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年齢に関係なく,「知りたい」という欲求(好奇心)が非常に重要

 子供(たち)は,成長するにつれて,より間接的な動機に反応できるようになり,細かいことがすべてそれ自体で興味を引くものである必要は,もはやなくなる。しかし,教育に対する衝動(学びたいという衝動)は生徒の側から生まれなければならないという大原則は,何歳になっても引き続きあてはめることができる,と思う。生徒の教育環境は,学びたいという衝動を刺激するものでなければならないし,また,勉強するか,それとも退屈と孤独を味わうか,という二者択一をさせるものでなければならない。
しかし,いつでも,退屈と孤独(のほう)を選ぶ子供がいれば,そうさせてあげるべきである。幼年期を過ぎれば,ある程度クラスでの勉強も欠くことはできないと思われるけれども,ひとりで勉強するという原則は,拡大することができる。
だが,少年や少女を勉強するように導くために外からの権威が必要だとすれば,医学的な原因がある場合は別として,おそらく,教師がまちがっているか(落ち度があるか),それとも,以前の道徳的な躾けが悪かったか,そのどちらかであろう。子供が5歳ないし6歳まで正しい訓練を受けていれば,良い教師ならだれでも,子供が大きくなってからも,子供の興味を勝ち取ることができるはずである。

As children grow older they become responsive to more remote motives, and it is no longer necessary that every detail should be interesting in itself. But I think the broad principle that the impulse to education should come from the pupil can be continued up to any age. The environment should be such as to stimulate the impulse, and to make boredom and isolation the alternative to learning. But any child that preferred this alternative on any occasion should be allowed to choose it. The principle of individual work can be extended, though a certain amount of class work seems indispensable after the early years. But if external authority is necessary to induce a boy or girl to learn, unless there is a medical cause, the probability is that the teacher is at fault, or that previous moral training has been bad. If a child has been properly trained up to the age of five or six, any good teacher ought to be able to win his interest at later stages.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principlesl
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE14-130.HTM

<寸言>
死ぬまで枯渇することのない好奇心を持つことが出来るか、好奇心を拡大していくことができるか、いろいろなことに好奇心を持つように子どもを刺激することができるかが、教師の最大の役割であろう。決して、国家や社会にとって好都合なことを(疑問をもたない形で))「教え込む」ことが教師の最重要な使命であってはならない。

「教え込み」ではなく,子どもの興味・関心を「引き出し」「心身を育てる」

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・・・。逆に,もし最初に子供の知識欲を刺激し,その後,子供が求めている知識を一つの恩恵(贈り物)として与えることができるならば,状況はまったく異なってくる。外からの躾けは大幅に不必要になり,子供の注意力もやすやすと確保される。この方法で成功するためには,ある一定の条件が必要であり,モンテッソーリ夫人は,ごく幼い子供の間に,そうした条件を作り出すことに成功している。(即ち,)(子供に与えられる)課題は魅力的かつ難しすぎないものでなくてはならない。最初は,少し上の段階にいる他の子供たちのお手本がなくてはいけない。その時に,他に明らかに楽しい仕事(注:子供にとっては遊び=仕事)が子供のために用意されていてはならない。子供がしてもよいものがいくつかあれば,子供は,何であれ,自分の好むもの(好むほう)を自分のために(by himself)するのである。こういう体制のもとでは,ほぼすべての子供は完全に幸福であり,5歳以前に,強制しなくても読み書きできるようになる。

If, on the contrary, you can first stimulate the child’s desire to know, and then, as a favour, give him the knowledge he wants, the whole situation is different. Very much less external discipline is required, and attention is secured without difficulty. To succeed in this method certain conditions are necessary, which Madame Montessori successfully produces among the very young. The tasks must be attractive and not too difficult. There must, at first, be the example of other children at a slightly more advanced stage. There must be no other obviously pleasant occupation open to the child at the moment. There are a number of things the child may do, and he works by himself at whichever he prefers. Almost all children are perfectly happy in this regime, and learn to read and write without pressure before they are five years old.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principlesl
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE14-120.HTM

