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ラッセル『宗教と科学』第6章 決定論 n.2

 決定論と(人間の)自由意志の歴史に関しては,すでにある程度述べてきた。(そうして)我々は,決定論の最も強力な味方物理学であることも見てきており,物理学は物質のあらゆる運動を規定しかつその運動を理論的に予言することを可能にする(諸)法則をすでに発見したように思われた(注:荒地出版社の津田訳では「seemed」を「思われる」と訳している。言うまでもなく、そのような法則を発見できたわけでないので,「思われた」と訳さないとラッセルがそう考えているかのような誤解を招く)。奇妙な話だが(不思議なことに),今日では決定論を反駁する最も強力な論証(論拠)も同様に物理学から導き出される。しかし,そのことを検討する前に,問題点(争点)を出来るだけ明らかにしておくことにしよう。  決定論二重の性格を持っている。(即ち)一方では,科学研究者(scientific investigators)の手引きとなる実際的な格率(a practical maxim 実用的格率),他方では,宇宙の本質に関する一般理論(general doctrine)(という性格)である。実用的格率(実際的な格率)は,たとえ一般理論が真理でなかったり不確実なものであったとしても十分なものであるかも知れない。我々はまず(決定論の)実用的格率から始め,後に(決定論の)一般理論にすすむこととしよう。  (決定論の)実用的格率(実際的な格率)は,人々に因果律(causal laws 因果法則),即ち,一つの出来事と他の出来事とを結びつける規則(rules)を探求することを勧める。日常生活においては,我々はこの種の規則(rules ルール)によって自らの行為を律している(guide 導いている)。しかし,我々の用いる規則(ルール)は,正確さを犠牲にして単純さを獲得している(purchase simplicity 単純さを買い求めている)。(電灯の)スイッチを押せば -フューズが飛ばない限り(unless it is fused)- 電灯はつくであろう。マッチをすれば -マッチの頭(注:擦る部分)が飛んでいない限り- 燃えだすだろう。電話番号を聞けば -聞き間違いをしない限り- 電話番号を入手するであろう。(しかし)そういった規則(ルール)は,不変的なものをほしがる科学の役には立たないだろう(will not do for science)。科学の理想ニュートン天文学によって定着されており,ニュートン天文学においては,万有引力の法則により,惑星の過去及び未来の位置が,無限の期間に渡って計算可能である。現象を支配する法則を探求することは,惑星の軌道に関する場合より,その他の場合においてはより困難だった。なぜなら,その他の場合(惑星の軌道計算以外)では,色々な種類の原因がより複雑に存在しており,周期的な再発の規則性の度合がより少ししか存在しないからである。それにもかかわらず,化学,電磁気学,生物学,また,経済学においても,因果律が発見されてきた。因果律の発見は,科学の本質であり,従って,科学者がそれらを求めて正しいことをすることは疑問の余地はない。因果律が存在しない領域があるとすれば,その領域は科学が接近できないものである。科学者は因果律を探求すべきであるという原則は,きのこ狩りをする人はきのこを探すべきであるという行動原理(maxim 根本原理,格率)と同じくらい明らかである。( the maxim that mushroom gatherers should seek mushrooms)

Chapter 6: Determinism, n.2
Of the history of determinism and free will something has already been said. We have seen that determinism found its strongest ally in physics, which seemed to have discovered laws regulating all the movements of matter and making them theoretically predictable. Oddly enough, the strongest argument against determinism in the present day is equally derived from physics. But before considering it, let us try to define the issue as clearly as we can. Determinism has a twofold character : on the one hand, it is a practical maxim for the guidance of scientific investigators ; on the other hand, it is a general doctrine as to the nature of the universe. The practical maxim may be sound even if the general doctrine is untrue or uncertain. Let us begin with the maxim, and proceed afterwards to the doctrine. The maxim advises men to seek causal laws, that is to say, rules connecting events at one time with events at another. In every-day life we guide our conduct by rules of this sort, but the rules that we use purchase simplicity at the expense of accuracy. If I press the switch, the electric light will come on – unless it is fused ; if I strike a match, it will burn – unless the head flies off ; if I ask for a number on the telephone, I shall get it – unless I get the wrong number. Such rules will not do for science, which wants something invariable. Its ideal was fixed by Newtonian astronomy, where, by means of the law of gravitation, the past and future positions of the planets can be calculated throughout periods of indefinite vastness. The search for law’s governing phenomena has been more difficult elsewhere than in relation to the orbits of the planets, because elsewhere there is a greater complexity of causes of different kinds, and a smaller degree of regularity of periodic recurrence. Nevertheless, causal laws have been discovered in chemistry, in electromagnetism, in biology, and even in economics. The discovery of causal laws is the essence of science , and therefore there can be no doubt that scientific men do right to look for them. If there is any region where there are no causal laws, that region is inaccessible to science. But the maxim that men of science should seek causal laws is as obvious as the maxim that mushroom gatherers should seek mushrooms.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 6:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_06-020.HTM

