, war and poverty; and of the creative impulses, education, marriage and religion. Liberation of creativeness, I was convinced, should be the principle of reform. I first gave the book as lectures, and then published it. To my surprise, it had an immediate success. I had written it with no expectation of its being read, merely as a profession of faith, but it brought me in a great deal of money, and laid the foundation for all my future earnings.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 1:The First War, 1968]
詳細情報http://russell-j.com/beginner/AB21-090.HTM

[寸言]
本書(Principles of Social Construction の邦訳は、大正時代の多くの日本の知識人に影響を与えました。与謝野晶子・鉄幹夫妻、もその中の一人。R落穂拾いでかつてご紹介したものを、以下転載してご紹介します。

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『与謝野寛+与謝野晶子『鉄幹晶子全集・第19巻』(勉誠出版,2005年8月刊)
* 与謝野晶子(よさの・あきこ,1878-1942):明治を代表する歌人で,女性解放運動家。日露戦争の時に歌った『君死にたまふことなかれ』は有名。

* 与謝野晶子は,ラッセルが Principles of Social Reconstruction, 1916 で述べた(所有衝動をできるだけ少なくしていき)「創造衝動をできるだけ増やす努力をする生活」の重要性について言及しています。(同書まえがきより:「最良の生活とは,その大部分がさまざまな創造衝動に基づいて築かれた生活であり,最悪の生活とは,その大部分が所有欲に発しているような生活である,と私は考えます。」) 。

[pp.113-117:与謝野晶子「欲望の調節」(1918年9月)]
(p.114)・・・。欲望に単一なものがあり,複合的なものがあり,それが無限に新しく起伏するのですから,厳密に分類することは不可能ですが,学問上の便宜から之に対し学者に由っていろいろの分類があります。
独逸のシユモラア(Gustav von Schmoller, 1838-1917:ドイツの経済学者)は(一)自存衝動,(二)性的衝動,(三)行動衝動,(四)認識衝動,(五)競争衝動,(六)営利衝動の六種に分け,露西亜のツウガン・バラノヴスキイ(Mikhail Ivanovich Tugan-Baranovsky,1865-1919:ロシアの経済学者)は(一)自己保存並に感覚的快楽を求むる生理的欲望,(二)性欲,(三)同情的衝動,(四)利己・利他的衝動,(五)無関心的衝動の五種に分けました。また英国のバアトランド・ラッセルは(一)創造衝動,(二)所有衝動の二種に大別して,最も多く創造衝動が働き,最も少く所有衝動が働いておる処に最も好い生活が開展して行くと,云って居ります。バラノヴスキイの謂ゆる五種の分類の第一である生理的欲望の実現を直接の目的として,物質の生産及び分配を条件とする経済行為が社会生活の死命を制するまでに法外に優勢を加へつつある現代は,欲望造化の過程に於てまだ非常に低い生活時代にあると,云わねばなりません。現代の生活は,ラッセルに従へば,所有衝動が最も多く働いて居る生活です。シユモラアに従へば自存衝動と営利衝動との上に築かれた生活です。バラノヴスキイの謂ゆる無関心的衝動が抑圧され,シユモラアの謂ゆる行動衝動と認識衝動とが沈滞してゐる生活です。
無関心的衝動とは経済に対して無関心である欲望と云ふ意味です。夫婦の愛も其れ,親子の愛も其れ,学問,芸術,宗教等も其れ。すべて精神的であって,他の欲望の手段とならず,欲望其れ自身を目的として其れの満足を以て終結するものを云ふのです。ラッセルの創造衝動と云ひ,シユモラアの行動衝動とは之を云ふのです。・・・。
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婦人参政権の主張の急速かつ完璧な勝利以上に驚くべきものは他にほとんど見あたらない

Women'sSufflage この問題(注:婦人参政権)に関するジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806-1873/ミルはラッセルの名付け親)の著作を思春期に読んで以来,私は,男女同権の熱烈な擁護者であった。それは,私の母が1860年代に婦人参政権(女性参政権)のための運動をずっと行っていたという事実を知るようになる数年前のことであった。文明世界全体を通して,この大義(婦人参政権の主張)の急速かつ完璧な勝利以上に驚くべきものは,他にほとんど見あたらない。それほど成功した事柄に,私も一定の役割を果たしたということは,嬉しいことである。

I had been a passionate advocate of equality for women ever since in adolescence I read Mill on the subject. This was some years before I became aware of the fact that my mother used to campaign in favour of women’s suffrage in the ‘sixties. Few things are more surprising than the rapid and complete victory of this cause throughout the civilised world. I am glad to have had a part in anything so successful.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 6: Principia Mathematica, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB16-180.HTM

[寸言]
(以下長目の引用ですが、凝縮した文章であり、熟読すべき文章だと思われます。「知的忘恩」や「先人の努力に対する忘恩」は世界中によくみられる現象です。)

市井三郎氏曰く
「わが国で、「近代的」な考え方だとされていることどもは、数多くある。たとえば男女は法的に平等に扱われるべきであり、人間性を抑圧することなく素朴に幸福と感じられることを相互に増進するのがよきことであり、宗教その他の禁忌によって性(セックス)をタブー化すべきではなく結婚制度を神聖化して離婚や再婚それ自体を非難するのはマチガイであり、そのような神聖化をたてまえとしながら、裏ではたてまえの禁ずる欲望にひそかにふける、といった慣行はいっさい排除すべきであり、その種の慣行が教育の実際に、権威主義的にはびこることが、人間の内奥に歴史的に形成された悪しき情熱を永続させることになり、ひいては侵略戦争とか植民地化といった国際的な抑圧形態までを生じさせる要因となる。だから「たてまえ・ほんねの二重分裂」や「偽善」、またいっさいの「権威主義」を排除しなければならない
逆にいえば、外部の権威にたよってではなく、「自分の内面の確信」によって行為を決めねばならないといった考え方ほ、西欧にあっても近代というよりは、二十世紀に入ってようやく社会的に流通するようになった考え方である。
さらに西欧ではとっくの昔に社会慣行になっていたはずだ、とわが国で信じられがちな★民主主義なるもの★も、国内の政治制度としては(たとえば英国でも)ようやく前世紀終りころに労働者階層にまで選挙権がひろげられた。だがそれも男性に対してだけで、イギリス成人女性がすべて参政権を得たのは、よりおくれて1928年(フランス女性の場合は1945年)である。さらに★国際的な民主主義★となると、ずっとおくれる。西欧諸国の政府が「権力政治的な外交政策」を強固にとりつづけたのは周知のとおりであり、一般人民のものの見方も、「自国内の民主主義的慣行」を国外にまでひろげて考える、といった姿勢からは長く縁遠かったのである。
その一般人民の考え方に変化が起り始めたのは、きんきん過去半世紀あまりのことにすぎない。まさに★バートランド・ラッセルは、今世紀のその数十年のあいだに、英国の一般の人々の考え方や慣行に以上のような変化を起させるために、最大の闘いをたたかった思想家・実践者だったといえるだろう。」
【『人類の知的遺産:ラッセル』(講談社,1980年2月)pp.2-3)】

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