<寸言>
子どもはいろいろなことを知りたいという生まれつきの欲求をもっている。教育においてその欲求を利用しない手はない。
Education の本質は、教える(teach)ことではなく、興味・関心を引き出し、心身を育てる(educate)ことにある、といわれる所以である。

子供に,良い習慣を,強制によらずに,身につけさせる工夫

 幼児心理学に関する近代の著者たちは,皆,幼い子供に無理に食事させたり寝かしつけたりしないことが重要だ,と強調する。即ち,これらのことは,子どもをおだてたり,強制したりした結果ではなく,子供が自発的にするべきことである。
私自身の経験も,この教えを完全に支持している。最初,私たちは新しい教育法を知らなかったので,古い方法を試みた。これは,大変な失敗であったのに,近代的な方法は完全に成功した。
しかし,近代的な(考えの)親は子供が食べたり寝たりすることについては何もしない,と考えてはいけない。反対に,良い習慣の形成を促進するために,可能なことは全てなされているのである。子どもは決まった時間に食事をし,食事時間中は,食べても食べなくても,遊んだりしないでじっと座っていなければならない。寝る時間も決まっており,子供はベッドに横たわらなければならない。動物の玩具を抱いて寝てもよいが,キーキー声(音)を出したり,走ったり,興奮させるような動物の玩具はダメである。その動物の玩具がお気に入りの場合は,その動物は疲れているので,子供が寝かしつけてやらなければならないというゲームをしてもよい。そのあと,子供を独りにしておけば,普通,速やかに眠りが訪れるであろう。
しかし,あなたが寝たり食べたりしてもらいたがっている,というふうに子供に思わせてはいけない。そんなことをすれば,子供はただちに,あなたは頼みごとをしているのだ,と思いこむ。すると,子供は,自分には力があるという気持ちになり,ますますおだてたり,罰を与えたりしなければならなくなる。子供が食べたり眠ったりするのは,自分がそうしたいからであるべきであり ,あなた(親)を喜ばせるためであってはならないのである。

Modern writers on infant psychology all emphasize the importance of not urging a young child to eat or sleep : these things ought to be done spontaneously by the child, not as a result of coaxing or forcing. My own experience entirely bears out this teaching. At first we did not know the newer teaching, and tried the older methods. They were very unsuccessful, whereas the modern methods succeeded perfectly. It must not be supposed, however, that the modern parent does nothing about eating and sleeping ; on the contrary, everything possible is done to promote the formation of good habits. Meals come at regular times, and the child must sit through them without games, whether he eats or not. Bed comes at regular times, and the child must lie down in bed. He may have a toy animal to hug, but not one that squeaks or runs or does anything exciting. If the animal is a favourite, one may play the game that the animal is tired and the child must put it to sleep. Then leave the child alone, and sleep will usually come very quickly. But never let the child think you are anxious he should sleep or eat. That at once makes him think you are asking a favour ; this gives him a sense of power which leads him to demand more and more coaxing or punishment. He should eat and sleep because he wants to, not to please you.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principlesl
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE14-110.HTM

<寸言>
子供に,良い習慣を,強制によらずに,身につけさせる工夫をいろいろすることが重要。それは,子供の世話をする人は,頭のなかで考えているだけではわからないので,いろいろ実践して体得する必要がある。

「事実に関する正確さ」と「論理的な正確さ」

 事実に関する正確さは,それ自体(正確さ自体)のために追求されるときには,耐えられないくらい退屈なものである。英国の歴代王朝の年代とか,(英国の)州やその州都の名前とかを覚えるのは,以前は幼年時代の恐怖の一つであった。正確さの確保は,興味と反復によったほうがよい。私は,(英国の)岬の名前のリストをどうしても覚えることができなかったけれども,8歳のときにはロンドンの地下鉄の駅名をほとんど全部知っていた。子供たちに海岸づたいに航行する船の映画を見せてあげれば,彼らはすぐに岬の名前を覚えるであろう。私は,岬の名前など覚える価値があるとは思わないが,仮に価値があるとすれば,それを教えるには映画(注:今でいえば「動画」)を見せてあげればよい。地理は,すべて映画(注:動画)で教えるべきである。歴史もまた,最初は映画で教えるべきである。当初の費用は大変だろうが,政府にとってはそうではないだろう。それに,教えるのが容易になるので,(結局は)経済的だろう。