ラッセル『宗教と科学』第6章 決定論 n.1

 知識の進歩とともに,聖書に述べられている聖なる歴史及び古代や中世の教会の精密な(複雑かつ精巧な)神学は,かって最も信仰の厚い人々に対してもっていたような重要性をもたなくなってきている(注:relate 語る,述べる)。科学に基づく批判に加えて,聖書批判(Biblical criticism 聖書が言っていることに対する批判)が,聖書の言葉を全てそのまま信ずることを困難にしている(困難にした)。(即ち)今日では,例えば,(聖書の)創世紀(の章)には,二人の異なった著者による二つの異なった,両立しない(神による)世界創造についての説明が含まれていることを皆知っている(注:ラッセルが言っているのは,「創世記」第1章の説明と第2章の説明との違いのこと。例えば,植物について,創世記1:11は,神が3日目に植物を造られたという記録があるが,創世記2:5では,(6日目に)人間を造る前には「地にはまだ一本の潅木もなく,まだ一本の野の草も芽を出していなかった」と書かれている)。今日,そのようなことは本質的なことではないと考えられている。しかし,(聖書/キリスト教には)神(の存在),不死,及び自由(意志)という三つの中心的な教義が存在しており,それらは,歴史上の事件(出来事)に結びつきをもたない限りにおいて,キリスト教にとって最も重要な部分を構成している(成している)と考えられている。これらの(3つの)教義は「自然宗教」と呼ばれるものに属している。トマス・アクィナスや多くの現代の哲学者たちの意見では,これらは(神による)啓示の助けによらずに,人間の理性だけで真理であることが証明できる(とされる)。従って(注:理性によって真理であることがわかると主張している以上)これら3つの教義に関して,科学がどのように言及するかを探求することは重要である。私の信念(考え)は,科学は現在のところそれらの教義(の正しさ)を証明することも否定することもできず,また,科学以外の方法によって証明したり否定したりする方法はまったくない。けれども,私はそれらの蓋然性(probability 可能性)に関わる(bear on)科学的論証は存在すると考える。このことは,本章で考察しようとしている自由(人間の自由意志の存在)及びその反対の決定論に関して,特に真理である。

Chapter 6: Determinism, n.1
With the progress of knowledge, the sacred history related in the Bible and the elaborate theology of the ancient and mediaeval Church have become less important than formerly to most religiously minded men and women. Biblical criticism, in addition to science, has made it difficult to believe that every word of the Bible is true ; everyone now knows, for instance, that Genesis contains two different and inconsistent accounts of the Creation by two different authors. Such matters, it is now held, are inessential. But there are three central doctrines – God, immortality, and freedom – which are felt to constitute what is of most importance to Christianity, in so far as it is not connected with historical events. These doctrines belong to what is called “natural religion” ; in the opinion of Thomas Aquinas and of many modern philosophers, they can be proved to be true without the help of revelation, by means of human reason alone. It is therefore important to inquire what science has to say as regards these three doctrines. My own belief is that science cannot either prove or disprove them at present, and that no method outside science exists for proving or disproving anything. I think, however, that there are scientific arguments which bear on their probability. This is especially true as regards freedom and its opposite, determinism, which we are to consider in the present chapter.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 6:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_06-010.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.26

