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『宗教と科学』第3章 進化 n.3

 これら全てのこと(注:原罪やノアの洪水など)は,実際に聖書の中で語られていることであるにしろ,そこ(聖書の記述)から演繹できることであるにしろ,実際に,歴史的な事実問題(事実である事柄)として(当時の人々によって)考えられた,ということを理解しなければならない。世界創造の日は,(聖書の)創世紀の中の系図から推論することができ,系図は年とった各家長が自分の長子(最初の子供)を生んだ時何歳であったかを告げている。ある程度の曖昧さやギリシア訳旧約聖書(Septuagint)とヘブライ語の聖書原本との間のある程度の相違により,いくらか論争の余地が許された(permissible 論争を行うことが認められた)。しかし,ついにはプロテスタント系キリスト教界はあまねく(generally),紀元前4004年 -その年代は大主教アッシャーによって定められた- を世界創造の年として受け入れた。ケンブリッジ大学副総長ライトフット博士(注:英国では大学の総長は名誉職で皇族などが就任するので,副総長は実質的な学長)は創造のこの日付を受け入れたが,創世紀を注意深く研究することによりもっと精確な結果が得られるだろうと考えた。(即ち)博士に従えば,人間の創造は、(紀元前4004年)10月23日午前9時に行なわれた(そうである)。けれども,これは信仰箇条(an article of faith 証明や証拠を必要としない教義)にされたことはななかった。(即ち)あなたがあげる根拠は聖書にあるということであれば(根拠を聖書の創世記に求めるなら),異端の危険を犯すことなく,アダムとイブは(紀元前4004年)10月16日あるいは10月30日に生れたと信じることも可能であろう。世界創造の週のなかのその日(人間創造の日)は,もちろん,金曜日だったと知られている。なぜなら,神は土曜日に休まれたからである(笑)(英米の小説には 『ロビンソン漂流記』のように, Friday という名前の人物が時々でてくるが、創世記では金曜日に人間が創られたことになっていることから意識的にそのように名付けられているかも知れない)。

Chapter 3: Evolution, n.3
All this, it must be understood, was held to be literal historical matter of fact, either actually related in the Bible, or deducible from what was related. The date of the creation of the world can be inferred from the genealogies in Genesis, which tell how old each patriarch was when his oldest son was born. Some margin of controversy was permissible, owing to certain ambiguities and to differences between the Septuagint and the Hebrew text ; but in the end Protestant Christendom generally accepted the date 4004 B.C., fixed by Archbishop Usher. Dr. Lightfoot. Vice-Chancellor of the University of Cambridge, who accepted this date for the Creation, thought that a careful study of Genesis made even greater precision possible ; the creation of man, according to him, took place at 9 a.m. on October 23. This, however, has never been an article of faith ; you might believe, without risk of heresy, that Adam and Eve came into existence on October 16 or October 30, provided your reasons were derived from Genesis. The day of the week was, of course, known to have been Friday, since God rested on the Saturday.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 3: Evolution.
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_03-030.HTM

『宗教と科学』第3章 進化 n.2

 現代人(の精神)にとって,(人類社会の)発展や漸進的成長に対する確信(belief)を持つようになってからまだ間もないということを理解(認識)することは難しい(注:産業革命以前は,変化のあまりない日々の連続だった)。事実,人々がそのような確信を持つようになったのは,ほぼ完全にニュートン以後のことである。(キリスト教の)正統派信仰においては,世界(world この世/宇宙)は6日間で(神によって)創造され,その時以来,現在存在している(のと同数の)天体を全て含み,また,あらゆる動物や植物が -ノアの大洪水(the Delge)で滅亡してしまったいくつかの他のものと同様に- 存在していた(had contained 含んでいた)。  進歩は宇宙の法則であるどころか,今日ほとんどの神学者が(強く)主張するように -全てのキリスト教徒がそう信じていたことであるが- (原罪による)人間の堕落時代においては,恐るべき災難の組み合わせが存在していた。(即ち)神は,アダムとイブに,ある木の実を食べないように告げた。しかし,彼ら(アダムとイブ)は,それにもかかわらず,それを食べてしまった。その結果,神は,彼ら(アダムとイブ)と彼らの全ての子孫が死ぬべき運命をもち,死後は彼らの子孫の末代まで,地獄で永遠の罰を受ける運命をもつように,と布告した(decreed)。ある計画のもとに選ばれた一定の例外の者たちがいたが,それについては大いに論争があった。アダムの原罪(発生)の瞬間から,動物は相互に捕食しあい(preying on each other),あざみ(thistles)やとげ(thorns)がおい茂り,季節の違い(四季)が生れ(注:楽園時代は常に温暖な気候),大地そのものが呪われ,辛い労働の結果でない限り,人間に食物を与えないようになった。ほどなく,人々はとても邪悪になり,ノアとその三人の息子とその妻を除いて,全てのものが供水で溺死させられた。そのとき以後,人間がよくなったとは考えられなかった。しかし,主(神)は,再び全世界に洪水をもたらすことはないと約束し,今日では、時々噴火や地震を起すことで満足されている。

