「習慣は第二の天性である」 Habit is second nature!

fat-kid-eating-chips-watching-tv 子供たちは,概して,その置かれている状況に応じて,良い方向にも悪い方向にも展開可能な衝動を有している。さらに,子供たちは,新しい習憤を身につけることがいまだ容易な年頃にある。そして,よい習慣は,’徳’のほとんどを自動的なものとする(良い習慣を身に着ければ,良い行いをしようと意識的に努力しなくても,良い行いを自動的・無意識的にするようになる。)。

They (children) have, as a rule, impulses which can be developed in good or bad directions according to the situations in which they find themselves. Moreover, they are at an age at which the formation of new habits is still easy; and good habits can make a great part of virtue almost automatic.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 1: Postulates of Modern Educational Theory
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE01-130.HTM
quote-habit-is-the-second-nature_pascal

[寸言]
「悪い行い」をする大人が多いということは、子どもの時に悪い習慣を身につけた人が多いということですね。
習慣は「第二の天性」だと言われます。子どもは、親や親しい人のまねをする(同じような習慣を身につける)ものですので,大人は相手が子どもだからと甘く見ていると、好ましからぬ大人を再生産することになってしまいます。

「教育の推進力」を個々人の「自発的願望」に置きたいのだが・・・

VIRTUE-238x300 歩いたり話したりしようとする努力において示されているように,正常な子供が皆持っている’学びたいという自発的な願望’が,教育の推進力とならなければならない。この推進力を’むち’に代替させたことは,現代の大きな進歩の一つである。

The spontaneous wish to learn, which every normal child possesses, as shown in its efforts to walk and talk, should be the driving-force in education. The substitution of this driving-force for the rod is one of the great advances of our time.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 1: Postulates of Modern Educational Theory
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE01-120.HTM

[寸言]
empathy-good-manners 現代の国家は,「鞭」による教育はほとんどの国でやめ,「飴と鞭」の教育政策に移行している。外から「飴や鞭」を与えるのではなく、「個人の自発性をのばす」教育政策をとっている国は、残念ながらほどんど存在していない。主権国家がなくなり(廃藩置県にならって、「廃」主権国家「置」世界連邦政府」を断行しない限り、それは「絵に描いた餅」にすぎないかもしれない。

「高潔な」人々-自分を高潔だ(悪を懲らしめている)と思っている人々

Statue-of-Liberty_with-gun 高潔な人たちが,自分は正当にも「道徳的な悪」を懲らしめているのだと思いこんで行ってきた’戦争’や’拷問’や’虐待’のことを考えると,私は身震いする。

I shudder when I think of the wars, the tortures, the oppressions, of which upright men have been guilty, under the impression that they were righteously castigating ‘moral evil’.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 1: Postulates of Modern Educational Theory
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE01-110.HTM

[寸言]
aikoku-onna_seijikatachi 思うだけであれば個人の勝手(自由)であるが、権力者が「悪」(だとみなすもの)を懲らしめる時に、しばしば世界に不幸をもたらす。また、まともに抵抗できない者は,それ(強大な権力)に対抗するための新たな悪(自爆テロもその一つ)を持って対抗する。

特権階級しか享受できな教育(及び教育機関)は時代遅れ

tokken-kaikyu たとえば,両者(注:ロックとルソー)とも,自由主義民主主義に導いた傾向に属している。しかし,それにもかかわらず,両者とも,一人の人間の全ての時間がささげられるような,貴族の少年(息子)の教育しか考察していない。そのような方式(教育法)の結果がいかに優れていたとしても,近代的な物の見方をする人であれば,誰もそのような方式について,真剣に考察しないだろう。なぜなら,すべての子供におとなの個人教師が一人ずつ専念することなど,算術的に不可能だからである。それゆえ,そのようなシステム(やり方)は,特権階級によってのみ採用可能なものであり,公平な世界では存在不可能であろう。

tokken-kaikyu_nisei-giinBoth, for example, belong to the tendency which led to liberalism and democracy; yet both consider only the education of an aristocratic boy, to which one man’s whole time is devoted. However excellent might be the results of such a system, no man with a modern outlook would give it serious consideration, because it is arithmetically impossible for every child to absorb the whole time of an adult tutor. The system is therefore one which can only be employed by a privileged caste; in a just world, its existence would be impossible.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 1:Postulates of Modern Educational Theory
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE01-010.HTM

[寸言]
私的に大金を払って我が子に優秀な家庭教師をつけるのなら悪くはないであろうが、公的教育機関が経済的に豊かな家庭の師弟しか入学できないようなものであってはならない、ということ。