 人格は,本質的に,組織化の問題である(注:荒地出版社刊の津田訳では「組織の問題」と訳出されているが,「organization」はここでは「組織化」の問題ととるべきであろう)。一定の関係によってグルーピングされた(ひとまとめにされた)一定の事象が,一人の人物(人格)を形作る。グルーピング(グループ化の実施)は記憶を含む習慣形成と結びついた因果律(causal laws 因果法則)によって行われ(is effected by),その(当該)因果律(因果法則)は肉体に依存する(依存している)。もしこのことが真理なら -またそう考える強力な科学的根拠がある- 脳の崩壊後にも人格が存続することを期待することは,クリケット・クラブがそのメンバーが全員死亡した後にも存続することを期待するようなものである(注:つまり愚かな考えである)。  私はこの議論(argument 論拠)が論争の余地のないもの(conclusive 決定的なもの)であると言うつもりはない。科学,特に科学的になり始めたばかりの心理学の将来を予見することは不可能である。(将来,)心理学の(精神の)因果作用(psychological causation)は現在の肉体依存(の状態)を脱することできるかも知れない。しかし,現在の心理学と生理学の状態では,不死への信仰は,いずれにせよ(at any rate),科学に支持を求めることは全く出来ず,また,この問題に関して今日可能な議論は,死に際して(死によって)人格が消滅することがありそうであることを指し示している(point to)。我々は死後は生存しないだろうという考えは残念に思うかも知れない。しかし,全ての迫害者や反ユダヤ主義者(Jewbaiters)や詐欺師たちが永遠に(for all eternity)存在し続けることはないだろうと考えることはひとつの慰めである。彼らは時が立てば良くなるだろうという人がいるかも知れないが,私はそのことを疑っている。

Chapter V Soul and Body, n.26
Personality is essentially a matter of organization. Certain events, grouped together by means of certain relations, form a person. The grouping is effected by means of causal laws – those connected with habit-formation, which includes memory – and the causal laws concerned depend upon the body. If this is true – and there are strong scientific grounds for thinking that it is – to expect a personality to survive the disintegration of the brain is like expecting a cricket club to survive when all its members are dead. I do not pretend that this argument is conclusive. It is impossible to foresee the future of science, particularly of psychology, which is only just beginning to be scientific. It may be that psychological causation can be freed from its present dependence on the body. But in the present state of psychology and physiology, belief in immortality can, at any rate, claim no support from science, and such arguments as are possible on the subject point to the probable extinction of personality at death. We may regret the thought that we shall not survive, but it is a comfort to think that all the persecutors and Jew-baiters and humbugs will not continue to exist for all eternity. We may be told that they would improve in time, but I doubt it.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-260.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.25

 もし,我々が肉体の死後に(自分という)人格が生き残ることを信じようとするなら,我々は記憶の継続性(注:死後も生前と同じ記憶を保有していること)あるいは少なくとも習慣の継続性を想定しなければならない。なぜなら,もしそうでないとしたら,同一人物が継続して存在する(存続する)と想定する理由がまったくないからである。しかし,この点において,生理学上,難点がある。習慣と記憶は,両方とも,肉体,特に脳に及ぼされた影響に起因している(due to 起因する,~のせい)。(即ち)習慣の形成は,水路の形成に類似したものと考えてよいだろう。さて,習慣と記憶を生じさせる肉体への影響は(肉体の)死と腐敗によって消失する。また -ほとんど奇跡であるが(short of miracle)-それらの肉体への影響が,我々があの世でその中に住むと想定される新しい肉体にどのようにして移されるかを理解することは困難である。もし,我々が肉体から遊離した霊(肉体なしに存在する霊)(disembodied spirits)であるとすると困難は増すのみである。実際,現代の物質観のもと,肉体から分離した霊というものが論理的に可能か(ありうるか)は疑問である。物質とは事象をグルーピングする(ひとまとめにする)一つの方法にすぎず,従って,事象の存するところには物質が存在する。もし私が主張するように,その人物の肉体が生きている間を通して、その人物(人格)の継続性が習慣形成に依存するのなら,それはまた,肉体の継続性にも依存しなければならない(ことになる)。(従って)ある人物を何ら同一性を失うことなく天(天国/あの世)に移すことは(もし可能であるなら),水路を何ら同一性を失うことなく天に移すのと同様に容易であろう。(反語的言い方。つまり、水路を同一性を失うことなく天国に移すことは困難なので,ある人物を同一性を失うことなく天国に移すことは困難であろう。)