Chapter 3: Evolution, n.1
It is difficult for a modern mind to realize how recent is the belief in development and gradual growth ; it is, in fact, almost wholly subsequent to Newton. In the orthodox view, the world had been created in six days, and had contained, from that time onwards, all the heavenly bodies that it now contains, and all kinds of animals and plants, as well as some others that had perished in the Deluge. So far from progress being a law of the universe, as most theologians now contend, there had been, so all Christians believed, a terrible combination of disasters at the time of the Fall. God had told Adam and Eve not to eat of the fruit of a certain tree, but they nevertheless did eat of it. In consequence, God decreed that they and all their posterity should be mortal, and that after death even their remotest descendants should suffer eternal punishment in hell, with certain exceptions, selected on a plan as to which there was much controversy. From the moment of Adam’s sin, animals took to preying on each other, thistles and thorns grew up, there began to be a difference of seasons, and the very ground was cursed so that it no longer yielded sustenance to Man except as the result of painful labour. Presently men grew so wicked that all were drowned in the Flood except Noah and his three sons and their wives. It was not thought that man had grown better since, but the Lord had promised not to send another universal deluge, and now contended Himself with occasional eruptions and earthquakes.  出典:Religion and Science, 1935, chapt. 3: Evolution.
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_03-020.HTM

『宗教と科学』第3章 進化 n.1

 科学は(一般に)予想されたのとは逆の順序で発展してきた。我々人間から最も遠いもの(=身近でないもの)が最初に法則化され(注:brought under the domain of law 法則の支配下に置かれ/それらを支配する法則が発見され),それから次第に(我々人間に)より近いものが法則化されていった。(即ち)最初に天界(注:宇宙論)が,次に地球(注:地質学)が,次に動物と植物の生命(注:進化論)が,次に人体(注:医学/生理学)が,そうして,最後に(まだ極めて不完全ではあるが)人間の心が法則化された(支配する法則が発見された)。このことについては不可解なことはまったくない。細部に拘ると大局をとらえることが困難になる(詳細な知識を持つことによって核心をつかめなくなる場合が少なくない)。(たとえば)ローマの道路の様子(outlines 輪郭)は,地上からよりも飛行機からの方がずっととらえやすい(easily traced たどりやすい)。(また)ある人が何をしそうかはその人自身よりも彼の友人たちの方がよく知っている傾向がある(「A man’s friends know what he is likely to do better than he does himself」を,荒地出版社刊の訳書のなかで,津田氏は「一人の人が何に適しているかは,彼の友人達の方が彼自身よりもよく知っている」と訳出している。この一文のすぐ後はその事例をあげていることに津田氏は気づくべきであった。)(たとえば,)会話がある程度進むと,友人たちは彼(その人)がお好みの逸話の一つを言い出す恐るべき不可避性(避けがたさ)を予知するが,一方,彼(その人)自身には自分は決して法則には従わずに自発的な(spontaneous 自然な)衝動によって行動しているように思われる。親密な経験に由来する(から得られる)詳細な知識は必ずしも科学の求める普遍的な知識(the generalized kind of knowledge)を最も容易に与えてくれるもの(source 源)とは限らない。単純な自然法則の発見だけでなく,我々がよく知ってい世界(world)の漸進的発展説も,天文学に始まった(注:聖書にでてくるような一瞬の内に神によって世界が創造されたとする説に対するもの)。しかし,前者と異なり後者については,それが最も顕著に適用されたのは,我々の惑星上(地球上)の生命の発展に関してであった。我々が今考察しようとする進化説は,天文学(注:宇宙進化説)に始まったはいえ,地質学や生物学において,一層学問的な重要性を持っており,その両者においては,コペルニクス説の勝利以後,天文学に対して注がれた偏見よりももっと頑迷な神学的偏見と闘わなければならなかった(のである)。

Chapter 3: Evolution, n.1
The sciences have developed in an order the reverse of what might have been expected. What was most remote from ourselves was first brought under the domain of law, and then, gradually, what was nearer : first the heavens, next the earth, then animal and vegetable life, then the human body, and last of all (as yet very imperfectly) the human mind. In this there is nothing inexplicable. Familiarity with detail makes it difficult to see broad patterns ; the outlines of Roman roads are more easily traced from aeroplanes than from the ground. A man’s friends know what he is likely to do better than he does himself ; at a certain turn in the conversation, they foresee the dreadful inevitability of one of his favourite anecdotes, whereas to himself he seems to be acting on a spontaneous impulse by no means subject to law. The detailed acquaintance derived from intimate experience is not the easiest source for the generalized kind of knowledge which science seeks. Not only the discovery of simple natural laws, but also the doctrine of the gradual development of the world as we know it, began in astronomy ; but the latter, unlike the former, found its most notable application in connection with the growth of life on our planet. The doctrine of evolution, which we are now to consider, though it began in astronomy, was of more scientific importance in geology and biology, where, also, it had to contend with more obstinate theological prejudices than were brought to bear against astronomy after the victory of the Copernican system.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 3: Evolution.
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宗教と科学』第2章 コペルニクス革命(コペルニクス的転回) n.20