 論理的な正確さ,遅くなってから獲得されるものであり,幼い子供に押しつけてはならない。九九表を正しく覚えることは,もちろん,事実に関する正確さである。(即ち)ずっと後の段階になって初めて論理的な正確さとなるのである。数学は,論理的な正確さを教えるための自然な手段であるが,数学を恣意的な規則の集合であるように思わせるとうまくいかない。規則は覚えなければならないが,ある段階では,それらの規則を設ける理由を明らかにしてあげなければならないもしそれがなされなければ,数学の教育上の価値はほとんど失われてしまう。

Accuracy as to matter of fact is intolerably boring when pursued on its own account. Learning the dates of the kings of England, or the names of the counties and their capitals, used to be one of the terrors of childhood. It is better to secure accuracy by interest and repetition. I could never remember the list of capes, but at eight years old I knew almost all the stations on the Underground. If children were shown a cinema representing a ship sailing round the coast they would soon know the capes. I don’t think they are worth knowing, but if they were that would be the way to teach them. All geography ought to be taught on the cinema ; so ought history at first. The initial expense would be great, but not too great for Governments. And there would be a subsequent economy in ease of teaching.
Logical accuracy is a late acquisition, and should not be forced upon young children. Getting the multiplication table right is, of course, accuracy as to matter of fact ; it only becomes logical accuracy at a much later stage. Mathematics is the natural vehicle for this teaching, but it fails if allowed to appear as a set of arbitrary rules. Rules must be learnt, but at some stage the reasons for them must be made clear ; if this is not done, mathematics has little educative value.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principlesl
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE14-100.HTM

<寸言>
世界中あるいは日本中(親に連れられて)頻繁に旅行できる子どもは、地理が得意だろう。これに対し、数学などは金持ちの子どもができるということはない(少なくとも高学年についてはない)ので、より「民主的」な教育と言えなくもない。特に、試験で評価する場合なんかは・・・。

「美的な正確さ」と「美的な感受性」

 正確さにはいろいろ種類があり,それぞれ独自の重要性を持っている。主な種類をとりあげると,筋肉を使う正確さ,美的な正確さ,事実に関する正確さ,論理的な正確さがある。

すべての少年少女は,いろんな面で,筋肉を使う正確さの重要性を的確に認識できる。それは,身体をコントロールするために必要であり,健康な子供は余暇のすべてをこのコントロールを身につけることに費やす。それは,やがては自分の威信にかかわるゲーム(遊戯/競技)のためにも必要である。
しかし,筋肉を使う正確さには,もっと学校の授業(学校教育)にかかわりのある別な形もある。たとえば,明瞭な話し方,上手な書き方,楽器の正しい演奏の仕方などである。子供は,環境に応じて,これらのことを重要だと考えたり,重要でないと考えたりする。
美的な正確さは,定義しにくい。それは,ある知覚できる刺激が情緒を生み出すために適切かどうか,にかかわるものである。
美的な正確さの重要な形を教える一つの方法は,子供たちに,を -たとえば芝居をするためにはシェイクスピアの詩を- 暗記させることである。彼らが言いまちがえたときには,なぜ原文のほうがすぐれているかを感じとらせることである。美的な感受性が広くゆきわたっているところでは,子供たちに,ダンスや歌のような,伝統的な型にはまった演技を教えることができ,子供たちは,そういう演技を楽しむが,しかし,伝統に従って正確にそれを演じなければならない,ということがわかる,と私は信ずる。こうすれば,子供たちは,微妙な違いに気づくようになる。こういう感受性は,正確さにとって不可欠である。演技や歌唱や舞踏は,美的な正確さを教えるのに最適の方法であるように思われる。絵を描くことは,それらほどうまくいかない。なぜなら,絵は美的な基準によって判断されるよりも,お手本にどれだけ忠実であるかによって判断されやすいからである。なるほど,型にはまった演技も,お手本を再現することを期待されてはいる。しかし,そのお手本は,審美的な動機から創り出されたものである。お手本がよいからまねるのであって,まねることがよいからまねるのではない。