Chapter V Soul and Body, n.25 If we are to believe in the survival of a personality after the death of the body, we must suppose that there is continuity of memories or at least of habits, since otherwise there is no reason to suppose that the same person is continuing. But at this point physiology makes difficulties. Habit and memory are both due to effects on the body, especially the brain ; the formation of a habit may be thought of as analogous to the formation of a water-course. Now the effects on the body, which give rise to habits and memories, are obliterated by death and decay, and it is difficult to see how, short of miracle, they can be transferred to a new body such as we may be supposed to inhabit in the next life. If we are to be disembodied spirits, the difficulty is only increased. Indeed I doubt whether, with modern views of matter, a disembodied spirit is logically possible. Matter is only a certain way of grouping events, and therefore where there are events there is matter. The continuity of a person throughout the life of his body, if, as I contend, it depends upon habit-formation, must also depend upon the continuity of the body. It would be as easy to transfer a water-course to heaven without loss of identity as it would be to transfer a person.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-250.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.24

 「人物(人格)」を定義するこれらの二つの方法は,二重人格と呼ばれるものの場合において衝突する(conflict 衝突する,矛盾する)。そのような場合,外側から観察すると,一人の人物と思われるものが,主観的には(主観としては),二人の人物(人格)に分裂する。(即ち)時には(2つの人格の)どちらももうひとつの人物(人格)について何も知ることなく,時にはもうひとつの人物(人格)について知る。しかし,その逆はない(注:2つの人格が存在し、お互いの人格を知っていることはない)。 どちらの人格も他方の人格について何も知らない場合においては,もし記憶が人物(人格)の定義として使われるのなら,二人の人物が存在することになる。しかし,もし肉体が人物(人格)の定義として用いられるならば,一人の人物のみが存在する(ことになる)。放心状態(absent-mindedness),催眠状態(hypnosis),夢遊状態を経て二重人格の極端な状態に至るまで(には),規則的な諸段階が存在している。このことが記憶を人物(人格)の定義として用いることにおいて困難(問題)を生じさせる。しかし,失った記憶も,催眠術によって,あるいは精神分析の過程において回復できるように思われる。こうして,この困難(な問題)も克服できないものではないかも知れない。  実際の想起(思い出すこと)の他に,多少とも記憶に類似した種々の他の要素 -例えば,過去の経験の結果形成されてきた習慣- が人格に加わってくる。「経験」が単なる出来事と異なるのは,生命のあるところでは事象が習慣を形成できるからである。動物は,また人間はもっと,生命のない物質にはないやり方で経験によって形作られる。もし一つの事象が他の事象と習慣形成をもつ特別なやり方で因果的に関係しているなら(原因と結果の関係にあるのなら),その場合には,その二つの事象は同じ「人物(人格)」に属している。これは記憶だけによる定義より広い定義(法)であり,記憶による定義が含んでいる全てのもの及びそれ以上の多くのものを含んでいる。

Chapter V Soul and Body, n.24
These two ways of defining a “person” conflict in cases of what is called dual personality. In such cases, what seems to outside observation to be one person is, subjectively, split into two ; sometimes neither knows anything of the other, sometimes one knows the other, but not vice versa. In cases where neither knows anything of the Other, there are two persons if memory is used as the definition, but only one if the body is used. There is a regular gradation to the extreme of dual personality, through absent-mindedness, hypnosis, and sleepwalking. This makes a difficulty in using memory as the definition of personality. But it appears that lost memories can be recovered by hypnotism or in the course of psycho-analysis ; thus perhaps the difficulty is not insuperable. In addition to actual recollection, various other elements, more or less analogous to memory, enter into personality – habits, for instance, which have been formed as a result of past experience. It is because, where there is life, events can form habits, that an “experience” differs from a mere occurrence. An animal, and still more a man, is formed by experiences in a way that dead matter is not. If an event is causally related to another in that peculiar way that has to do with habit-formation, then the two events belong to the same “person.” This is a wider definition than that by memory alone, including all that the memory-definition included and a good deal more.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-240.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.23