 カトリック(カソリック/旧教)とプロテスタント(新教)との間における他の(様々な)相違がなんであれ,両者は慧星の問題については同意見であった(be at one)。カトリック系の大学においては,天文学の教授たちは,彗星に関する科学的見解と両立しない宣誓(oath)をしなければならなかった。1673年,ローマのクレメンタイン大学総長のアウグスティン・デ・アンジュリス神父(Father Augustin de Angelis)は,気象学(meteorologyに関する書物を出版し,その中で次のように述べている。 「彗星は天体ではなく,月下の,地球の大気中に生ずる(ものである)。なぜなら,天上のものは全て永遠かつ不朽であるが,彗星には始めと終りがあるからである。従って(ergo),彗星は天体ではありえない」。  これは,ティコ・ブラーエ(注:Tycho Brahe、1546- 1601:デンマークの天文学者。膨大な天体観測記録を残してケプラーの法則を生む基礎を作った。)に対する反駁において言われたことであり,ティコ・ブラーエは(それ以前に),後にケプラー(注:Johannes Kepler、1571-1630:1599年にティコ・ブラーエ に助手としてプラハに招かれた。)の支援を得て,1577年(に現れた)の彗星は月の上(の世界のもの)であるという信念を支持する充分な理由(reasons)を与えていたのである。アウグスティン神父は彗星の散漫な動き(erratic movements)を,神によってこの仕事をするために任命された天使たちによって起されたと想定することによって説明した。(英国人の)妥協精神において,とても英国人的なのは,英国学士院会員のラルフ・ソレスビー(Ralph Thoresby, F.R.S)の1862年の日記の一節であり,その年にハレー彗星が現われ,その軌道の計算を初めて可能にした(のである)。彼はこう書いている。「主よ,如何なる変化をそれ(彗星)が予兆しようとも,我らをそれに適応せしめ給え(fit us for)。それらの彗星が自然の原因から生じることに気づいていないわけではないが,それらは,また,しばしば,自然の災害の前兆でもあるからである」。  慧星は(自然)法則に従うのでありしかも彗星は地球の大気中にもないことの最終的な証明は,3人のおかげである。(即ち)スイス人ドエルフェル(Doerfel)は1682年の慧星の軌道は,放物線(a parabola)に近かったことを示し,ハレーは1682年の彗星(1682以後彼にちなんでハレー彗星と命名された)は -1066年の時及びコンスタンチノープルの陥落の際にも人々に恐怖をひこ起こしたもの- は約76年の周期の,非常に細長い楕円軌道を持つことを示した。そして,1687年に出されたニュートンの『プリンキピア』は,万有引力の法則は惑星の運動と同様に彗星の運動も充分説明する(説明できる)ことを示した。(そのため)前兆が存在することを望む神学者たちは一歩退いて,地震と火山の噴火に(前兆の)拠り所を求めるしかなかった(compelled to fall back upon)。しかし,地震も噴火も天文学に属することではなく,別の科学,即ち,後に発展した,地質学(geology)に属していた。地質学は,無知の時代から受け脈がれた教義に対し,それ自身の別の闘いをしなければならなかった(のである)。

Chapter 2: The Copernican Revolution, n.20
Whatever their other differences, Catholics and Protestants were at one on the matter of comets. In Catholic universities, professors of astronomy had to take an oath which was incompatible with a scientific view of comets. In 1673, Father Augustin de Angelis, rector of the Clementine College at Rome, published a book on meteorology, in the course of which he stated that “comets are not heavenly bodies, but originate in the earth’s atmosphere below the moon ; for everything heavenly is eternal and incorruptible, but comets have a beginning and ending — ergo, comets cannot be heavenly bodies.” This was said in refutation of Tycho Brahe, who, with the subsequent support of Kepler, had given abundant reasons for the belief that the comet of 1577 was above the moon. Father Augustin accounts for the erratic movements of comets by supposing them caused by angels divinely appointed to this task. Very British, in its spirit of compromise, is an entry in the diary of Ralph Thoresby, F.R.S., in the year 1682, when Halley’s comet was making the appearance which first enabled its orbit to be calculated. Thoresby writes : “Lord, fit us for whatever changes it may portend ; for, though I am not ignorant that such meteors proceed from natural causes, yet are they also frequently the presages of natural calamities.” The final proof that comets are subject to law and are not in the earth’s atmosphere was due to three men. A Swiss named Doerfel showed that the orbit of the comet of 1680 was approximately a parabola ; Halley showed that the comet of 1682 (since called after him), which had roused terror in 1066 and at the fall of Constantinople, had an orbit which was a very elongated ellipse, with a period of about seventy-six years ; and Newton’s Principia, in 1687, showed that the law of gravitation accounted as satisfactorily for the motions of comets as for those of planets. Theologians who wanted portents were compelled to fall back upon earthquakes and eruptions. But these belonged not to astronomy, but to a different science, that of geology, which developed later, and had its own separate battle to fight against the dogmas inherited from an ignorant age.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 2.
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_02-200.HTM