ルソーの教育論を賞賛する人が少なくないが,当時においてはすばらしくても、一部の富裕層や社会的地位が高い親の師弟しかその恩恵を享受できないような教育(及び公的教育機関)は、現代においては望ましくない。才能にめぐまれたごく小数の子供に対するエリート教育は必要であろうが,それはあくまでも例外的なものであり、社会を分断する(人間をグループ分けする)ような教育は,公的教育機関が行ってはならない

現代の日本では、経済的格差(貧困)教育格差を生んでおり,その教育格差経済的格差を再生産するような状況をもたらしている。だから医者や弁護士になるためには、親が医者や弁護士か、あるいは、親が資産家か、子供が(貸与型ではなく)給付型奨学金をもらえるように抜きん出て優秀である必要がある。

教化(善導)と迫害本能

chimimouryo_gosei 心の道徳律は,主に思いやりの感情と気だての良さからなると,私は思う。しかしこれらの性質はお説教によっては生み出されず,十分な消化力と健全な分泌腺と恵まれた環境によって生みだされる。 「関係者がみな不愉快な思いをしたとしても,自らの義務を果たせ」というのは教化(善導)であり,迫害本能に訴えるものである。
出典:ラッセル『アメリカン・エッセイ集』の中の「教化・善導について」
詳細情報:http://russell-j.com/EDIFY.HTM

The morality of the heart, as I see it, consists in the main of kindly feelings and good nature. But these cannot be produced by sermons: they are produced by good digestion, sound glands, and fortunate circumstances. “Do your duty, however unpleasant it may be for all concerned” is edifying and appeals to your sadistic instincts.

[寸言]
aikoku-onna_seijikatachi 我が子の教育にあたる教師は,高い道徳的な感性を持っていてほしいと多くの親が望みますが,ラッセルが言うように,「正しいことを教える(あるいは説教する)」ことばかりに力をいれる教師は余り良い教師とは言えません。現代日本ではむしろ,受験を意識した「知識の詰め込み」教育をしている教師の方が多いかもしれませんが,ラッセルがこのエッセイでのべているような ,教化(善導)を主張する教育関係者の悪意や迫害性を自覚している人はどれだけいるでしょうか?

「意識的な自己否定」によって自意識過剰に陥らず興味・関心を外に向けよう

utopia_creating 幸福な人生は,驚くほど,善い人生と同じである。職業的な道徳家は,これまで,自己否定を重視しすぎてきた。そして,それを重視しすぎることによって,強調すべきところを間違えてきた。意識的な自己否定は,人を自己に没入させ,自分が犠牲にしたものをまざまざと意識させる。その結果,自己否定は,しばしばその当面の目的を達成しないばかりか,必ずといってよいほど究極の目的も達成しない。必要なのは,自己否定ではなく --自分の美徳の追求に没頭している人なら意識的な自己否定によってのみ実行できるような行為を自発的かつ自然に可能とするように-- 興味を外へ向けること’である。

The happy life is to an extraordinary extent the same as the good life. Professional moralists have made too much of self-denial, and in so doing have put the emphasis in the wrong place. Conscious self-denial leaves a man self-absorbed and vividly aware of what he has sacrificed; in consequence it fails often of its immediate object and almost always of its ultimate purpose. What is needed is not self-denial, but that kind of direction of interest outward which will lead spontaneously and naturally to the same acts that a person absorbed in the pursuit of his own virtue could only perform by means of conscious self-denial.
出典: The Conquest of Happiness, 1930, chap. 17: Th Happy Man.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/HA28-030.HTM

[寸言]
chimimouryo_gosei 自分を過大評価することはよくないが,「自己否定」はもっとよくない。「自己否定」は謙虚なようでいて,「自意識過剰」に陥り危険が大きく,人を不幸にする。

皆、読心術を身につけたら・・・

Mind-Reading_brain-tobrain もし,私たちがみんな,魔法によってお互いの考えを読みとる力を与えられたとしたら,その最初の効果は,ほとんどすべての友情は解消されるだろうということだと思われる。しかし,第2の効果は,すばらしいものかもしれない。なぜなら,友人が一人もいない世界は耐えがたいと感じられるだろうし,そうして,私たちがお互い完全無欠とは思っていないということを自らに隠しておくための幻想のヴェールの必要性もなく,お互いを好きになれるはずだからである。
出典:ラッセル『幸福論』第8章「被害妄想」
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/HA18-020.HTM

If we were all given by magic the power to read each other’s thoughts I suppose the first effect would be that almost all friendships would be dissolved; the second effect, however, might be excellent, for a world without any friends would be felt to be intolerable, and we should learn to like each other without needing a veil of illusion to conceal from ourselves that we did not think each other absolutely perfect.