 この問題(注:生きている肉体に結びついた出来事と肉体が死んだ後に起る他の出来事との間に密接な関係が存在するかどうかという問題)に答えることを試みる前に,一定の諸事象を一人の人物の精神生活とするように一緒に結びつける関係は何かということをまず決定しなければならない。これらの(関係の)中で最も重要なものは明らかに記憶である。即ち,私が思い出すことができる物事(things)は「私に」起ったことである。そうして,もし私がある機会(注:occasion 特定のことが起こった時)のことを思い出すことができ,また,その機会に他の何かを想起することができたとするならと,その場合は、その,他の何かも私に起ったのである(注:要するに,現在思い出せることだけでなく、過去においてもその時起こったことを思い出すことができたのならそれも自分に起こったことのはずだ,ということ)。二人の人間が同一のことを想起するかも知れないと(もしかすると)反論される可能性があるが (It might be objected that),それは誤りだろう。二人の人間は,見る位置が異なることから,二人の人間は決して精確に同一のものを見ることはない。さらに,両者は,聞くこと,匂いを嗅ぐこと,触ること,及び味わうことにおいて,精確に同一の経験を持つことはできない。自分の経験は他人の経験とかなり似ているかも知れないが,常に両者は多少とも異なっている。各人の経験はその人だけのも(私的なもの)のであり,ひとつの経験が別の(もうひとつの)経験を回想することにある時,その2つの経験は同一の「人間」に属していると言われる。(注:たとえば、昨日朝5時に起きてNHK-BSテレビで錦織対フェデラーのテニスの試合をみたことを思い出すような場合、朝5時に起きたという記憶と試合を見たという記憶は両方とも自分の記憶である。)  身体(肉体)から導き出される,より心理学的でない,人格についての別の定義(法)がある。ある一つの生きている身体(生体)を異なる時間に同一であるとするものは何であるかについて定義することは複雑であろうが(注:たとえば、昨日の僕と今日の僕は同一人物である所以は何か),当面の間は,同一性があるのは当然だということにしておこう。また,我々の知っているあらゆる「心的」経験は何らかの生きた身体(肉体)と結びついているということもまた(当面の間)当然だと認めることにしょう。そうすると,「人物」とは,所与の身体に結びつけられた心的出来事の(諸)系列であると定義することができる。ごれは法律上の定義である。もし,ジョン・スミスの身体が殺人を犯し,後に警察がジョン・スミスの身体を逮捕したとすると,逮捕時にその身体に住んでいる(宿っている)人物が殺人犯である。(注:多重人格者の場合、この定義が生きてきます。)

Chapter V Soul and Body, n.23
We must first decide, before we can attempt to answer this question, what are the relations which bind certain events together in such a way as to make them the mental life of one person. Obviously the most important of these is memory : things that I can remember happened to me. And if I can remember a certain occasion, and on that occasion I could remember something else, then the something else also happened to me. It might be objected that two people may remember the same event, but that would be an error : no two people ever see exactly the same thing, because of differences in their positions. No more can they have precisely the same experiences of hearing or smelling or touching or tasting. My experience may closely resemble another person’s, but always differs from it in a greater or less degree. Each person’s experience is private to himself, and when one experience consists in recollecting another, the two are said to belong to the same “person.” There is another, less psychological, definition of personality, which derives it from the body. The definition of what makes the identity of a living body at different times would be complicated, but for the moment we will take it for granted. We will also take it for granted that every “mental” experience known to us is connected with some living body. We can then define a “person” as the series of mental occurrences connected with a given body. This is the legal definition. If John Smith’s body committed a murder, and at a later time the police arrest John Smith’s body, then the person inhabiting that body at the time of arrest is a murderer.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-230.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.22

 科学にとって困難な事態が,自我のような実体は存在しないと思われること(事実)から,生じる。既に見たように,魂や肉体を,形而上学者たちが実体概念(実体の観念)と論理的に固く結びついていると考えた(logically bound up with),永続性(注:encurence through time 時間を貫いて持続する→永続する)を持った2つの「実体」と見なすことはもはや不可能である。(注:この一文は,荒地出版社刊の津田訳では「・・・★魂と肉体とが★「実体」で,形而上学者達が実体概念に論理的に結びついていると考えた★時間の永続性をもっている★と考えることはもはやできなくなった」となっている。多分「魂と肉体とは、・・・時間の永続性をもっている」というつもりであろうが、「時間の永続性」が何を意味しているかよくわからない。「endurance through time」の「through time」の意味を取りそこねたのではないかと想像される。「時間を貫いて持続する→永続する」と解釈すべきであろう)。また,心理学においても,知覚(作用)において「対象(物)」と接触する「主観」を想定する理由はまったく存在していない。ごく最近まで,物質は不滅であると考えられていたが,これは物理学の手法(technique 一連の処理方式)によってもはや想定されていない。原子は,今日では,一定の出来事をまとめる(グルーピングする)ための便宜的な方法(の一つ)にすぎない。(また)原子を電子を伴った核(原子核と電子で成り立っているもの)と考えることはある程度までは便利であるが,ある時刻(瞬間)における電子は別の時刻(瞬間)における電子と同一のものと見なすことはできず,また,いかなる場合においても,現代の物理学者でそれらを「実在(している)」と考えている者はいない。不変である(永遠である)と考えられた物的実体が存在していた時には(間は),精神(心)も同様に不変である(永遠である)に違いないと論ずることは容易だった。だが,この論拠(理由)は(過去においても)決してごく強力なものというものではなかったが,今日ではもはや通用しない。十分な理由として,物理学者たちは,原子を一連の事象(一塊の事象の集合)に還元した。心理学者たちは,(物質の場合と)同様に十分な理由になるものとして,精神(心)は単一の持続的な「もの」としての同一性を持たない,一定の密接な関係で結びついた一連の出来事(一塊の集合)であることを見出している。従って,不死の問題は,(現在では)これらの密接な関係が,生きている肉体に結びついた出来事と肉体が死んだ後に起る他の出来事との間に存在するかどうかという問題になっている。