『宗教と科学』第2章 コペルニクス革命(コペルニクス的転回) n.19

 これらの2つの見解,即ち,彗星は何かの前兆であるという見解及び,彗星は地球の大気中にあるという見解は,神学者たちによって大変な熱意をもって支持された。古代から,彗星は常に不幸の使者(大災難/大不幸の布告者)(heralds of disaster)と見なされてきた。この見解は,シェイクスピア(の作品)においても,例えば,「ジュリアス・シーザー」や「ヘンリー五世」の中で当然のことのように扱われている。1455年から1458年まで教皇を務め,トルコ人によるコンスタンチノープル占領(注:いわゆるコンスタンチノープル陥落のこと)に大いに狼狽させられた(狼狽した)カリストゥス3世(Calixtus III)は,この災難をある大きな彗星の出現と結びつけ,「差し迫るいかなる災難(calamity)もキリスト教信者からそらされ,トルコ人に向けられますように」と日々祈祷することを命じた(ordered days of prayer)。そして,その連祷(長々として祈祷)にある祈祷が追加された。(即ち)「トルコ人と慧星から,主よ,我らを救い給え(deliver us from ~)」。クランマーは,1532年に,当時見えていた慧星に関してヘンリー八世に書簡を送り,次のように書いた。「今後どんな奇異なことがやってくるか(起こるか),これらの印(神の力の現れ)は伝えており,神は(神のみが)それを知っている。というのは,それらの印(神の力の現れ)は軽々しく(lightly)現れないが,何らかの大きな問題に反対してのみ現れるからである」。1680年,これまでとは異なる驚くべきを彗星が出現した時(注:ハレー彗星の出現の時のこと),著名なスコットランドの神学者(divine)は,称賛すべき愛国心をもって,彗星は「我々の罪に対し我々の国々(スコットランドやイングランド)に下された偉大なる審判(judgement)の驚異(prodigies 不思議なもの/偉観)である、なぜなら,主(神)は 人々(人間)によってこれ以上怒りを感ぜられたことはなかったからである」と断言した。この点,彼は,もしかすると意図的ではないかも知れないが(偶然かも知れないが),マルチン・ルターの権威に従っていた。ルターは「異教徒は,彗星は自然的原因から生じるかも知れないと書いているが,神は確実に起こる災難の前兆とならないようなもの(彗星)は一切創らない」と(すでに)述べていた(のである)。

Chapter 2: The Copernican Revolution, n.19 These two views, that comets are portents, and that they are in the earth’s atmosphere, were maintained by theologians with great vehemence. From ancient times, comets had always been regarded as heralds of disaster. This view is taken for granted in Shakespeare, for example, in “Julius Caesar” and in “Henry V.” Calixtus III, who was Pope from 1455 to 1458, and was greatly perturbed by the Turkish capture of Constantinople, connected this disaster with the appearance of a great comet, and ordered days of prayer that “whatever calamity impended might be turned from the Christians and against the Turks.” And an addition was made to the litany ; “From the Turk and the comet, good Lord, deliver us.” Cranmer, writing to Henry VIII in 1532 about a comet then visible, said : “What strange things these tokens do signify to come hereafter, God knoweth : for they do not lightly appear but against some great matter.” In 1680, when an unusually alarming comet appeared, an eminent Scottish divine, with admirable nationalism, declared that comets are “ prodigies of great judgment on these lands for our sins, for never was the Lord more provoked by a people.” In this he was, perhaps unwittingly, following the authority of Luther, who had declared ; “The heathen write that the comet may arise from natural causes, but God creates not one that does not foretoken a sure calamity.”
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 2.
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_02-190.HTM

