死線をさまようラッセルを助けるべきか!?ーキリスト教徒の看護婦

[以下は,ロシアから帰国後、1921年の夏まで約1年間、北京大学の客員教授として中国を訪問した時に死にかけたラッセルの思い出]

BR-DB20 ・・。私たちがようやく家に着く頃には,私は正に重病になっていた。私に何が起こっているのか認識できる時がくるまで,私はずっと譫妄状態だった。私はドイツ人経営の病院に運ばれ,その病院では,昼間はドーラ(右写真:中国服を着たドーラ)が私を看病し,夜は北京にたった一人しかいなかった専門の英国人看護婦が私を看護した。2週間の間,医師団は毎晩,朝までには私は死ぬだろう,と考えた。私は,この時のことは,2,3の夢を除いて何一つ記憶していない。譫妄状態を脱した時,私は,自分がどこにいるのかわからなかったし,その看護婦のことも誰なのか認識できなかった。ドーラ(注:英国帰国後に結婚することになる恋人)は,私がずっと危篤状態で死にそうな状態であった,と語った。それに対し,私は「それは大変面白い!」と応えた。しかし私は非常に衰弱していたので5分後にはそれも忘れてしまい,彼女はまたも同じやりとりを繰り返さなければならなかった。私は自分の名前すら思い出せないほどだった。そのような譫妄状態が終わってからも,一ケ月間は,いつ死ぬかもしれない状態だと言われ続けたが,私は彼らの言うことは一言も信じなかった。
私のために見付けてくれた看護婦は,専門職としてかなり抜きん出ており,第一次世界大戦中はセルビアの病院で看護婦長を務めていた。その病院は全てドイツ人に占領され,看護婦たちはブルガリアに移された。彼女は,ブルガリア王妃とどんなに親しい間柄になったかということを,まったく疲れをみせずに,私に語った。彼女は深い宗教心を持った女性であった。そうして,彼女は,私が快方に向かった時,私を死なせることが彼女の責務ではないのかどうか真剣に考えた,と私に話してくれた(松下注:キリスト教徒としては,反キリスト教徒で無神論者のラッセルを助けずに死なせるべきだが,専門職としての看護婦としてはラッセルを助けるべきであったので,どちらを優先すべきか迷ったという意味.)。彼女の職業的訓練が,彼女の道徳感よりもずっと強力であったことは,私にとって幸運だった。

By the time we finally got home, I was very ill indeed. Before I had time to realise what was happening, I was delirious. I was moved into a German hospital, where Dora nursed me by day, and the only English professional nurse in Peking nursed me by night. For a fortnight the doctors thought every evening that I should be dead before morning. I remember nothing of this time except a few dreams. When I came out of delirium, I did not know where I was, and did not recognise the nurse. Dora told me that I had been very ill and nearly died, to which I replied: ‘How interesting’, but I was so weak that I forgot it in five minutes, and she had to tell me again. I could not even remember my own name. But although for about a month after my delirium had ceased they kept telling me I might die at any moment , I never believed a word of it. The nurse whom they had found was rather distinguished in her profession, and had been the Sister in charge of a hospital in Serbia during the War. The whole hospital had been captured by the Germans, and the nurses removed to Bulgaria. She was never tired of telling me how intimate she had become with the Queen of Bulgaria. She was a deeply religious woman, and told me when I began to get better that she had seriously considered whether it was not her duty to let me die. Fortunately, professional training was too strong for her moral sense.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 3: China, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB23-090.HTM

[寸言]
R-GOHO 革命直後のロシア訪問から帰国してしばらくすると、中国の北京大学から客員教授になってほしいとの招待状がラッセル宛に届いた。ロシアの現状をありのままに書いた著作によって非難を浴びていたところであったので、ラッセルは快諾し、恋人のドーラとともに約1年間、中国に行くことになる
上記の文章は、1921年3月初旬にインフルエンザにかかり、死線をさまよった時の思い出を書いたものである。
聞記者に対応するドーラの沈鬱な様子を見て、日本の新聞記者は「ラッセル死亡」の誤報を打ったために、そのニュースは世界中に伝わり、ラッセルは生きながらに自分の死亡記事を読むという貴重な経験をすることになる。