Chapter V Soul and Body, n.22 The difficulty, for science, arises from the fact that there does not seem to be such an entity as the soul or self. As we saw, it is no longer possible to regard soul and body as two “substances,” having that endurance through time which metaphysicians regarded as logically bound up with the notion of substance. Nor is there any reason, in psychology, to assume a “ subject ” which, in perception, is brought into contact with an “ object.” Until recently, it was thought that matter is immortal, but this is no longer assumed by the technique of physics. An atom is now merely a convenient way of grouping certain occurrences ; it is convenient, up to a point, to think of the atom as a nucleus with attendant electrons, but the electrons at one time cannot be identified with those at another, and in any case no modern physicist thinks of them as “real.” While there was still material substance which was supposed to be eternal, it was easy to argue that minds must be equally eternal ; but this argument, which was never a very strong one, can now no longer be used. For sufficient reasons, physicists have reduced the atom to a series of events ; for equally good reasons, psychologists find that a mind has not the identity of a single continuing “thing,” but is a series of occurrences bound together by certain intimate relations. The question of immortality, therefore, has become the question whether these intimate relations exist between occurrences connected with a living body and other occurrences which take place after that body is dead.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-220.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.21

 科学が(人間の魂の)不死の問題について何を主張すべきかは必ずしも明確ではない。実際,少なくともその意図において(in intention)完全に科学的であろうとする死後の生存(死後の生/あの世)に関する一つの系列の議論/論拠(one line of argument)があることは確かである(注:survival after death = life after death: 「死後の生」というのは表現上おかしいが,肉体が死んだ後に魂が生き続けること)。- 私が言おうとしている(意味している)のは,心霊研究(psychical research)によって探求される現象と関連した系列の議論/論拠のことを意味している。私はこの問題について既存の証拠を判断するだけの充分な科学的知識を持っていない。しかし,理性的な人間(reasonable men)を納得させる証拠が存在しうることは明らかである(注:「合理的/理性的に考えることができる人間なら,死後の生命があるかどうかを判断できる証拠が存在する可能性がある」といった意味。荒地出版社刊の津田訳では「★理論家★を納得させるだけの証拠が存在し得たことは明らかである」となっている。こういった訳では「死後の生」があることを証明する証拠が存在した可能性が(過去に)あったとラッセルが言っているかのような誤解を与えそう。ラッセルは是非の判断ができる証拠を見つけられるはずと言っているだけであり,「死後の生」のある証拠が見つかるはずだとは言っていない)。けれども,これに対してはある程度但し書き(proviso)をつけなければならない。第一に,その証拠は,せいぜい(at the best よくても),我々(人間)は(肉体の)死後(一定期間)生存する(生き続ける)ことだけを証明するだろうが,我々(人間)が永遠に生存することを証明しないだろうということである。第二は,強い欲求をもっている場合(involved 関与している場合),普段(habitually いつも)正確である人の証言であってさえも,その証言を受入れることはとても困難である。このことについては,大戦中(注:第一次世界大戦中)に多くの証拠(と言われるもの)があったし,興奮の激しい時代には常にそうであった。第三に,もし他の根拠から,我々の人格が肉体(の死)とともに死なないということはありそうもないように思われる場合には,そういう仮説(死後の生肯定仮説)が蓋然性を持つ(可能性がある)と考える場合よりも,我々はより強力な死後の生に関する証拠を必要とするであろう,ということである(以上,3つの但し書き)。最も熱烈な精神主義者でさえ,歴史家が魔女たちがサタン(悪魔)に身を委ねたことを証明するためにあげることができるほど(as historians can adduce to prove) -しかしそのような証拠が検証に値すると考える者はほとんどいないだろうが- 死後の生(があること)についての証拠を持っているふりをすることはできなかった(のである)(注:歴史家も魔女たちがサタンに身を委ねたことを証明するための証拠をあげることはほとんどできないという事実との対比)。