『宗教と科学』第2章 コペルニクス革命(コペルニクス的転回) n.18

 まず法則の支配(から取上げてみよう)。例えば,日の出や季節の交替(移り変わり)のように規則正しく起るものもある一方,未来の出来事を知らせるかあるいは人々に自分たちの罪を悔いるよう命ずるところの兆候や前兆(signs and portents) であるものがある,と(昔は)考えられたガリレオの時代以降,科学者たちは自然の法則変化の法則と考えてきた。自然法則は,物体が一定の状況においてどのように動くであろうかを語り(tell 告げ),また,(今後)起るだろうことを我々が計算することを可能にするが,しかし,(過去に)起ったことは(将来も)起るだろうとは単純には言わない。我々は,太陽は長い間昇り続けるであろうが(注:地球は長い間自転し続けるであろうが),最終的には,潮汐作用の摩擦のために,今それ(地球の自転により太陽が昇るように見えること)を生じさせているまさにその同じ(自然)法則の働きを通して,太陽は昇らなくなってしまうかも知れない(可能性がある)ことを知っている(注:月の影響による潮汐作用による摩擦のために地球の自転が止まり、太陽が昇らなくなってしまうこと)。継続的な再発が主張される時にのみ自然法則を理解することができた中世の人々にとっては,こういった概念(conception 考え;着想)は複雑過ぎたのである(理解困難であった)。異常なことや再現性のないこと(もの)は,ただちに(directly),神の意志によるものだとされ(assigned to ~が原因だとされ/帰され),何らかの自然法則によるものとは見なされなかった。  天界においては,ほとんど全てのものが規則的なものであった(規則的だとされた)。日食は,一時期,例外であると考えられ,迷信的な恐怖を引き起こしたが,バビロニアの聖職者たち(カトリックの司祭たち)によって(神の定めた)法則によるものだとされた。太陽と月,惑星と恒星は,予期されている通りに,毎年,運行し続けた。新しいもの(天体)は何も発見されず,おなじみの天体がいずれも古くなることはなかった。(荒地出版社刊行の訳書で,津田氏は「新しいことは何も見出されず,周知のことが決して古くなることはなかった」と曖昧な訳をしているが、「no new ones were observed, and the familiar ones never grew old」の「ones (複数形!)」は太陽その他の天体(bodies)と解釈すべきであろう。)従って,地球の大気の上にあるもの(天体その他)は全て,創造主(神)によって意図された通りの完全さをもって一度だけ(once for all)創造されたと考えられるようになった。(即ち)成長と衰退は我々の地球に限られ,それ(成長と衰退=変化があること)は我々の祖先(アダムとイブ)の罪(=原罪)に対する処罰の一部であった。従って,流星と彗星は,一時的なものであり(永遠のものではなく),地球の大気中の,月下のものでなければならない(ということになる)。流星に関してはこの見解は正しかったが,彗星に関しては正しくなかった。

Chapter 2: The Copernican Revolution, n.18
To begin with the reign of law. It was thought that some things happened in a regular way, for example, the sunrise and the succession of the seasons, while other things were signs and portents, which either betokened coming events or summoned men to repent of their sins. Ever since the time of Galileo, men of science have conceived of natural laws as laws of change : they tell how bodies will move in certain circumstances, and may thus enable us to calculate what will happen, but they do not simply say that what has happened will happen. We know that the sun will go on rising for a long time, but ultimately, owing to the friction of the tides, this may cease to happen, through the working of the very same laws which now cause it to happen. Such a conception was too difficult for the mediaeval mind, which could only understand natural laws when they asserted continual recurrence. What was unusual or non-recurrent was assigned directly to the will of God, and not regarded as due to any natural law. In the heavens, almost everything was regular. Eclipses had at one time seemed to be an exception, and had roused superstitious terrors, but had been reduced to law by Babylonian priests. The sun and moon, the planets and the fixed stars, went on year after year doing what was expected of them ; no new ones were observed, and the familiar ones never grew old. Accordingly it came to be held that everything above the earth’s atmosphere had been created once for all, with the perfection intended by the Creator ; growth and decay were confined to our earth, and were part of the punishment for the sin of our first parents. Meteors and comets, therefore, which are transitory, must be in the earth’s atmosphere, below the moon, “sublunary.” As regards meteors, this view was right ; as regards comets, it was wrong.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 2.
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_02-180.HTM

『宗教と科学』第2章 コペルニクス革命(コペルニクス的転回) n.17

 神学者たちは,ガリレオに対する悲惨な「勝利」の後,この例で示したような公的に明確な態度をとること(official definiteness)は避けた方が賢明である(分別がある)と気づいたけれども,科学に対して敢えて蒙昧主義をとることに反対し続けた。 (注:「they continued to oppose obscurantism to science as far as they dared」のところを,荒地出版社刊の訳書で津田氏は「できるだけ科学に対し非強化主義をとることをやめなかった」と訳出している。津田氏は「非強化主義」をどういった意味で使っているかわからないが,そのままとれば意味が逆であろう。この一文は,「神学者たちが民衆に知識を与えずに無知のままにしておこうという「蒙昧主義をとることには反対し続けた」ととるべきであろう。因みに,obscruntism 蒙昧主義とは,「意図的に曖昧な言い方をしたり,またある問題を明るみにすることを妨げるような態度のこと」であり「啓蒙思想に対するカウンターとしての反啓蒙主義とは異なる」 。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E6%98%A7%E4%B8%BB%E7%BE%A9 即ち,神学者たちはコペルニクス説には反対したが,蒙昧主義の立場をとらなかったということを言っていると解釈すべきであろう。) これは(このことは),彗星の問題に対する彼ら神学者たちの態度によって例証されるかも知れない。現代の人々には彗星の問題は宗教と余り関係がないことのように思われるだろう。けれども,中世の神学は,-それ(中世の神学)は不変・不易である(immutable)と意図された唯一の論理体系であるという理由だけから- 必然的に,ほとんど全てのことに関して明確な見解をもつことは避けることができず(注:あいまいな見解や態度を示すことができず,従って,科学の最前線の全てにおいて(最前線の全てにおいて)闘いに従事する傾向があった(しがちであった)その(神学の)古さのせいで,神学の多くは単に組織化された無知であるに過ぎず,神学はその多くは文明開化の時代に生き残り続けてくるべきではなかった(いろいろな)誤謬に神聖な香り(the odor of sanctity 聖者のおもかげ,高徳の誉れ)を与えている。彗星に関して,(キリスト教の)聖職者たちの見解には2つの源泉があった。一つは,法則の支配は,我々(現代人)がそれを考えるようには考えられなかったことである(注:科学的な自然法則ではなく,神の定めた法則)。もう一つは,地球の大気のより上にあるものは全て不滅で(indestructible)なければなならいと考えられていたことである。

