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第15章 権力と道徳律 n.7

これ(バジョットの述べていること)は,真理でありかつ重要である。君主政社会の団結を容易にするものである。その理由の第一は,抽象的なものに対してよりも一個人に忠誠を感ずるほうが難しくないからである。理由の第二は,王権(kingship)は,その永い歴史の中で,新しい制度ではまったく起こさせることのできない崇拝の感情を徐々に蓄積してきたからである。世襲の君主政が廃止されたところでは,長期間たってからあるいは短期間後に,通例(君主制以外の)何らかの形のワンマン政治(独裁制)によって引き継がれてきた。(たとえば)古代ギリシアの僭主政治,ローマ帝国(の皇帝),英国(イングランド)のクロムウェル,フランスのナポレオン一族,今日のスターリンやヒトラー(による独裁制である)。こういった人たちは,以前(昔)王位(royalty)に付着していた(attached to 結合していた)様々な感情の一部を受け継いでいる(のである)。(たとえば)ロシアの裁判の被告の告白の中に,最も古めかしくかつ伝統的な絶対君主政にふさわしいだろうような,支配者に対する服従の道徳を受容していることに気づくと面白い(興味深い)。しかし,新しい独裁者は,よほど非凡な人間でもないかぎり,世襲の君主たちがかつて享受したのと同様の宗教的崇拝を(人民に)吹きこむことはほとんど不可能である。 

Chapter 15: Power and Moral Codes, n.7
This is both true and important. Monarchy makes social cohesion easy, first, because it is not so difficult to feel loyalty to an individual as to an abstraction, and secondly, because kingship, in its long history, has accumulated sentiments of veneration which no new institution can inspire. Where hereditary monarchy has been abolished, it has usually been succeeded, after a longer or short time, by some other form of one-man rule : tyranny in Greece, the Empire in Rome, Cromwell in England, the Napoleons in France, Stalin and Hitler in our own day. Such men inherit a part of the feelings formerly attached to royalty. It is amusing to note, in the confessions of the accused in Russian trials, the acceptance of a morality of submission to the ruler such as would be appropriate in the most ancient and traditional of absolute monarchies. But a new dictator, unless he is a very extraordinary man, can hardly inspire quite the same religious veneration as hereditary monarchs enjoyed in the past.
 出典: Power, 1938.
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第15章 権力と道徳律 n.6

 王(国王)は,ジョージ一世に至るまで,宗教的な崇拝の対象であった。 王の周囲には神聖な垣根がはりめぐらされており 反逆者は中を覗いてみることだけで それ以上のことはほとんど何もできない (シェイクスピア『ハムレット』第三幕第五場) 「反逆」という言葉は,共和政体下においてさえ,やはり,少し不敬の香りがする。英国(イングランド)においては,政府は忠誠の伝統によって大いに利益を得ている。ヴィクトリア時代の政治家は,グラッドストーン氏(William Ewart Gladstone, 1809年-1898年:ヴィクトリア朝中期から後期にかけて,4度首相を務めた。)でさえ,ヴィクトリア女王を決して(1日でさえ)首相不在の状態に置かないように取り計らうことは政治家としての義務であると感じていた(注:see to it 取り計らう)。権威に従う義務は,いまだ,多くの者によって元首(sovereign 君主)に対する義務と感じられている。これは次第に衰えつつある感情であるが,その感情の衰えとともに,政府はより安定性を欠くようになり(不安定になり),右翼または左翼の独裁政権がより起こりそうになる。  バジョットの『英国憲法』は,いまだ一読の価値がある書物であり,以下のように,君主政治の議論を始めている。 「威厳のある地位にある女王の効用は測りがたいものである。女王がいなければ,現在の英国政府は失敗し,消え去ってしまうであろう。大部分の人々は,(ヴィクトリア)女王がウィンザー城の坂道を歩いた(散歩した)とかプリンス・オブ・ウェイルズ(皇太子=ウェールズ公)がダービーに出かけられたというようなこと(記事)を読む時,小さなつまらない事柄にあまりにも多すぎる思考や注目が与えられていると思い描いてきた(想像してきた)。しかし,彼らがそう考えてきたことは間違っている。それに,(退位した)皇太后の行動やいまだ職をもたない青年(プリンス)の行動がいかにして重要なものになるか(と)追跡することは気持ちのよいことである。君主政が強力な政体(政治体制)である最良の理由は,君主政が解り易い政体だということである。人類の大多数は,この政治体制を理解し,また,世界のいかなるところにおいても,これ以外の政体をほとんど理解できない(のである)。人は想像力によって支配されるとよく言われれる。しかし,人は想像力の弱さ(貧困)によって支配されると言ったほうが,より真実に近いであろう。」