革命直後のロシア(1920年)-アストラハンの場合

[以下は,1920年に、革命直後のロシアに,英国労働党代表団に同行して訪問した時のラッセルの思い出です。]

Astrakan-now_google アストラハン(右写真:Astrakhan/ヴォルガ川下流域デルタに位置するアストラハン地方の首都でカスピ海岸から約90kmのところにある。/出典:Google map)  は,私がそれまでに想像したいかなるものよりもひどい地獄のようなところだと思われた。その町の給水は,アストラハンに入ってくる船舶が廃棄物を捨てる川の場所と同じところからとられていた。どの通りにも腐敗した泥水がたまり,それが何百万という蚊を繁殖させた。毎年,住民の三分の一がマラリアにかかった。下水道システム(排水処理システム)がまったくなく,街の真ん中の目立つ場所に,排泄物(糞便)の山ができていた。ペストが風土病のように流行していた。。我々がアストラハンに到着した少し前に,デニキン(Anton Ivanovich Denikin, 1872-1947:ロシア反革命軍の指導者)に叛逆する内乱が起こり,戦闘が行われていた。蝿がとてつもなくたくさん飛んでいたために,食事時には,食べ物の上にテーブル・クロースをかけ,そうしてテーブルクロスの下に手を入れて,一口分の食べものをすばやく取り出さなければならなかった。テーブル・クロースが落ちるやいなや,蝿がたかって完全に真黒になり,そのため食べ物は何一つ見えなくなった。アストラハンの土地は,海面よりもかなり低く,気温は日陰でも華氏120度(注:摂氏になおすと48.9度)もあった。

Fly_4Astrakan seemed to me more like hell than anything I had ever imagined. The town water-supply was taken from the same part of the river into which ships shot their refuse. Every street had stagnant water which bred millions of mosquitoes; every year one third of the inhabitants had malaria. There was no drainage system, but a vast mountain of excrement at a prominent place in the middle of the town. Plague was endemic. There had recently been fighting in the civil war against Denikin. The flies were so numerous that at meal-time a table-cloth had to be put over the food, and one had to insert one’s hand underneath and snatch a mouthful quickly. The instant the table-cloth was put down, it became completely black with flies, so that nothing of it remained visible. The place is a great deal below sea-level, and the temperature was 120 degrees in the shade.
[From: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 2:Russia, 1968]
http://russell-j.com/beginner/AB22-150.HTM

[寸言]
革命直後のロシアの現状を知りたいと、英国労働党の代表団に同行したラッセル。最初はロシアに希望を見出そうとして訪問(レーニンとも会見)したが、実際目撃したのは、ロシアの厳しい現実・現状であった。

TP-PTB 英国帰国後、ロシア共産主義(Bolshevism)の理論と実際(やロシアの現状)についてありのままに書くことを決意。それが 1920年に出された The Practice and Theory of Bolshevism (みすず書房版の邦訳書名『ロシア共産主義』)であり、ロシア共産主義の問題点をはっきりと指摘したために、ロシア革命シンパから大きな非難を浴びた。

ラッセルは(穏健な)社会主義者であったが、そうであるからこそ、権力の問題を甘く見ているロシア共産主義(ボルシェヴィズム)の誤りを指摘せずるを得なかったのである。即ち、資本主義であろうと、社会主義あるいは共産主義であろうと、権力の問題(権力は必ず腐敗するので監視が必要)を重大に考えない政治理論は大きな欠陥があると、明確に自覚していたのである。