Chapter 2: The Copernican Revolution, n.17 Although the theologians, after their disastrous “victory” over Galileo, found it prudent to avoid such official definiteness as they had shown in that instance, they continued to oppose obscurantism to science as far as they dared. This may be illustrated by their attitude on the subject of comets, which, to a modern mind, do not seem very intimately connected with religion. Mediaeval theology, however, just because it was a single logical system intended to be immutable, could not avoid having definite opinions about almost everything, and was therefore liable to become engaged in warfare along the whole frontier of science. Owing to the antiquity of theology, much of it was only organized ignorance, giving an odour of sanctity to errors which ought not to have survived in an enlightened age. As regards comets, the opinions of ecclesiastics had two sources. On the one hand, the reign of law was not conceived as we conceive it ; on the other hand, it was held that everything above the earth’s atmosphere must be indestructible.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 2.
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_02-170.HTM

第2章 コペルニクス的革命(コペルニクス的転回) n.16

 プロテスタントの神学者たちは(が),当初は,カトリックよりも,新説(地動説など)に好意的だったと想ってはならない。しかし,いくつかの理由から,彼らプロテスタントの反対は効力がなかった。プロテスタント諸国においては,(カトリック諸国における)異端審問所ほど正統的信仰を強いるもの(body 組織体)はまったく存在していなかった。そのうえ,(キリスト教の)宗派が多様であったことも,効果的な迫害を困難にし,(また)宗教戦争が(民族や宗教諸派の)「統一戦線(united front)」を望ましいものとしていたので,なおさらそうであった。デカルトは,ガリレオが1616年に有罪判決を受けたことを聞いて恐怖にかられ,オランダに逃亡した。オランダでは,神学者たちがデカルトを処罰するよう叫んだが,オランダ政府は宗教上の寛容の原則をあくまでも支持した。とりわけ,プロテスタント教会は,教皇不可謬説(infallibility 無謬説/papal infallibility 教皇不可謬説/無謬説)に妨げられなかった。(プロテスタント諸国でも)聖書は言葉の上で霊感に充ちていると受けとられていたが,その解釈は個人の判断に委ねられ,間もなく,不都合なテキスト(聖句)をうまく釈明する(explain away)いろいろな方法が発見された(のである)。プロテスタンティズム(清教徒主義)は,教会支配に対する反抗として始まり,至るところで聖職者たち(the clergy)に対抗する世俗の権威の権力を増した。もし聖職者たちが権力を持っていれば,コペルニクス主義が広がるのをその権力を使って防ぐであろうことはまったく疑いの余地がなかった。1837年(という近年)になっても(So late as 1873),アメリカのあるルーテル神学校の前校長(ex-president of an American Lutheran Teachers’ Seminary)は,セント・ルイスにおいて,天文学に関する本を出版し,真理は聖書に求めるべきであり,天文学者の著作の中に求めるべきではないのであり,従って,コペルニクス,ガレリオ,ニュートン及びその後継者たちの教えは拒否しなければならないと釈明している。しかし,そのような時代遅れの抗議は,単なる感傷的なものに過ぎなかった。今日では,コペルニクス説(地動説)は最終的なもの(理論)ではないと同時に,科学的知識の発展において必要かつ非常に重要な一段階であっということが,あまねく(一般に)認められている(注:相対性理論によればどこも宇宙の中心ではなく,また仮にどこを宇宙の中心として考えてもよい)。

Chapter 2: The Copernican Revolution, n.16
It must not be supposed that Protestant theologians were, at first, any more friendly to the new theories than were the Catholics. But for several reasons their opposition was less effective. No body so powerful as the Inquisition existed to enforce orthodoxy in Protestant countries ; moreover, the diversity of sects made effective persecution difficult, the more so as the wars of religion made a “united front ” desirable. Descartes, who was terrified when he heard of Galileo’s condemnation in 1616, fled to Holland, where, though the theologians clamoured for his punishment, the Government adhered to its principle of religious toleration. Above all, the Protestant Churches were not hampered by the claim of infallibility. Though the Scriptures were accepted as verbally inspired, their interpretation was left to private judgment, which soon found ways of explaining away inconvenient texts. Protestantism began as a revolt against ecclesiastical domination, and everywhere increased the power of the secular authorities as against the clergy. There can be no question that the clergy, if they had had the power, would have used it to prevent the spread of Copernicanism. So late as 1873, an ex-president of an American Lutheran Teachers’ Seminary published at St. Louis a book on astronomy, explaining that truth is to be sought in the Bible, not in the works of astronomers, and that therefore the teaching of Copernicus, Galileo, Newton and their successors must be rejected. But such belated protests are merely pathetic. It is now admitted universally that, while the Copernican system was not final, it was a necessary and very important stage in the development of scientific knowledge.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 2.
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_02-160.HTM