Chapter 15: Power and Moral Codes, n.6
Kings, until George I, were objects of religious veneration. There’s such divinity doth hedge a king, That treason can but peep the thing it would, Acts little of his will. The word “treason,” even in republics, has still a flavour of impiety. In England, government profits much by the tradition of royalty. Victorian statesmen, even Mr. Gladstone, felt it their duty to the queen to see to it that she was never left without a Prime Minister. The duty of obedience to authority is still felt by many as a duty towards the sovereign. This is a decaying sentiment, but as it decays government becomes less stable, and dictatorships of the Right or the Left become more possible. Bagehot’s English Constitution – a book still well worth reading – begins the discussion of the monarchy as follows : The use of the queen, in a dignified capacity, is incalculable. Without her in England, the present English Government would fail and pass away. Most people when they read that the queen walked on the slopes at Windsor – that the Prince of Wales went to the Derby – have imagined that too much thought and prominence were given to little things. But they have been in error; and it is nice to trace how the actions of a retired widow and an unemployed youth become of such importance. The best reason why Monarchy is a strong government is, that it is an intelligible government. The mass of mankind understand it, and they hardly anywhere in the world understand any other. It is often said that men are ruled by their imaginations; but it would be truer to say that they are governed by the weakness of their imaginations.
 出典: Power, 1938.
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第15章 権力と道徳律 n.5

 男性のための道徳(男性用の道徳)と女性のための道徳(女性用の道徳)との違い(差異)の基礎となっているものは,男性の(女性に対する)腕力の優越性であることは明らかである。もともとは,その(男性の)優越性は肉体的な優越性だけであったが,そこから次第に,経済や政治や宗教における優越性へと拡大していった(のである)。この場合(事例)においては,道徳の警察(力)に対する長所(強み)は非常にはっきりしているように見える。というのは,女性は,つい最近に至るまで,男性支配を具現化(具体化)した道徳的教えを心から信じていたのであり,従って,そうした道徳が無かったならば必要であったであろう(女性に対する)強制が,はるかに少なくてすんだからである。  ハムラビ法典は,(法典の)制定者(立法者)の目から見れば女性は重要ではないことを示す一つの興味深い例を与えている。(即ち)ある男が,ある紳士の妊娠中の娘をなぐり,その結果その娘が死んだ場合には,なぐった男の娘が死刑に処せられなければならない,と(ハンムラビ)法典に定められている(注:いわゆる「目には目を歯には歯を」の原則」)。その紳士と殴った男の間においては,これは正当である。(つまり)処刑される娘は,後者(殴った父親)の単なる所有物に過ぎないのであり,自分の利益のために自分の命(の保持)を主張する権利をまったく持っていない。また,その紳士の娘の殺害において,殴った男は,紳士が法律違反の罪があるのは,その殴られた娘に対してでなく,その紳士に対してなのである。(つまり)娘たちにまったく権利がなかったのは,彼女たちがまったく権力を持っていなかったからである。