「正当な」遺産相続と「不当な」遺産相続ーラッセル家の場合

donation_jar_full_of_coin 金銭上(家計上)の観点から言っても,終戦(第一次世界大戦の終結)は非常に好都合であった。『プリンキピア・マテマティカ』を書いている間は,(利益がでない純粋にアカデミックな意義のある仕事をしている間は)(父の)遺産で生計をたてることは正当化されると思っていたが,さらに祖母が遺してくれた資産も自分のものにすることは正しくないと感じた。そこでその金額に相当するお金は全て寄付することとし,一部はケンブリッジ大学(本部)へ,一部は(ケンブリッジ大学)ニューナム・コレッジヘ,残りは種々の教育目的のために寄付した(*注1)。そうして社債T.S.エリオットにあげ,手放して以後,私の手許に残った不労所得は,年約百ポンドだけになった。それだけは私の婚姻継承的不動産処分(marriage settlement)のためのものであったので,なくすることができなかった(*注2)。
このこと(収入は年100ポンドのみという状態)は --私は著作でお金を稼げるようになっていたので-- たいした事だとは思われなかった。けれども,刑務所内においては,数学に関する著作は許されていたが,お金を得られるような本を書くことは許されなかった。そのために,もし,チャールズ・サンガーや何人かの他の友人が,私にロンドンにおける哲学の講師(講演者)の仕事を世話してくれなかったら,私が出所してきた時は,ほとんど一文無しの状態になっていたであろう。終戦とともに,私は再び執筆で収入を得ることができるようになった。以後,--滞米時に時々経済的に苦しい時はあったが(注:1939年にカリフォルニア大学の客員教授をやめてバーンズ財団に雇われる1940年末までは経済的に困窮した。)--,それ以外には,深刻な経済的な困難に陥ることはまったくなかった。
(注1:トリニティ・コレッジではなく,なぜ女子校のニューナム・コレッジ(ニューンハム・コレッジ)に寄付したのか不詳。祖母か,亡き母の関係だろうか)
(注2)marriage settlement:不動産譲渡の性質をもった継承的不動産処分。婚姻することを条件として婚姻の前に婚姻当事者の双方または一方,あるいは両親や親族が設定するもの(『研究社新英和大事典』より/参考:イギリス不動産法の単純化と土地移転の簡易化)

From a financial point of view also the ending of the War was very advantageous to me. While I was writing Principia Mathematica I felt justified in living on inherited money, though I did not feel justified in keeping an additional sum of capital that I inherited from my grandmother. I gave away this sum in its entirety, some to the University of Cambridge, some to Newnham College, and the rest to various educational objects. After parting with the debentures that I gave to Eliot, I was left with only about £100 a year of unearned money, which I could not get rid of as it was in my marriage settlement. This did not seem to matter, as I had become capable of earning money by my books. In prison, however, while I was allowed to write about mathematics, I was not allowed to write the sort of book by which I could make money. I should therefore have been nearly penniless when I came out but for the fact that Sanger and some other friends got up a philosophical lectureship for me in London. With the end of the War I was again able to earn money by writing, and I have never since been in serious financial difficulties except at times in America.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 2:Russia, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB22-010.HTM

[寸言]

Cartoon boss man looking greedily at a pair of money bags.
Cartoon boss man looking greedily at a pair of money bags.

大部分の人は高額な遺産を受け取ることはない。そうして、もしも高額な遺産をもらったり、高額な宝くじが当たったら、「一部を寄付をします!」と言ったりする(人が少なくない)。しかし、そう言う人でも、「実際に」寄付をする人は少ない。

ラッセルは,収入を得られない学術研究に専念するために「遺産」を活用することは許されるだろうが、自分が安楽に暮らすために(労働せずに)遺産を使うことは不当だと考え、そのような余分な遺産は全て社会的目的のために寄付をした。
 もし多額の遺産を相続するようなことがあった場合、あなたならどうしますか? 執筆だけで生計をたてることはできないので・・・?