There are various kinds of accuracy, each of which has its own importance. To take the main kinds : There is muscular accuracy, aesthetic accuracy, accuracy as to matter of fact, and logical accuracy. Every boy or girl can appreciate the importance of muscular accuracy in many directions ; it is required for the control of the body which a healthy child spends all its spare time in acquiring, and afterwards for the games upon which prestige depends. But it has other forms which have more to do with school teaching, such as well-articulated speech, good writing, and correct performance on a musical instrument. A child will think these things important or unimportant according to his environment. Aesthetic accuracy is difficult to define ; it has to do with the appropriateness of a sensible stimulus for the production of emotion. One way of teaching an important form of it is to cause children to learn poetry by heart–e.g. Shakespeare, for purposes of acting–and to make them feel, when they make mistakes, why the original is better. I believe it would be found that, where aesthetic sensibility is widespread, children are taught conventional stereotyped performances, such as dances and songs, which they enjoy, but which must be done exactly right on account of tradition. This makes them sensitive to small differences, which is essential to accuracy. Acting, singing, and dancing seem to me the best methods of teaching aesthetic precision. Drawing is less good, because it is likely to be judged by its fidelity to the model, not by aesthetic standards. It is true that stereotyped performances also are expected to reproduce a model, but it is a model created by aesthetic motives ; it is copied because it is good, not because copying is good.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principlesl
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE14-090.HTM

<寸言>
伝統をまねたり(守ったり),人のやることをまねるのは,まねることが良いからまねるのではなく,まねるものが良いからまねるのである。良くないものをまねるのはよくない。だから,理屈をいわずにまずまねろと強制するのはよくない。

「好奇心」は最も重要な知的な美徳

 性格の改善は知育の目的とすべきことではないけれども,成功裏に(上首尾に)知識を追求するために非常に望ましく欠くことのできない性質がいくつかある。それは,知的な美徳(徳目)と呼んでもいいだろう。これらの知的な美徳(徳目)は,知育から生じるはずである。しかし,学習に必要な美徳(徳目)として生じるのであって,徳目のために追求される徳目(美徳のための美徳)として生じるのではない。そういう性質のうち主要なものは,次のようなものであると思われる。即ち,好奇心,偏見のなさ,知識を身につけることは困難だが可能であるという信念,忍耐,勤勉,集中力,精確さ,である。これらのうち,好奇心が(最も)基本的なものである。(つまり)好奇心が強く,正しい対象に向けられた場合には,残りの性質(美徳)はすべておのずと出てくる。

Although improvement of character should not be the aim of instruction, there are certain qualities which are very desirable, and which are essential to the successful pursuit of knowledge ; they may be called the intellectual virtues. These should result from intellectual education ; but they should result as needed in learning, not as virtues pursued for their own sakes. Among such qualities the chief seem to me : curiosity, open-mindedness, belief that knowledge is possible though difficult, patience, industry, concentration, and exactness. Of these, curiosity is fundamental ; where it is strong and directed to the right objects, all the rest will follow.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principlesl
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE14-040.HTM

<寸言>
好奇心がなくなったら半分死んだも同然。
年をとるにつれて「子どものような好奇心」をしだいに持てなくなるにしても,よほど不幸な境遇に陥らなければ、死ぬまで好奇心を持ち続けることは可能であろう。
しかし,そんな子どものときにさえ,あまり好奇心をもてなかった人は,おとなになっても周囲に対してあまり好奇心が持てそうもない。
その原因として幼児教育の失敗がかなり影響しているのではないか?