Chapter 15: Power and Moral Codes, n.5
The basis of the difference between morality for men and morality for women was obviously the superior power of men. Originally the superiority was only physical, but from this basis it gradually extended to economics, politics, and religion. The great advantage of morality over the police appears very clearly in this case, for women, until quite recently, genuinely believed the moral precepts which embodied male domination, and therefore required much less compulsion than would otherwise have been necessary. The code of Hammurabi gives an interesting illustration of the unimportance of women in the eyes of the legislator. If a man strikes the daughter of a gentleman when she is pregnant, and she dies in consequence, it is decreed that the daughter of the striker shall be put to death. As between the gentleman and the striker, this is just; the daughter who is executed is merely a possession of the latter, and has no claim to life on her own account. And in killing the gentleman’s daughter the striker is guilty of an offence, not against her, but against the gentleman. The daughters had no rights because they had no power.
 出典: Power, 1938.
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第15章 権力と道徳律 n.4

 これと同じようなことが女性の服従に関して起こっている(happened 起こった/親に対する服従,夫に対する服従/昔の日本では,「女三界に家なし」)。(動物の場合)オスの肉体的力の(メスに対する)優越性は,大部分の場合,メスを絶えず服従させることには導かない。なぜなら,(動物の)オスは(常にメスを服従させないといけないという)恒常的な目的(constancy of purpose)を十分に持っていないからである。人間の間では,女性の服従は,未開人の間でよりも,一定の文明水準においてずっと完全なものである(注:文明が一定水準に達すると女性の服従はより完全なものになる)。また服従(というもの)は常に道徳によって強化される。聖パウロは次のように言っている。「男は神のイメージ(姿/像)でありかつ神に栄光を与えるものである。だが,女は男に栄光を与えるものである。というのは,男は女から生まれたものではなく,女は男から生まれたからである。(即ち)男は女のために造られたのではなく,女は男のために造られたのである。(注:聖書によれば,イブはアダムの肋骨から神が造ったことになっている)」(『コリント前書』第11章 第7-9節) このことから、妻は夫に従うべきであり,浮気(unfaithfulness 不実/不貞)は夫の場合より妻の場合によりいっそう悪い罪となる,ということになる。確かに,キリスト教は,理論の上では,姦通(不義密通)を神に対する罪であるという理由で,両性(男女)どちらの場合にも等しく罪深いと考えている。しかし,このような見解は,実際上,(一般には)あまり流布しなかった,キリスト教以前の時代には,理論上でさえ,考えられたことはなかった。既婚婦人との姦通(不義密通)は邪悪であるとされたが,それはその婦人の夫に対する攻撃だからであった。しかし,女性の奴隷と戦争捕虜は彼らの支配者(ご主人様)の合法的な財産であり,それらの女性と性交することに対しては非難されることはまったくなかった。このような見解は,信心深いキリスト教徒の奴隷所有者によって抱かれており,-ただし、彼らの妻はそのような見解を抱いてはいなかった- 19世紀のアメリカにおいてさえ、抱かれてきたのである。

Chapter 15: Power and Moral Codes, n.4 The same sort of thing happened in regard to the subjection of women. The superior strength of male animals does not, in most cases, lead to continual subjection of the females, because the males have not a sufficient constancy of purpose. Among human beings, the subjection of women is much more complete at a certain level of civilization than it is among savages. And the subjection is always reinforced by morality. A man, says St. Paul, “is the image and glory of God: but the woman is the glory of the man. For the man is not of the woman; but the woman of the man. Neither was the man created for the woman; but the woman for the man” (I Corinthians xi.7-9) It follows that wives ought to obey their husbands, and that unfaithfulness is a worse sin in a wife than in a husband. Christianity, it is true, holds, in theory, that adultery is equally sinful in either sex, since it is a sin against God. But this view has not prevailed in practice, and was not held even theoretically in pre-Christian times. Adultery with a married woman was wicked, because it was an offence against her husband; but female slaves and war-captives were the legitimate property of their master, and no blame attached to intercourse with them. This view was held by pious Christian slave-owners, though not by their wives, even in nineteenth-century America.
 出典: Power, 1938.
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第15章 権力と道徳律 n.3