今後(第一次大戦以上の)最悪の事態がやってくるだろう(1931年時点での予想)

DOKUSH60 第一次世界大戦が終わった時,自分がそれまでやってきたことは,自分自身に対して以外,まったく何の役にもたたなかったことがわかった。私はたった一人の人間の生命を救うことさえも,また戦争を一分たりとも短縮することもできなかった。ヴェルサイユ条約をもたらす原因となった敵意(bitterness)を減らすためにいかなることもなすことに成功しなかった。
かし,ともかくも私は,すべての交戦国が犯した罪の共犯者ではなかったし,また,自分のためには,新しい人生観(philosophy)と新しい青春を得た。私は,大学教師であることと厳格な人間ピューリタン)であることから解放された。以前はまったくもっていなかった本能的なプロセス(本能が働くプロセス?)を理解することについて学んだ。また,非常に長い間孤立していたことから(独自の立場を貫いたことから),ある種の心の平静さ身に着けた
休戦期間中,人々はアメリカのウィルソン大統領に大いに期待を抱いた。他の人々は,ボルシェヴィキ・ロシア(革命ロシア)に霊感を見出した。しかし,これら2つの楽観主義の源のいずれも,私にとって,何の役にも立たないことがわかった時に,それにもかかわらず,絶望に陥らないでいることができた。今後,最悪の事態がやってくるだろうということは,慎重に検討した上での私の予想である(ラッセル注:ここの部分は,1931年に書いたものである) しかし,私はそのことを理由に人間(の男女)は,究極的には,本能的な喜びの単純な秘訣を学ぶだろうという信念を捨てることはしない。

When the War was over, I saw that all I had done had been totally useless except to myself. I had not saved a single life or shortened the War by a minute. I had not succeeded in doing anything to diminish the bitterness which caused the Treaty of Versailles. But at any late I had not been an accomplice in the crime of all the belligerent nations, and for myself I had acquired a new philosophy and a new youth. I had got rid of the don and the Puritan. I had learned an understanding of instinctive processes which I had not possessed before, and I had acquired a certain poise from having stood so long alone. In the days of the Armistice men had high hopes of Wilson. Other men found their inspiration in Bolshevik Russia. But when I found that neither of these sources of optimism was available for me, I was nevertheless able not to despair. It is my deliberate expectation that the worst is to come,’ but I do not on that account cease to believe that men and women will ultimately learn the simple secret of instinctive joy.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 1:The First War, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB21-350.HTM

[寸言]
XENOPHOB 第一次世界大戦に勝利した連合国は,支払い不可能な賠償金をドイツに課した。当初期待された国際連盟も,アメリカは国内の反対が強く加盟せず,弱体であり,ラッセルは第一次世界大戦よりも残酷な世界大戦が起こるだろうと予測した。
因みに、ラッセルは1921年に訪日した時に,土田杏村にいずれ日本とアメリカは戦うことになるだろう(そして日本は敗ける),と暗い見通しを述べている。)
http://russell-j.com/beginner/ochibohiroi.htm#r2009-97

獄中で「嫉妬心」に苦しんだラッセル

CONSTAN3 コレット(注:写真。コンスタンス・マレソン夫人)に出会ってまもない頃(注:1911年秋からラッセルは妻と別居状態)は,コレットに対する私の愛がいかに真面目なものであるか,私は気づいていなかった。(コレットに出会うまでは)私の真剣な感情は,オットリン(注:モレル夫人)に全て捧げられていると,常に考えていた。コレットは,オットリンに比べずっと若く,オットリンほど名士ではなく,オットリンよりも軽薄な快楽をより享受できたので,私は自分の感情をまだ信ずることができず,半ば軽い火遊び(情事)をしていると思っていた。

I did not know in the first days how serious was my love for Colette. I had got used to thinking that all my serious feelings were given to Ottoline. Colette was so much younger, so much less of a personage, so much more capable of frivolous pleasures, that I could not believe in my own feelings, and half supposed that I was having a light affair with her.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 1:The First War, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB21-210.HTM

[寸言]
コレットやオットリンには夫がおり、ラッセル同様、「自由恋愛論者」であった。第一次世界大戦に対する反戦活動を通じ、ラッセルはコレットと親しくなり、いわば「同士」であった。ラッセルの反戦集会での演説の時には,一番前の席にコレットは陣取っており、自然に親しくなり、ついには恋人同士になった。