第2章 コペルニクス的革命(コペルニクス的転回) n.15

 この判決が比較的寛大であったことには,自説撤回という条件が付いていた。従って,ガリレオは,公然と,ひざまずいて,異端審問所によって作成された(drawn up)長い決まり文句(formula)を暗唱した。その中で彼は次のように述べた。「私は,自分が過去に発した間違いや異端(説)を,誓って放棄し,呪い,嫌悪する。・・・私は,将来,口頭でも書物の中でも,同じような疑いを受けるようなことはいかなることも,これ以上決して言ったり,主張したりしない。」 彼は,さらに(went on 続けて),今後いまだに地球は動くと主張しているとわかった異端者はいかなる者も異端審問所に対し告発するだろうと約束するとともに,その手を福音書(Gospels)の上に置き,自分自身この説(地動説)を放棄したことを誓った。異端審問所は,当時(当代)最大の人物に偽誓(perjury)させることによって宗教上および道徳上の利益がかなえられたことに満足し,彼に,余生を獄中ではなく隠退して沈黙して送ることを許した。それは事実であるが,しかし(実際は),一切の行動が統制され,家族や友人に会うことも禁ぜられた。彼は1637年に盲目になり,そうして,1642年に亡くなった。その年はニュートンが生れた年であった。  教会(カトリック教会)は,支配下にある全ての学術及び教育機関において,コペルニクスの体系(地動説)を真理として教えることを禁止した。(そうして)1835年に至るまで,地動説を説く著作は禁書日録に載せられていた。1829年に,トルヴァルセン(Bertel Thorvaldsen、1770頃~1844:デンマークの彫刻家)のコペルニクス像(銅像)がワルシャワで除幕された時,この天文学者(コペルニクス)を称えるために多くの人々が集まったが,カトリック教会の司祭はほとんど現われなかった。200年間に渡って,カトリック教会は,ひとつの理論に対しいやいや反対を弱めつつも反対を維持したが,その期間(200年間)を通じて、ほぼ全ての有能な天文学者たちによって当該理論(コペルニクス説)は受け入れられていたのである。

Chapter 2: The Copernican Revolution, n.15
The comparative mildness of this sentence was conditional upon recantation. Galileo, accordingly, publicly and on his knees, recited a long formula drawn up by the Inquisition, in the course of which he stated : “I abjure, curse, and detest the said errors and heresies. … and I swear that I will never more in future say or assert anything, verbally or in writing, which may give rise to a similar suspicion of me.” He went on to promise that he would denounce to the Inquisition any heretics whom he might hereafter find still maintaining that the earth moved, and to swear, with his hands on the Gospels, that he himself had abjured this doctrine. Satisfied that the interests of religion and morals had been served by causing the greatest man of the age to commit perjury, the Inquisition allowed him to spend the rest of his days in retirement and silence, not in prison, it is true, but controlled in all his movements, and forbidden to see his family or his friends. He became blind in 1637, and died in 1642 — the year in which Newton was born. The Church forbade the teaching of the Copernican system as true in all learned and educational institutions that it could control. Works teaching that the earth moves remained on the Index till 1835. When, in 1829, Thorvaldsen’s statue of Copernicus was unveiled at Warsaw, a great multitude assembled to do honour to the astronomer, but hardly any Catholic priests appeared. Throughout two hundred years the Catholic Church maintained a reluctantly weakening opposition to a theory which, during almost the whole of that period, was accepted by all competent astronomers.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 2.
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_02-150.HTM