 まず(親に対する)孝行から(検討を)始めよう。今日(でも)親が年を取りすぎて働けなくなると,親を食肉用として売る未開人が存在している(注:本書出版の1938年当時のことです)。文明の発達のある段階で,誰か異常に深謀遠慮の人(の頭/の心)に,自分が年取った時に自分を生かしておくように導くような気持ち( a state of mind 心理状態)を,子供がまだ幼い内に,子どもたち(の心)に植えつけることができる,という考えが浮かんだに違いない。恐らく,その人(深謀遠慮の人)は,すでに自分の両親は処分されてしまっている人であったであろう(注:従って,自分はあのように扱われたくないという思いから・・・)。(慣例を無視する)自分の破壊的な意見を支持してくれそうな人々(party 一団)を生み出す際に,単に,彼は思慮分別(prudence)という動機だけに訴えかけたというのは疑わしい(I doubt)。私の考えるところでは,彼(その深謀遠慮の人)は,人権とか,(肉ではなく)果物を主食とすることの長所(注:frugiferous は frugivorous (実を常食とする)の誤字か?),子供たちのために働いてすり減ってしまった老人に道徳的な罪はないこと(など)を訴えたのではないかと思う(suspect ~ではないかと疑う/doubt と suspect との違いに注意) 多分,当時,やせ衰えてはいたけれどもとても賢い老人がいて,その老人の助言が老人の肉体よりもより価値があると思われたのであろう(注:老人を食肉用として売って得る利益よりも老人のアドバイスの方が価値ありとの認識)。それは(以上のことは)ともかくとして(However it may be),(その後)親は食べる(食肉用にする)よりも,敬意を表すべきであると思われるようになった。(今日の)我々にとって,文明時代初期の父親に対する敬意は過剰であると思われるけれども,年老いた親を食に供するという儲けになる行為に終止符を打つのにはよほど強力な制止物が必要だったということは記憶しておかなければならない。それから(and so),モーゼの十戒は,父母に敬意を払わなければ(あなたは)若死するであろうと示唆し,古代ローマの人々は親殺しを最も凶暴な罪だと見なし,孔子は親孝行を道徳の真の基礎にした(ことなど)を理解している(見出している)。こうしたことは,本能的かつ無意識的なものであったとしても,子供たちが無力である初期の時代を超えて,親の権力を引き延ばそうとする一つの工夫(方策)である。もちろん,親の権威は,親による財産の所有によって強められてはきたが,しかし,親孝行というものがなかったならば,若い人々は,父親が弱ってしまった後,(家畜である)羊や牛の群を自由に扱わせておかなかったであろう(認めなかったであろう)。

Chapter 15: Power and Moral Codes, n.3
Let us begin with filial piety. There are savages at the present day who, when their parents grow too old for work, sell them to be eaten. At some stage in the development of civilization, it must have occurred to some man of unusual forethought that he could, while his children were still young, produce in them a state of mind which would lead them to keep him alive in old age; presumably he was a man whose own parents were already disposed of. In creating a party to support his subversive opinion, I doubt whether he appealed merely to motives of prudence; I suspect that he invoked the Rights of Man, the advantages of a mainly frugiferous ( frugivorous ?) diet, and the moral blamelessness of the old who have worn themselves out labouring for their children. Probably there was at the moment some emaciated but unusually wise elder, whose advice was felt to be more valuable than his flesh. However this may be, it came to be felt that one’s parents should be honoured rather than eaten. To us, the respect for fathers in early civilizations seems excessive, but we have to remember that a very powerful deterrent was needed to put an end to the lucrative practice of having them eaten. And so we find the Ten Commandments suggesting that if you fail to honour your father and mother you will die young, the Romans considering parricide the most atrocious of crimes, and Confucius making filial piety the very basis of morality. All this is a device, however instinctive and unconscious, for prolonging parental power beyond the early years when children are helpless. The authority of parents has of course been reinforced by their possession of property, but if filial piety had not existed young men would not have allowed their fathers to retain control of their flocks and herds after they had become feeble.
 出典: Power, 1938.
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第15章 権力と道徳律, n.2