SITTO ラッセルは反戦活動のために、約5ケ月間、ブリクストン刑務所に入れられるが、コレットに別に恋人ができたことを聞き、入獄中のラッセルは何もできず,「嫉妬」に苦しむことになる。「自由恋愛論者」であるならば、コレットがラッセル以外に恋人を作っても「嫉妬心」などおこさずに認めるべきであろうが、頭では理解しても感情の面ではできず、医者に睡眠薬を処方してもらわないと眠れない状態となった。

ラッセルは1930年に『幸福論』を出すが、その中で「ねたみ(嫉妬心を含む)」は克服すべき悪い感情だとしているが、それはラッセルがコレットやオットリンなどに対する「嫉妬心」を克服した後の境地をまとめたものであった。(だから、ラッセルは「嫉妬心」といった人間的な感情が欠けているとか、『幸福論』には嫉妬心は卑しむべき感情だと書きながら嫉妬心に悩まされているのは「言行不一致」だという批判は、的はずれである。)

「理性の奴隷(?)」(ラッセル) 対 デマゴーグ(D.H.ロレンス)

Lawrence-1912 最初,私が D. H. ロレンスに惹きつけられたのは,彼のある種の精力的な性格(特質)や,人が当然のことと考えがちな仮定(憶説)に挑戦する(異議を唱える)彼の習癖であった。私はすでに,不当に(必要以上に)「理性の奴隷」になっていると非難されるのに馴れていた。そうして,彼は私に活気を与える一服の不合理を与えてくれるものと考えた。事実,私はある一定の刺激を彼から受けた。また,彼を知らずに書いた本の出来よりも,彼からの猛烈な非難にもかかわらず書いた本の出来の方がより良かったと思う。
 しかしこれは,言うまでもなく,彼の思想の中に,何かよいものがあったということではない。私は,いま振り返ってみると,彼の思想に何らかの長所があったとは思わない。それらは,世間がすぐに自分の言うことに従わないからといって立腹する神経質な専制君主気取りの人間’の思想にすぎなかった。他人も(自分と同じように)実在しているということがわかると,彼は彼らを憎悪した。彼は大部分の時を,彼自身の想像の孤独な世界に住んでおり,その世界には彼が望んだ通りにどう猛な亡霊たちが住んでいた。彼は過度に性(セックス)を重視したが,それは,性(セックス)においてのみ,この宇宙で彼だけが唯一の人間ではないことを認めざるを得ないという事実に因るものであった。しかし性(セックス)は彼にとってとても苦痛であったので,彼は,性的関係をお互いが相手を破滅させようとする永遠の闘争であると思い描いた。

What at first attracted me to Lawrence was a certain dynamic quality and a habit of challenging assumptions that one is apt to take for granted. I was already accustomed to being accused of undue slavery to reason, and I thought perhaps that he could give me a vivifying dose of unreason. I did in fact acquire a certain stimulus from him, and I think the book that I wrote in spite of his blasts of denunciation was better than it would have been if I had not known him.
But this is not to say that there was anything good in his ideas. I do not think in retrospect that they had any merit whatever. They were the ideas of a sensitive would-be despot who got angry with the world because it would not instantly obey. When he realised that other people existed, he hated them. But most of the time he lived in a solitary world of his own imaginings, peopled by phantoms as fierce as he wished them to be. His excessive emphasis on sex was due to the fact that in sex alone he was compelled to admit that he was not the only human being in the universe. But it was so painful that he conceived of sex relations as a perpetual fight in which each is attempting to destroy the other.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 1:The First War, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB21-150.HTM