『宗教と科学』第2章 コペルニクス的革命(コペルニクス的転回) n.14

 しかし,科学界は賞讃した一方,(キリスト教の)聖職者たちは怒り狂った。ガリレオが沈黙を強いられた時代の間に,ガリレオの敵たちは,答えることは無分別であったであろう議論によって,その機会(ガリレオが沈黙している時)を利用して偏見を増していった。ガリレオの教えはキリストの現存説(実在説(the doctrine of the Real Presence)と矛盾すると強く主張された(It was urged that ~)。イエズス会士のメルキオル・インコフェル神父は,「地球が動くという説(地動説)はあらゆる異端の中で最も忌まわしく,最も有害で,最も恥さらしのものである。地球の不動性はまことに神聖である。霊魂の不滅,神の存在,(キリストの)顕現(化身)に反対する議論の方が,地球が動くことを証明する議論よりもむしろ耐えるべき議論である(まだましである)」と主張した。「タリホー(tally-ho)」(注:英国のキツネ狩りの時に発せられる叫び)といったようなかけ声とともに,神学者たちは互いに血潮を沸き立たせ,今や,病によって衰弱し,盲目になりつつある過程の一人の老人(注:ガリレオ)を追求する準備を全て整えていた。  ガリレオは,再度,異端審問所に出頭するようにとロ-マに召喚された。異端審問所(の裁判官たち)は屈辱を受けたという感情を抱いており,1616年の召喚の時よりも厳しい雰囲気にあった。(注:荒地出版社刊の訳書では,津田氏は「Galileo was once more summoned to Rome to appear before the Inquisition, which, feeling itself flouted, was in a sterner mood than in 1616」を「ガリレオは再び,ローマに召喚され,宗教裁判に立たされた。馬鹿げたことのようだが,それは1616年よりも厳しいものだった」と訳出している。どうして「馬鹿げだことのようだが」というような訳になるのか,誰が馬鹿げたことだと思っているのか不明。なお,「the Inquisiton」の定訳は「異端審問所」) 彼は,当初,病が重くてフローレンス(フィレンツエ)から(ローマへ)の旅に耐えられないと言い訳した。ここに至って,ローマ教皇は自分の医師(侍医)を罪人(culprit)を診察するために送り,もし病気が深刻な状態でないことがわかれば鎖につないで連れてくると脅かした。この脅しによって,ガリレオは彼の敵の医学上の密使の裁断を待たずに,旅に出る決意をした。というのは(教皇になる前は親しい友だった)ウルバヌス八世は今や彼の厳しい敵であったからである。彼はロ-マに着いた時,異端審問所の牢獄に入れられ,主張を撤回しなければ拷問するぞと脅かされた。(注:津田氏は「and (he was) threatened with torture if he did not recant. 」を「(宗教裁判の獄に投ぜられ))取り消しを迫られ拷問でおどされた」と訳出している。if 文をまったく無視している上に,「threatened with torture」は「拷問するぞ」という脅かしであり、拷問され「た」と取れるような訳し方はいただけない。因みに、「The employees thretened the manegement with a strike.」は「従業員はストライキをするぞと言って経営者側を脅かした」のであり、ストライキをして脅かしたわけではない。) 異端審問所は,「(ガリレオが)我らの主イユス・キリスト及びキリストの最も輝かしき聖母マリア(or 処女マリア)の最も聖なる御名を呼び」「もし真心と偽らぬ信仰をもって,我らの前で(in Our presence /なぜ大文字なのか不詳),上述の誤謬と異端とを誓って取り消し(abjure),呪い,嫌悪するならば」,ガリレオは異端のために与えられる処罰を受けるべきではないと布告した(decreed)。それでも,自説を取消し(recantation)と懺悔(penitence)にもかかわらず 「我らはあなたを有罪とし,この聖庁(バチカン法庁)の正式の獄に,我らの意志により決定される期間,入獄させる。また,有益な贖罪(罪の償い)として,我らは汝に以後三年間,週一度,七つの懺悔の賛美歌を朗唱することを命ずる」(ということになった)。

Chapter 2: The Copernican Revolution, n.14
But while the scientific world applauded, the ecclesiastics were furious. During the time of Galileo’s enforced silence, his enemies had taken the opportunity to increase prejudice by arguments to which it would have been imprudent to reply. It was urged that his teaching was inconsistent with the doctrine of the Real Presence. The Jesuit Father Melchior Inchofer maintained that “the opinion of the earth’s motion is of all heresies the most abominable, the most pernicious, the most scandalous ; the immovability of the earth is thrice sacred ; argument against the immortality of the soul, the existence of God, and the incarnation, should be tolerated sooner than an argument to prove that the earth moves.” By such cries of “tally-ho” the theologians had stirred each other’s blood, and they were now all ready for the hunt after one old man, enfeebled by illness and in process of going blind. Galileo was once more summoned to Rome to appear before the Inquisition, which, feeling itself flouted, was in a sterner mood than in 1616. At first he pleaded that he was too ill to endure the journey from Florence ; thereupon the Pope threatened to send his own physician to examine the culprit, who should be brought in chains if his illness proved not to be desperate. This induced Galileo to undertake the journey without waiting for the verdict of his enemy’s medical emissary — for Urban VIII was now his bitter adversary. When he reached Rome he was thrown into the prisons of the Inquisition, and threatened with torture if he did not recant. The Inquisition, “invoking the most holy name of our Lord Jesus Christ and of His most glorious Virgin Mother Mary,” decreed that Galileo should not incur the penalties provided for heresy, “provided that with a sincere heart and unfeigned faith, in Our presence, you abjure, curse, and detest” the said errors and heresies.” Nevertheless, in spite of recantation and penitence, “We condemn you to the formal prison of this Holy Office for a period determinable at Our pleasure ; and by way of salutary penance, we order you during the next three years to recite, once a week, the seven penitential psalms.”
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 2.
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_02-140.HTM