 実際的道徳のこの側面は重要ではあるが,(本章で)私が扱いたいと考えているもの(側面)ではない。私は,(一般に)受容されている倫理規則における権力に役立つ(奉仕する)側面について考察したい。伝統的道徳の(諸)目的は,通常は意識されないものであるが,- その目的の一つは,既存の社会制度をうまく機能させること(働かせること)である。伝統的道徳は,これ(この役割・機能)を警察力よりも,より安価かつより効果的に成功する場合,この目的を達成する。しかし,伝統的道徳は,ともすれば,権力の再配分の欲求によって触発された革命的道徳と対時する傾向がある(革命的勢力がたちはだかりがちである)。私は,本章において,まず,権力が道徳律(moral codes)に対する影響について,次に,道徳のために権力以外の基礎(basis 根拠)を発見できるかどうかという問いについて,考察したい。  権力道徳(権力に纏わる道徳)の最も明らかな例は,従順(服従)を教え込むこと(inculcation)である。従順(服従)は,子供が親に,妻が夫に,召使い(使用人)が主人に,臣民が王侯に,そして(宗教に関しては)俗人が聖職者(priests)に,従う義務である(というよりも,むしろ,義務であった)。また,かつての軍隊や修道会(religious orders)には,もっと特殊な形の服従の義務があった。これらの義務にはいずれも長い歴史があり,それらはそれぞれが関係する制度の歴史と並走しているのである(running parallel with)。

Chapter 15: Power and Moral Codes, n.2
This aspect of positive morality, important as it is, is not the one with which I wish to deal. I wish to consider those aspects of accepted ethical codes in which they minister to power. One of the purposes – usually in large part unconscious – of a traditional morality is to make the existing social system work. It achieves this purpose, when it is successful, both more cheaply and more effectively than a police force does. But it is liable to be confronted with a revolutionary morality, inspired by the desire for a redistribution of power. I want, in this chapter, to consider, first, the effect of power on moral codes, and then the question whether some other basis can be found for morality. The most obvious example of power-morality is the inculcation of obedience. It is (or rather was) the duty of children to submit to parents, wives to husbands, servants to masters, subjects to princes, and (in religious matters) laymen to priests; there were also more specialized duties of obedience in armies and religious orders. Each of these duties has a long history, running parallel with that of the institution concerned.
 出典: Power, 1938.
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第15章 権力と道徳律, n.1

 道徳には,ともかくも(at any rate どのような状況・場合でも),ヘブライの予言者時代以来,二つの異なる側面があった(を有していた)。(即ち)一方では,道徳は法(律)に類似した一つの社会制度であった。他方では,道徳は個人の良心の問題であった。前者の側面では,道徳は権力機構の一部であり(apparatus 装置;機構),後者の側面では,革命的なものであることが多い。法(律)に類似した部類(種類)の道徳は,「実際的」道徳(”positive” morality)と呼ばれているが,もう一方の部類(種類)の道徳は,「個人的」道徳と呼んでもよいであろう。私は,本章において,これら二種類の道徳相互の関係及びそれらの道徳と権力との関係について考察したたい。  実際的道徳は,個人的道徳よりも古く(古くから存在し),多分,法(律)や政治(組織)よりも古いものであろう実際的道徳は,もともとは,部族の慣習から成りたっており,法(律)はこの部族の慣習から次第に発達している(発達したものである)。誰と誰が結婚してよいかに関する,非常に原始的な野蛮人の間に見られる、驚くほど入念な規則について考察してみるとよい。このような規則は,最も原始的な未開人の間にも見出されるものである。それらは、我々(現代人)には,単なる規則に思われるが,しかし,そうした規則を受けいれている人々にとっては,おそらく,近親相姦的な結婚(incestuous unions)を禁ずる我々(現代)の規則において我々が感じるような,同様な道徳的な強制力を持っているのであろう。それらの規則の源泉ははっきりしないが,しかし,ある意味で,その源泉は宗教的なものであるのは疑いない(注:近親者同士の結婚がどのような影響を与えるかについての科学的知識を未開人が持っていたわけではないため)。実際的道徳のなかのこの部分は,社会的不平等とはまったく関係ないように思われる。(つまり)そのような規則は特権を与えることはないし,特権の存在を仮定もしていない。文明人の間にも,いまだこの種の道徳規則は存在している。(たとえば)ギリシア正教会は,一人の(同じ)子供の代父母(注:キリスト教の洗礼式に立会って神に対する契約の証人となる役割の者で男性は代父で女性は代母と呼称される。)の結婚を禁止しているが,それは善悪いずれの社会的目的をまったく果たすことのない禁制(禁止事項)であるが,しかし,その禁制はもっぱら神学にその起源を持っている。今日,合理的根拠から(一般に)受けいれられている多くの禁制は,もともとは,迷信的なものであったと思われる。殺人は,(殺された人の)幽霊の敵意 -その敵意は殺人者に対してだけでなく,社会に対しても向けられるものであるので- 不愉快なものであった。従って,社会はこの事(問題)に関心を持ち,社会は,刑罰あるいは浄めの儀式のいずれかによって,この事を扱うことができた。浄化はしだいに精神的な意義をもつようになり,(宗教上の)懺悔(悔い改め)や赦免と同一視されるようになった。しかし,もとものと儀式的性格は,いまだ「子羊の血で洗い清め( “washed in the blood of the Lamb.”)」というような句によって思い出される(呼び戻される)。