子ども(人間)の「性格形成」は6歳までに完成させるべきである

 これまで私たちのテーマであった性格の形成は,主に,幼年期にかかわる問題であるべきである。性格形成は,正しく行なわれたならば,6歳までにはほぼ完成していなければならない。6歳以後は性格が損なわれることはない,と私は言っているのではない。(即ち)あらゆる年齢において,不運な境遇や環境のために性格が害されることはあるからである。私が言っているのは,6歳以後は,幼年期に正しい訓練を受けた少年少女は,ある程度(子供たちをとりまく)環境に気をつけてあげれば,正しい方向へ向かう習慣と欲求を持っているはずである,ということである。
生後6年間正しく育てられた少年少女から成っている学校は,学校当局に良識が少しでもあれば,よい環境を形作るだろう。(そのような学校においては)道徳問題に多くの時間と思考を費やす必要はないはずである。なぜなら,それ以上に必要な徳目は,当然,純粋に知的な訓練から自然と出てくるはずだからである。私は,このことを学者ぶって絶対的な規則として主張しているのではなく,学校当局が重視すべき事柄について指針となる一つの原則として主張しているのである。もし子供たちが6歳まで適切に扱われているならば,学校当局は純粋に知的な進歩に力点を置き,それを足がかりにして,なお望まれる性格のさらなる発達を図るようにするのが一番よい,と私は固く信じている。

The building up of character, which has been our theme hitherto, should be, mainly a matter for the earlier years. If rightly conducted, it ought to be nearly complete by the age of six. I do not mean that a character cannot be spoilt after that age ; there is no age at which untoward circumstances or environment will not do harm. What I mean is that, after the age of six, a boy or girl who has been given the right early training ought to have habits and desires which will lead in the right direction if a certain care is taken with the environment. A school composed of boys and girls rightly brought up during their first six years will constitute a good environment, given a modicum of good sense in the authorities ; it ought not to be necessary to give much time or thought to moral questions, since such further virtues as are required ought to result naturally from purely intellectual training. I do not mean to assert this pedantically as an absolute rule, but as a principle guiding school authorities as regards the matters upon which they ought to lay emphasis. I am convinced that, if children up to the age of six have been properly handled, it is best that the school authorities should lay stress upon purely intellectual progress, and should rely upon this to produce the further development of character which is still desirable.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principlesl
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE14-010.HTM

<寸言>
逆に言えば、6歳までの性格形成がうまくいかなければ、その後、いろいろ支障がでてくる可能性がある、ということ。

モンテッソーリ夫人の功績

 保育園は,早期(幼年期)の性格訓練と,その後の知育(知識の教育)との中間の位置を占めている。保育園は,同時に両方の仕事を行なう。どちらの仕事も,お互いに助けとなりながら行なわれるが,子供が大きくなるにつれて,知育の割合がしだいに大きくなっていく。モンテッソーリ夫人が彼女の方法を完成させたのは,保育園と似たような機能を持つ施設においてであった。ローマ市内の(何箇所かの)大きな借家で,(それぞれ)大きな部屋が1つ,3歳から7歳までの子供たちのために用意され,モンテッソーリ夫人がこれらの「子供の家」の管理を委託されたのである(原注:モンテッソーリ『モンテッソーリ式教育法』(1912年),p.42以下参照)。デットフォード(Deptford)の場合と同様に,子供たちは最も貧困な階層の出身であった。デットフォードと同様に,その成果は,幼年期に面倒を見てあげれば,悪い家庭の身体的・精神的なハンディキャップを克服できることを示したのであった。