Chapter 5: Soul and body, n.21
What science has to say on the subject of immortality is not very definite. There is, indeed, one line of argument in favour of survival after death, which is, at least in intention, completely scientific – I mean the line of argument associated with the phenomena investigated by psychical research. I have not myself sufficient knowledge on this subject to judge of the evidence already available, but it is clear that there could be evidence which would convince reasonable men. To this, however, certain provisos must be added. In the first place, the evidence, at the best, would only prove that we survive death, not that we survive for ever. In the second place, where strong desires are involved, it is very difficult to accept the testimony even of habitually accurate persons ; of this there was much evidence during the War, and in all times of great excitement. In the third place, if, on other grounds, it seems unlikely that our personality does not die with the body, we shall require much stronger evidence of survival than we should if we thought the hypothesis antecedently probable. Not even the most ardent believer in spiritualism could pretend to have as much evidence of survival as historians can adduce to prove that witches did bodily homage to Satan, yet hardly anyone now regards the evidence of such occurrences as even worth examining.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-210.HTM

 ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.20

 地獄(の存在)に対する信仰が衰えたのは,何か新しい神学的論拠(神学的議論)によるのではなく,(また)科学の直接的影響でさえなく(nor yet でさえなく,ですらなく),18世紀と19世紀の間に,残忍さが一般的に減少したせいである。それは(そのことは),フランス市民革命の少し前に多くの国で司法的拷問(注:judical torture 自白を得るための司法的拷問。刑罰としての拷問とは別)を廃し,また,19世紀初期に野蛮な刑法を改正せしめるに至った -野蛮な刑法ということでは英国は不名誉を被った- と同じ変化の一端(part of the same movement)である。今日では,未だ地獄(の存在)を信じている人々の間においてさえ,地獄における拷問を受ける運命にある人の数は,以前に考えられたよりもずっと少ないと考えられている。今日では,我々の凶暴な感情は,神学的方向よりむしろ政治的方向をとっている(向いているのである)。  地獄信仰がより不確かなものになるにつれて,極楽信仰も同様に生き生きとしたイメージを失ったことは,興味深い事実である。天国(極楽)は今日でもキリスト教正統信仰によって公認されているものの部分(一部)であるが,現代の議論において,天国(極楽)に関しては,進化における神の目的の証拠に関してよりも,語られることはずっと少ない。宗教を擁護するための論拠(論証)は,今日では,あの世での生活との関連でよりも,この地上での善い生活を促進することにおいて宗教が与えている影響について,詳細に述べられている(dwell upon)。以前,道徳や行為に影響を与えていたこの世の生活はあの世の生活の単なる準備にすぎないという信仰は,今日では,その信仰を意識的に拒否していない人々に対してさえ,余り影響(力)を与えなくなっている。

Chapter V Soul and Body, n.19
The decay of the belief in hell was not due to any new theological arguments, nor yet to the direct influence of science, but to the general diminution of ferocity which took place during the eighteenth and nineteenth centuries. It is part of the same movement which led, shortly before the French Revolution, to the abolition of judicial torture in many countries, and which, in the early nineteenth century, led to the reformation of the savage penal code by which England had been disgraced. In the present day, even among those who still believe in hell, the number of those who are condemned to suffer its torments is thought to be much smaller than was formerly held. Our fiercer passions, nowadays, take a political rather than a theological direction. It is a curious fact that, as the belief in hell has grown less definite, belief in heaven has also lost vividness. Although heaven is still a recognized part of Christian orthodoxy, much less is said about it in modern discussions than about evidences of Divine purpose in evolution. Arguments in favour of religion now dwell more upon its influence in promoting a good life here on earth than on its connection with the life hereafter. The belief that this life is merely a preparation for another, which formerly influenced morals and conduct, has now ceased to have much influence even on those who have not consciously rejected it.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-200.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.19