Chapter 15: Power and Moral Codes, n.1
Morality, at any rate since the days of the Hebrew prophets, has had two divergent aspects. On the one hand, it has been a social institution analogous to law; on the other hand, it has been a matter for the individual conscience. In the former aspect, it is part of the apparatus of power; in the latter, it is often revolutionary. The kind which is analogous to law is called “positive” morality; the other kind may be called “personal.” I wish in this chapter to consider the relations of these two kinds of morality to each other and to power. Positive morality is older than personal morality, and probably older than law and government. It consists originally of tribal customs, out of which law gradually develops. Consider the extraordinarily elaborate rules as to who may marry whom, which are found among very primitive savages. To us, these seem merely rules, but presumably to those who accept them they have the same moral compulsive force as we feel in our rules against incestuous unions. Their source is obscure, but is no doubt in some sense religious. This part of positive morality appears to have no relation to social inequalities; it neither confers exceptional power nor assumes its existence. There are still moral rules of this sort among civilized people. The Greek Church prohibits the marriage of godparents of the same child, a prohibition which fulfils no social purpose, either good or bad, but has its source solely in theology. It seems probable that many prohibitions which are now accepted on rational grounds were originally superstitious. Murder was objectionable because of the hostility of the ghost, which was not directed only against the murderer, but against his community. The community therefore had an interest in the matter, which they could deal with either by punishment or by ceremonies of purification. Gradually purification came to have a spiritual signification, and to be identified with repentance and absolution ; but its original ceremonial character is still recalled by such phrases as “washed in the blood of the Lamb.”
 出典: Power, 1938.
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第14章 競争,n.18

 討論の自由には - 知的な長所のあることは明らかであるが - 必ずしも競いあう組織を必要としない(does not necesarily involve ~)。B.B.C(英国放送協会)は論争を許容しているし,互いに敵対する(競合する)科学理論は全て,英国学士院内で,述べることができる。学術団体は,一般的に言って,団体としての宣伝(注:corporate propaganda 御用宣伝)に浸るようなことはないが,各団体所属の会員それぞれに(severally),自分独自の理論を主張する機会を与える。一つの組織内でのそのような論議は,次のような根本的な同意を前提条件としている(論議ができるためには次のような前提条件が必要である)。(たとえば)いかなるエジプト学者も,軍隊を発動して,自分の嫌いな説を唱える競争相手のエジプト学者をやっつけようとはしない。共同体(社会)がその統治形態について根本的に同意している場合には,自由な討論は可能である。しかし,そのような一致がない場合には,宣伝(強制)力使用の前奏曲と感ぜられ,(強制)カを持っている者(達)は,当然,宣伝の独占を目ざすであろう。宣伝の自由は,意見の相違が一つの政府のもとでの平和的な協力を不可能にするようなものでない場合に,可能である。新教徒と旧教徒は,16世紀には,政治の上で協力をすることができなかったが,18,19世紀には,それができた(可能であった)。それゆえに,この両世紀(18,19世紀)の間は,宗教上の寛容が可能になった。安定した統治機構(framework 枠組み)は,知的自由には欠くことのできないものである。しかし不幸にして,そのような安定した統治機構は,同時に,暴政の重要な機関ともなりうる。この難問の解決は,統治形態に依存するところが非常に大きい。