[寸言]
日本にも D. H. ロレンスを礼賛する文学者や愛好家がけっこういますが、仮にロレンスが身近な人間であったとしてもそれらのひとがロレンスを「礼賛」するかは疑問です。
ロレンスは橋本徹と同様のデマゴーグです。橋本徹に対して当てはまると思われるラッセルの次の言葉は,ロレンスにも当てはまると思われます。否、この言葉は、ラッセルがロレンスやニーチエなどを念頭に書いたのかも知れません。

hasimoto_toru02「天才になるための秘訣の最重要要素の一つは,非難の技術の習得である。あなた方は必ず,この非難の対象になっているのは自分ではなくて他人であると読者が考えるような仕方で非難しなければならない。そうすれば,読者はあなたの気高い軽蔑に深く感銘するだろうが,非難の対象が他ならぬ自分自身だと感じたと同時に,彼はあなたを粗野で偏屈だと非難するだろう。」
One of the most important elements of success in becoming a man of genius is to learn the art of denunciation. You must always denounce in such a way that your reader thinks that it is the other fellow who is being denounced and not himself; in that case he will be impressed by your noble scorn, whereas if he thinks that it is himself that you are denouncing, he will consider that you are guilty of ill-bred peevishness.
出典: How to become a man of genius (written in Dec. 28, 1932 and pub. in Mortals and Others, v.1, 1975.]
詳細情報:http://russell-j.com/GENIUS.HTM

ラッセルにおける「回心」-内省の5分間の後、帝国主義者から平和主義者に

kaisin そうした内省の5分間が過ぎた時,私はまったく違った人間になっていた。しばらくの間,一種の神秘的な’啓示’が私を捉えた。私は,通りで会うあらゆる人々の’心の奥底の思い’がわかるように感じた。それはもちろん錯覚ではあるが,しかし実際に,友人すべて及び知人の多くの人々の心に,以前よりもずっと親密に触れあえるのがわかった。それ以前は帝国主義者であったが,その5分間の間に,ボーア人の味方となり,平和主義者となった。長年の間,ただ’精確さ’と’分析’をのみ好んできたが,(5分の内省の後)美に対する半ば神秘的な感情,子供に対する強い関心,また,(苦しい)人生を堪えることができる何らかの哲学を見いだしたいという’釈迦’(ブッダ)の場合と同じような深い望みに満たされている自分を発見した。不思議な興奮が私を捉えた。それには,大きな苦痛が内に含まれてはいたが,また同時に,自分は苦痛を支配することができ,その苦痛を’叡智への門’とすることができる --私はその時そう思ったのであるが--,という事実ゆえに,一種の勝利感すら含まれていた。その時たしかに自分は所持していると思った’神秘的な洞察力’もその後かなり色あせ,分析の習慣が再び自己主張し始めた。しかしあの瞬間に確かに自分が悟ったと思うことの幾つかは,いつも心の底に残り,それが,第一次世界大戦中の私の態度,子供への興味,小さな不幸に対する無頓着,及び,私の人間関係すべてにおけるある’感動しやすい情的な傾向’を,私にもたらしたのである。

budhaAt the end of those five minutes, I had become a completely different person. For a time, a sort of mystic illumination possessed me. I felt that I knew the inmost thoughts of everybody that I met in the street, and though this was, no doubt, a delusion, I did in actual fact find myself in far closer touch than previously with all my friends, and many of my acquaintances. Having been an Imperialist, I became during those five minutes a pro-Boer and a Pacifist. Having for years cared only for exactness and analysis, I found myself filled with semi-mystical feelings about beauty, with an intense interest in children, and with a desire almost as profound as that of the Buddha to find some philosophy which should make human life endurable. A strange excitement possessed me, containing intense pain but also some element of triumph through the fact that I could dominate pain, and make it, as I thought, a gateway to wisdom. The mystic insight which I then imagined myself to possess has largely faded, and the habit of analysis has reasserted itself. But something of what I thought I saw in that moment has remained always with me, causing my attitude during the first war, my interest in children, my indifference to minor misfortunes, and a certain emotional tone in all my human relations.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 6: Principia Mathematica, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB16-040.HTM