 (さて)生理学や心理学に関する現代の学説が,不死に対する正統信仰にどのような関係を持つか(持っている)か問うこと(仕事)が残っている。  魂が肉体の死後生存するというのは,これまで見てきたように,キリスト教徒によっても非キリスト教徒によっても,また文明人によっても野蛮人(未開人)によっても,広く抱かれてきた考えである。キリストの時代(キリストが生きていた時代)のユダヤ人の中でも,ファリサイ派の人たち-(注: the Pharisees 古代イスラエルの第二神殿時代後期に存在したユダヤ教内グループで,現在ではユダヤ教正統派と呼ばれている。なお,パリサイ派と表記されることがある。)は(魂の)不死を信じたが,旧来の伝統を固執したサドカイ派(注: the Sadducees 第二神殿時代の後期に現れ、ユダヤ戦争に伴うエルサレム神殿の崩壊と共に姿を消したユダヤ教の一派)は信じなかった。キリスト教においては永遠の生命に対する信仰は,常にとても重要な(突出した)地位を保持してきた。ロマン・カトリックの信仰に従って,煉獄(purgatory れんごく:カトリックの教えによれば,煉獄は天国と地獄との間にある,死者の霊が天国にはいる前に通過しなければいけない場所で,ここで火によって浄化される。)における一定期間の(魂の)浄化の苦しみの後- 天国における至福を享受する者もいれば,地獄において無限の苦痛を受ける者もいる。今日では,自由主義的なキリスト教徒は,しばしば,地獄は永遠なものではないという見解に傾いている。この考えは,1864年に(英国)枢密院(the Privy Council)がそう考えることは非合法ではないと決定して以来,英国国教会の多くの牧師たちによって抱かれるようになった(支持されるようになった)。しかし,19世紀半まで,キリスト教信仰を公言する者(professing Christians)で,永遠の罪が実在することを疑う者はほとんどいなかった。地獄に対する恐怖は -その程度はより少なくなったが,いまだ今日でも- 最も深い不安の源(心配の種)であり,それは永遠の生命に対する信仰から導き出される心地よさを大いに減少させた。他人を地獄から救おうとする動機が,他人に対する迫害の正当化として、促された(注:ひどい迫害をしても,それはあなたを地獄行きから救うためということで,迫害の正当化のために使われた,ということ/因みに,荒地出版社刊の津田訳では「他人を地獄から救おうとする動機が,喜んで迫害を受けようとする心持ちを起こさせた」と誤訳している。「justification of persecution 迫害の正当化」の意味を取り違えたようであるが、津田訳では「自虐することの正当化」なんてことになってしまう )。なぜなら,もしある異端者が,他人を誤導することにより,彼らに天罰(damnation)を受けさせることができるとしたら,そのような恐ろしい結果を防止するため用いられるのならいかなる地上における拷問をもってしても過剰ではない(足りない)と考えられたからである(注:地獄にいかせないためにやる迫害は許される,というへ理屈)。というのも,今日ではどう考えられているにせよ,以前には(昔は),わずかな例外は別として,異端(キリスト教の正統派以外)は救済と両立しないと信ぜられていたからである。

Chapter 5: Soul and body, n.19
It remains to inquire what bearing modern doctrines as to physiology and psychology have upon the credibility of the orthodox belief in immortality. That the soul survives the death of the body is a doctrine which, as we have seen, has been widely held, by Christians and non-Christians, by civilized men and by barbarians. Among the Jews of the time of Christ, the Pharisees believed in immortality, but the Sadducees, who adhered to the older tradition, did not. In Christianity the belief in the life everlasting has always held a very prominent place. Some enjoy felicity in heaven – after a period of purifying suffering in purgatory, according to Roman Catholic belief. Others endure unending torments in hell. In modern times, liberal Christians often incline to the view that hell is not eternal ; this view has come to be held by many clergymen in the Church of England since the Privy Council, in 1864, decided that it is not illegal for them to do so. But until the middle of the nineteenth century very few professing Christians doubted the reality of eternal punishment. The fear of hell was – and to a lesser extent still is – a source of the deepest anxiety, which much diminished the comfort to be derived from belief in survival. The motive of saving others from hell was urged as a justification of persecution ; for if a heretic, by misleading others, could cause them to suffer damnation, no degree of earthly torture could be considered excessive if employed to prevent so terrible a result. For, whatever may now be thought, it was formerly believed, except by a small minority, that heresy was incompatible with salvation.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-190.HTM