Chapter 14: Competition, n.18
Freedom of debate, of which the intellectual advantages are obvious, does not necessarily involve competing organizations. The B.B.C. allows controversy. Rival scientific theories can all be represented within the Royal Society. Learned bodies, in general, do not indulge in corporate propaganda, but give opportunities to their members severally to advocate each his own theory. Such discussion within a single organization presupposes a fundamental agreement ; no egyptologist wishes to invoke the military to crush a rival egyptologist whose theories he dislikes. When a community is in fundamental agreement as to its form of government, free discussion is possible, but where such agreement does not exist, propaganda is felt to be a prelude to the use of force, and those who possess force will naturally aim at a monopoly of propaganda. Freedom of propaganda is possible when the differences are not such as to make peaceable co-operation under one government impossible. Protestants and Catholics could not co-operate politically in the sixteenth century, but in the eighteenth and nineteenth they could; hence in the interval religious toleration became possible. A stable governmental framework is essential to intellectual freedom; but unfortunately it may also be the chief engine of tyranny. The solution of this difficulty depends very largely upon the form of government.
 出典: Power, 1938.
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第14章 競争,n.17

(それでは)哲学者にとって,宣伝にはどのような効用があるであろうか? 哲学者は,宣伝家のように,次のように言うことはできない。(即ち) 「ピン(製造)エ場は,ピン製造のために存在し,意見の工場は,意見を製造する(創る)ために存在する。(意見の製造工場で)製造された意見が,2本のピンのようであったら(=寸分違いのないものであったら),両方とも良い意見であったとして,それをどう判断したらよいであろうか?(注:みすず書房版の東宮訳では「If the opinions manufactured」の「the opinions manufactured」を2本のピンと誤訳している。/ What of that? = どのように判断したらよいか?) (また)独占によって可能になった大規模生産のほうが,競争しあう小規模生産よりも安くなれば,他の(理由の)場合と同様に,独占に対する(独占を良しとする)同様の理由が存在している。否,それ以上に,競争相手をもっている意見の(製造)工場は,競争相手をもっているピン工場のように,同等の良い意見を創り出す(製造する)ことはない,というのが通常(普通)である。(つまり)それ(競合する意見工場)は自分(私)の工場で創った(製造した)意見を傷つける(意見に損害を与える)意図をもった意見を創る(製造する)ので,従って,人々に自分の意見工場の製品(自社製意見)を供給し続けるのに必要な仕事を大いに増す(ことになる)。従って,競争しあう意見工場は禁止しなくてはならない。」  哲学者は(哲学者としては),ちょっと(I say まあ)このようなものを自分の見解として採用できない。彼は(哲学者なら)次のように(強く)主張しなければならない(contend 強く主張する)。(即ち)宣伝によって助けられる(be served by 奉仕を受ける)有用な目的は,ほぼ確実に間違っている意見を独断的に信じさせようとするようなもの(目的)でなく,むしろ逆に,判断や合理的な疑いを助長し,相対立する考察を重み付けするカを助長するもの(目的)でなければならない。また,相互の宣伝の間に競争がある時のみ,それはこの目的に役立つことができる。哲学者は,(意見を聞く)公衆を両側の言い分に耳を傾ける裁判官(判事)に喩えるであろう。そうして,宣伝における独占は,あたかも,刑事裁判で原告側(検察側)あるいは被告側(のどちらかの)弁護人(counsel 原告側及び被告側の弁護人)のみの聴取が認められるような,馬鹿げたことだ,と考えるであろう。宣伝の一律性を望むどころか,哲学者は,全ての人が,できるだけ,あらゆる問題のあらゆる側面に耳を傾けるべきだと主張するであろう。哲学者は(哲学者なら),一つの党の利益のために専念したり読者の独断を奨励するような種々の新聞よりも,全ての党派を代表するただ一つの新聞を擁護するであろう。