The nursery school occupies an intermediate position between early training of character and subsequent giving of instruction. It carries on both at once, and each by the help of the other, with instruction gradually taking a larger share as the child grows older. It was in institutions having a similar function that Madame Montessori perfected her methods. In certain large tenement houses in Rome a large room was set apart for the children between three and seven, and Madame Montessori was put in charge of these “Children’s Houses”. (note: See Montessori, The Monlessori Method (Heinemann, I9I2), pp 42ff.) As in Deptford, the children came from the very poorest section of the population; as in Deptford, the results showed that early care can overcome the physical and mental disadvantages of a bad home.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 13: Nursery School
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE13-060.HTM

<寸言>
子どもは「社会で育てる(×国家が育てる)」という考え方にたてるかどうかで,保育園に対する考え方や対応の仕方は変わってくる。古い考え方の持ち主は,3歳くらいまでは母親や祖父母が家庭できめ細やかに育てたほうがよいと考える。今はそのように考える人は少なくなっているが、政府が深く関与する場合には、国家や既存の社会体制に従順な人間になるように、道徳教育や愛国心教育を盛りたがる。国はお金は出すが口は出さないというのが一番よいが、税金を効率的に使うためと言って、規制をかけたり、いろいろ口に出すことが少なくない。北欧諸国のように、(税金は随分たくさんとられるけれども)大学まで教育費は無料、医療費も無料、という社会のほうがよいと思われるが・・・?

保育園の充実よりも,軍事力の増強を?

 保育園が一般的になれば,現在諸階級を分断している教育上の深刻な相違(差)を一世代のうちに取り払い,現在では最も好運な人びとのみに限られている心身の発達を,全ての人々が享受することを可能にし,また(さらに),今日進歩を困難にしている病気や愚かさや悪意といった恐ろしい重荷を取り除くことができるだろう。1918年の教育法のもと,保育園は国費(の助成)のよって促進される予定になっていた。
しかし,ゲデス削減案(注:1922年に英国の前運輸省長官で実業家エリック・ゲデス Eric Geddesを長とする委員会が提出した大幅な歳出削減案)が通過したとき,日本との戦争を容易にするために,巡洋艦を建造し,シンガポールのドックを造るほうが重要であると決定されてしまった目下,政府は,デンマーク産の純正バターを食べるよりも,大英帝国の自治領産のベーコンやバターに含まれる防腐剤で国民が自らに毒を盛るように仕向ける目的で,年間65万ポンドを費やしている。
この目的を確かなものにするために,わが国(英国)の子供たちは,病気と不幸に苦しみ,知性をめざめさせないように運命づけられているが,(仮に),年間同額の予算が保育園のために使われたならば,多くの人びとが(こういった不幸さから)救われるだろう。母親たち,今は投票権を持っている。(注:本書の出版は1926年だが,英国においては女性の制限選挙権が1918年に,男女平等の普通選挙権が1928年に認められた。)彼女たちは,いつの日か,わが子の幸せのためにそれを行使するようになるのだろうか?

The nursery school, if it became universal, could, in one generation, remove the profound differences in education which at present divide the classes, could produce a population all enjoying the mental and physical development which is now confined to the most fortunate, and could remove the terrible deadweight of disease and stupidity and malevolence which now makes progress so difficult. Under the Education Act of 1918, nursery schools were to have been promoted by Government money ; but when the Geddes Axe descended it was decided that it was more important to build cruisers and the Singapore Dock for the purpose of facilitating war with the Japanese. At the present moment the Government is spending £650,000 a year on such purposes as inducing people to poison themselves with preservatives in Dominion bacon ,and butter rather than eat pure butter from Denmark. To secure this end our children are condemned to disease and misery and unawakened intelligence, from which multitudes could be saved by the same sum a year spent on nursery schools. The mothers now have the vote; will they some day learn to use it for the good of their children?
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 13: Nursery School
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE13-050.HTM

<寸言>
国家主義者や軍国主義者の発想は、いつの時代も、どこの国も同様。
アベノミクスを支えるために、武器輸出を解禁し、原発を世界に売りさばこうとする安倍政権。口では保育園の充実を「叫んで」いるが、軍事費のなかの無駄を省くだけで、保育園の拡充は簡単にできるはず。しかし「愛国無罪」であり、「国民の命を守る」というお題目をたてることによって批判をかわすばかり。

