「人の喜びを我が喜びとする。」


So excited to see daddy!
So excited to see daddy!

現代の親は,我が子が親の前でも,親がいないときと同様に,のびのびしていて欲しいと願っている。即ち,親(自分)が子ども(たち)の方にやってくるのを見たら,子どもに喜んで欲しいと,親は望んでいる.(コメント欄にある指摘を受けて修正しました。)

親が子供を監視しているときには安息日のよぅな静けさを装い,背を向けるやいなや,伏魔殿(のような大騒ぎ)になることを望んではいない。親にとって,子供の真の愛情をかち得ることは,人生から与えられるいかなる喜びにもまして,大きな喜びである。

BR-1956The modern parent wants his children to be as unconstrained in his presence as in his absence ; he wants them to feel pleasure when they see him coming ; he does not want a fictitious Sabbath calm while he is watching, succeeded by pandemonium as soon as he turns his back. To win the genuine affection of children is a joy as great as any that life has to offer.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 9: Punishment
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE09-090.HTM

[寸言]
(訳注)「He (= The modern parent) wants them to feel pleasure when they see him coming.」 は,岩波文庫版の安藤訳『幸福論』では「親がくるのを見れば喜んで欲しいと願っている」と,また,みすず書房版の魚津訳『幸福論』では,「子どもたちが親のくるのをみて喜んでくれるように願っている」と訳されている。これは誤訳ではないか?
↑これは私の早とちりです。コメントされた方が言うとおりですので、訳を修正させていただきました。(なお、「人の喜びを我が喜びとする。 」はそのまま(正解)ですね。)

「「人の喜びを我が喜びとする。」」への2件のフィードバック

  1. いつも拝見させていただいております。日々のルーティンになり、大変役立っています。

    さて、誤訳か否かの件ですが、ここのトピックを面白くするために、松下さんが意図的に誤訳をされているのではないでしょうか。ここは素直に訳されてみてはどうでしょう。翻訳者の両訳は、表現は異なりますが、意味するところは同じで、これで良いのだと思います。

    1.  ご指摘ありがとうございます。
       ご指摘のとおり、私の早とちりです。
       「人の喜びを我が喜びとする。」というのは、子どもにとっても同じ(親の気持ちを敏感に感じ取る子ども)ですので、文章を変えれば、同様の主張ができると思われます。
       ご指摘ありがとうございます。
       また、早とちりをするようでしたら、ご指摘ください。

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