[寸言]
EVELYN2 ラッセルは,1901年春(ラッセル29歳の時)、(好意をよせていた)ホワイトヘッド夫人が心臓病で苦しんでいる姿を目の当たりにしながら何も助けてあげられないという体験から、人間の孤独をしみじみと感じ、帝国主義的な考え方から平和主義的な考え方に「回心」する。
ここでの「平和主義」は「理論的な」また「絶対的な」平和主義者ではなく,「心情的な」,「平和を優先する」という意味での平和主義
ラッセルは後に,ヒットラーを打倒するために,第2次世界大戦を支持したことから,「平和主義者」として一貫していないと非難された。それに対しラッセルは,防衛のための戦争の中にはやむを得ないものもあることから,「自分は’理論的な’絶対平和主義者であったことは一度もない」と弁明した。
しかし,アメリカに続いてソ連も核兵器を保有するようになってからは,特に1953年のビキニの水爆実験以後は,いかなる小規模な戦争も核戦争に発展する可能性があるということで,’実質的な’平和「主義者」として,死ぬまで反戦・反核活動に尽力した。

夫婦で毎年(約15年間)イタリア旅行をした(できた)という優雅な暮らし

Italy-Map 私たち(ラッセルと妻アリス)は,2年続けて,ヴェニス(Venezia ベネチア)でを過ごした。そうして私は,ヴェニスの隅から隅まで知り尽くした(道路の敷石という敷石のほとんど全てを知りつくすほどになった)。初婚(1894年12月)の日から第一次世界大戦の勃発にいたるまでの間,イタリアに行かなかった年はなかったように思う。時には徒歩で,時には自転車で旅行した。一度はヴェニスからゼノア(Genova ジェノヴァ)までの全ての小さな港に寄港する不定期貨物船で旅行した。私は特に,より小さくまたより辺鄙なところにある町やイタリア半島を縦断するアペニン山脈の山並み(眺望)を愛した。第一次大戦勃発後は,1949年まで,私はイタリアに戻らなかった。
(下の写真は,ラッセルが訪れたイタリアのフィゾーレここで有名な, A Free Man’s Worship を執筆した。)

FiesoleWe spent two successive autumns in Venice, and I got to know almost every stone in the place. From the date of my first marriage down to the outbreak of the first war, I do not think any year passed without my going to Italy. Sometimes I went on foot, sometimes on a bicycle; once in a tramp steamer calling at every little port from Venice to Genoa. I loved especially the smaller and more out-of-the-way towns, and the mountain landscapes in the Apennines. After the outbreak of the war, I did not go back to Italy till 1949.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 5: First marriage, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB15-190.HTM

[寸言]
「初婚(1894年)の日から第一次世界大戦の勃発にいたるまでイタリアに行かなかった年はなかった」(注:ただし夫婦で行ったのは別居にいたる1911年秋まで?)なんて、「優雅」でうらやましい限り。・・・。

最初の著作は学界の主流派や権威に楯突かないほうが後々都合よし

ドイツ社会主義についての私の講義は、1896年(ラッセル24歳の時)に出版された。これは、私の最初の著書(注:German Social Democrat/邦訳は、河合秀和訳『ドイツ社会主義』)であったが、私は数理哲学に専念しようと決心していたので、この著作に大きな関心をもたなかった。私は、特別研究員資格取得のための学位論文を書き直し、ケンブリッジ大学出版部に引きうけてもらい、1897年に、『幾何学基礎論』(An Essay on the Foundations of Geometry)という書名で出版した。後に私は、この本はあまりにカントよりであると考えるようになったが、私の最初の哲学に関する著作が、当時の正統派に対し異議を唱えなかったということは、私の名声のためには幸いなことであった。カントを批判する者はすべて、カントを理解し損ねたものとして簡単に片付けてしまうのが、当時の学界(英国哲学会/学者仲間)の慣例であった。また、こうした批判に反駁をあびせるにあたって、私が以前カント(Immanuel Kant, 1724-1804)に賛成していたことがあるという事実は、’何かと好都合’であった(注:皮肉です)。この本は、実際のところ、その価値以上に、高く賞賛された。それ以後、学界の批評家たちは、一般的に言って、その後続けて出版した私の著書について、’(以前の著作よりも)質が低下している’と言ったものである。