マクミラン女史の保育園は1歳から小学校にあがるまで子供を預かる

 現在(注:1926年頃の英国),親の地位(身分)に応じて,二種類の学校がある。裕福な(親を持つ)子どものためのフレーベル式の学校モンテッソーリ式の学校があり,とても貧しい(親を持つ)子供のための少数の保育園がある。後者のうちで最も有名なものは,マクミラン女史の保育園であり,これについては,上述の著書の中に,子供を愛するすべての人が読むべき解説がある。私は,現行の裕福な子供たちの学校は,いずれも女史の保育園よりも劣るのではないかという意見に傾いている。その理由は,ひとつには,マクミランのほうがより多くの子供を扱っているからであり,ひとつには,彼女は中流階級の俗物根性が教師に押しつける小うるささに煩わされていないからである。教育当局(文部当局)は,子供は5歳から普通の小学校へ行くべきだという見解に傾いているけれども,彼女はできれば1歳から7歳までの子供を預かることを目指している
子供たちは,朝8時にやってきて,夕方6時まで保育園にいる。食事はすべて保育園でとる。できるだけ戸外で時を過ごし,室内でも普通よりずっと多くの新鮮な空気を与えられている。入園に先立って,子供は医学的な検査を受け,(健康に問題があるならば)可能ならば診療所や病院で治療してもらう。入園後は,ごくまれな例外をのぞいて,子供たちは健康になり,ずっとその状態が続く。(保育園には)広々とした美しい庭があり,(子どもたちは)多くの時間をそこで遊んで過ごす。教え方は,ほぼ,モンテッソーリ方式に沿っている。昼食後(注:After dinner 貧しい家庭の子どもたちにとっては,昼食がディナー 正餐となる,という含意が少しあるのか?),子供たちは皆昼寝をする。夜や日曜日は貧乏に打ちひしがれた家庭(我が家)で,ことによると酔っぱらった親といっしょに地下室で過ごさなければならないというにもかかわらず,彼らの体格や知能は,中流階級の子供たちが達する最上のタイプに匹敵するようになる。

There are, at present, two kinds of schools, according to the status of the parents. There are Froebel schools and Montessori schools for well-to-do children, and there are a small number of nursery schools for very poor children. Of the latter, the most famous is Miss McMillan’s, of which the above-mentioned book gives an account which should be read by every lover of children. I am inclined to think that no existing school for well-to-do children is as good as hers, partly because she has larger numbers, partly because she is not troubled by the fussiness which middle-class snobbery obtrudes upon teachers. She aims at keeping children, if possible, from one year old till seven, though the education authorities incline to the view that the children ought to go to an ordinary elementary school at the age of five. The children come at eight in the morning and stay till six in the evening ; they have all their meals in the school. They spend as much as possible of their time out-of-doors, and indoors they have an abnormal amount of fresh air. Before a child is admitted, he or she is medically examined, and if possible cured at the clinic, or in hospital. After admission, the children become and remain healthy with very few exceptions. There is a large, lovely garden, and a good deal of the time is spent in playing there. The teaching is broadly on Montessori lines. After dinner the children all sleep. In spite of the fact that at night, and on Sundays, they have to be in poverty-stricken homes, perhaps in cellars with drunken parents, their physique and intelligence become equal to the best that middle-class children achieve.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 13: Nursery School
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE13-040.HTM

<寸言>
生後1年間は育児休暇をとって子育てに専念するが,その後小学校にあがるまでは保育園(あるいは幼稚園)に子供を預かることができる制度があれば,女性も子供のために仕事をやめなくてもよくなる。日本でも、大企業や官公庁(文科省や東大など)も、独自に保育園を持つところが出てきている。職場付属の保育園であれば、時間的ロスを最小限にすることができるとともに、いざという時にはいつでも子供のもとにかけつけることができ、安心感がまったく違う。