Chapter 14: Competition, n.17 What, to the philosopher, can be the uses of propaganda? He cannot say, like the propagandist: “Pin-factories exist to manufacture pins, and opinion-factories to manufacture opinions. If the opinions manufactured are as like as two pins, what of that, provided they are good opinions? And if the largescale (large-scale) production rendered possible by monopoly is cheaper than competing small-scale production, there is the same reason for monopoly in the one case as in the other. Nay, more: a competing opinion-factory does not usually, like a competing pin-factory, manufacture other opinions which may be just as good : it manufactures opinions designed to damage those of my factory, and therefore immensely increases the work required to keep people supplied with my produce. Competing factories, therefore, must be forbidden.” This, I say, the philosopher cannot adopt as his view. He must contend that any useful purpose which is to be served by propaganda must be not that of causing an almost certainly erroneous opinion to be dogmatically believed, but, on the contrary, that of promoting judgment, rational doubt, and the power of weighing opposing considerations; and this purpose it can only serve if there is competition among propagandas. He will compare the public to a judge who listens to counsel on either side, and will hold that a monopoly in propaganda is as absurd as if, in a criminal trial, only the prosecution or only the defence were allowed to be heard. So far from desiring uniformity of propaganda, he will advocate that, as far as possible, everybody should hear all sides of every question. Instead of different newspapers, each devoted to the interests of one party and encouraging the dogmatism of its readers, he will advocate a single newspaper, in which all parties are represented.
 出典: Power, 1938.
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第14章 競争,n.16

 私は今や,宣伝の自由に関して,哲学者の観点(見地)から考えるところに達している。ギボンは,古代の寛容の精神を記述しているところで,次のように述べている。「様々な(多様な)様式の崇拝(wosrhip 礼拝)がローマで流布したが,それらは全て,ローマの人々(民衆)によって,等しく真実と考えられた。(それらは)哲学者によって等しく虚偽と考えられ,ローマの行政長官からは等しく有益なものと考えられた(注:人民の統治に利用できるということ)。」この場合,私が念頭に置いている哲学者は,全ての流布している信条は「等しく」虚偽だと言い切るほど極端に走ることはないであろうが,しかし,流布している信条の任意のいかなるものも虚偽を含んではいないというようなことは認めないであろうし,あるいは,たまたま虚偽を含まない信条があったにしても,その幸運な事実は人間精神の能力(知力)で発見することができるということも認めないであろう。哲学的でない(哲学的思考をしない)宜伝家にとって,自分の(行う)宣伝は正しい宣伝であるが,自分と反対の宣伝は虚偽の宜伝である(ということになる)。もし,そのような宣伝家(そのように考える宣伝家)が,双方(賛成及び反対)の宜伝を認めることを信ずるとすれば,それは自分の宣伝が禁止を受ける宣伝になるかもしれないということを恐れるからに過ぎない(注:his = his propaganda)。哲学的観察者にとっては,問題はそれほど簡単ではない。

Chapter 14: Competition, n.16 I come now to the standpoint of the philosopher as regards freedom of propaganda. Gibbon, describing the tolerant spirit of antiquity, says: “The various modes of worship, which prevailed in the Roman world, were all considered by the people, as equally true; by the philosopher, as equally false; and by the magistrate, as equally useful.” The philosopher whom I have in mind will not go so far as to say that all prevalent creeds are equally, false, but he will not allow that any is free from falsehood, or that, if by chance it were, this fortunate fact could be discovered by the faculties of the human mind. To the unphilosophical propagandist, there is his own propaganda, which is that of truth, and the opposite propaganda, which is that of falsehood. If he believes in permitting both, it is only because he fears that his might be the one to suffer prohibition. To the philosophical spectator, the matter is not so simple.
 出典: Power, 1938.
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