TP-GSDMy lectures on German Socialism were published in 1896. This was my first book, but I took no great interest in it, as I had determined to devote myself to mathematical philosophy. I re-wrote my Fellowship dissertation, and got it accepted by the Cambridge University Press, who published it in 1897 under the title An Essay on the Foundations of Geometry. I subsequently came to think this book much too Kantian, but it was fortunate for my reputation that my first philosophical work did not challenge the orthodoxy of the time. It was the custom in academic circles to dismiss all critics of Kant as persons who had failed to understand him, and in rebutting this criticism it was an advantage to have once agreed with him. The book was highly praised, far more highly in fact than it deserved. Since that time, academic reviewers have generally said of each successive book of mine that it showed a falling-off.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 5: First marriage, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB15-120.HTM

[寸言]
TPJ-GSD 「ドイツ社会民主主義論」(German Social Democracy)は,1896年にラッセルが24歳の時の著作ですが、この内容は創設されたばかりのロンドン経済学校(現在のロンドン大学の前身)において、最初の講師として、6回に渡って講義されたものです。
数学者・論理学者及び哲学者であるラッセルの最初の著作が社会思想関係の著作であったとういのは驚きですが、ラッセル家は昔から政治に関係している(たとえば、祖父は英国首相を2度務めたジョン。ラッセル)ことから考えれば、驚くほうがおかしいのかも知れません。実際ラッセルが(若い時を含め)一番読んだ本は文学及び歴史書であり、社会科学に関する豊富な知識(祖父母を通じての実際的な知識も含め)をもっていました。
なお、 German Social Democracy, 1896(みすず書房版の邦訳書名『ドイツ社会主義』)について、経済学者の(故)高橋正雄氏は、下記のページにあるように、『フェビアン研究』に寄稿した論文のなかで激賞し、詳しく解説をしています。
http://russell-j.com/cool/TAKAHASI.HTM

最初の妻(アリス)に感謝 -生涯のうちで、知的に最も実り多い時期

ALYS-BER 最初の結婚とともに、私は非常に幸福かつ実り多い仕事のできる時期に入った。感情(情緒)の上でのトラブルはまったくなく、私の全エネルギーは知的な仕事の方面に注がれた。結婚の初期の時期を通して、数学と哲学の両方にわたって幅広く読書をした。私は、ある一定量のオリジナルな研究を成し遂げ、後年進める他の研究への基礎を据えた。海外旅行をし、時間のある時は、主として歴史関係の大量の堅実な読書をした。妻と私は、夕食後、交互に音読するのを習慣とし、私たちは、そのようにして、おびただしい数の標準的な巻数の多い歴史書をこつこつと読んだ。このようにして読んだ最後の歴史書は、グレゴロヴィウスの「ローマ市史」(全8巻)であったように思う。この時期は、私の生涯のうちで、知的に最も実り多い時期であり、それを可能にしてくれた最初の妻に、恩があり感謝している。(写真:結婚して間もないラッセル夫妻/初婚相手は5歳年上のアメリカ人女性)

With my first marriage, I entered upon a period of great happiness and fruitful work. Having no emotional troubles, all my energy went in intellectual directions. Throughout the first years of my marriage, I read widely, both in mathematics and in philosophy. I achieved a certain amount of original work, and laid the foundations for other work later. I travelled abroad, and in my spare time I did a great deal of solid reading, chiefly history. After dinner, my wife and I used to read aloud in turns, and in this way we ploughed through large numbers of standard histories in many volumes.
出版: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 5: First marriage, 1967]
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[寸言]
このような幸せな状態(結婚生活)は10年間も続かなかった。即ち、1901年秋に、突然、ラッセルは妻アリスのことを愛していないことに気づき、愕然とすることになる。
しかし、生涯のうちで、知的に最も実り多い時期を過ごせたのは最初の妻(アリス)のおかげだと、ラッセルは『自伝』で、アリス(ラッセル『自伝』執筆時には既に故人)に感謝の念を述べている。

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