[寸言]
gizen_aida-mituo 「偽善」(を暗黙の了解/大人の了解)によって社会を維持するよりは,最初は大変でも「正直(あるいは誠実)」を旨としたほうがよい。

自殺の衝動にかられるラッセル-「自由人の崇拝」を書く無神論者のラッセル

ƒOƒ‰ƒ“ƒ`ƒFƒXƒ^[
ƒOƒ‰ƒ“ƒ`ƒFƒXƒ^[
 私の生涯で最も不幸な時期グランチェスターで過ごした。私の寝室は水力製粉所に面していた(注:現在は製粉所はないらしい。)。そうして製粉所の水車の水の流れる音と’私の絶望(感)は、分離できない状態で、混じり合っていた。私は、幾晩も、長い夜を、いつまでも眠らずに、ベッドに横たわっていた。まず最初にナイチンゲール(nightingale サヨナキドリ:夜美しく鳴くので有名/上の切手の鳥)の鳴き声を聞き、それから夜明けに鳥たちの合唱を聞き、日の出を眺め、そうして外界の美しさに慰めを見いだそうと努めた。私は、孤独から、非常に激しく、悩み苦しんだ。1年前は、孤独は人間の本質的な運命であると思っていた。私は、風になびいている白柳(whitening willows)が、平和の国からのメッセージを何かもたらしているのではないかと、ぼんやりと思いながら、グランチェスター周辺の野原を一人で散策した。
TPJ-ABR1 私は、宗教書の著者たちが自分たちの信条から得ている’慰め’のうちに、独断的な教条によらない何かがあるにちがいないという希望をいだいて、テイラー(Jeremy Taylor, 1613-1667)の「聖なる死」といったような宗教書を何冊か読んだ。純粋な瞑想の中に避難しようと試みた。即ち、「自由人の崇拝」(A Free Man’s Worship)を執筆し始めた。散文のリズムを組み立てることは、私が真の慰めをいくらか見いだした唯一のものであった。

The most unhappy moments of my life were spent at Grantchester. My bedroom looked out upon the mill, and the noise of the millstream mingled inextricably with my despair. I lay awake through long nights, hearing first the nightingale, and then the chorus of birds at dawn, looking out upon sunrise and trying to find consolation in external beauty. I suffered in a very intense form the loneliness which I had perceived a year before to be the essential lot of man. I walked alone in the fields about Grantchester, feeling dimly that the whitening willows in the wind had some message from a land of peace. I read religious books such, as Taylor’s Holy Dying, in the hope that there might be something independent of dogma in the comfort which their authors derived from their beliefs. I tried to take refuge in pure contemplation; I began to write The Free Man’s Worship. The construction of prose rhythms was the only thing in which I found any real consolation.
出典:The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 6: Principia Mathematica, 1967]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB16-090.HTM

[寸言]
情熱的な恋愛で5歳年上のアリスと結婚したラッセル。しかし、いろいろな行き違いが重なり、いつしかアリスから心が離れていく。
また、ラッセルは(両親が早くなくなり孤独であったので)子どもが欲しいという気持ちが人一倍強かったが、アリスは子どもが産めない身体であることが判明する。そうして、ラッセルは一生子どもを持つことはあきらめようと決意する。

グランチェスターはホワイトヘッド夫妻が住んでいた家であるが、ホワイトヘッドとプリンキピア・マテマティカを共同執筆していた時期、ラッセルも同居していた。
ラッセルはホワイトヘッドの奥さん(Evelyn)に好意をもっていたが、心臓病をわずらっていた。ある日、ラッセルは、グランチェスターの家にもどると、Evelyn が心臓病で死の苦しみに陥っている姿を目の前にする。しかし、何もしてあげることができない。Evelyn が独りで苦しむ姿を目撃し、人間の孤独をまざまざと実感し、今後は、人々の苦しみを少しでも減らす仕事をしたいと「回心」する。

(一時的な)流行追求や趣味は現実逃避のための手段である場合が少なくない

escaptism_escape-from-reality しかしながら,(一時的な)流行追求や趣味は,多くの場合-多分大部分-、根本的な幸福の源泉ではなく,現実からの逃避のための手段になっている。即ち,直視するには大きすぎる苦痛を当面の間忘れるための手段になっている。根本的な幸福は,ほかの何にもまして,人(間)や事物に対する友好的な関心とも言うべきものに依存しているのである。
出典:ラッセル『幸福論』第10章「今でも幸福は可能か?」
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/HA21-060.HTM

Fads and hobbies, however, are in many cases, perhaps most, not a source of fundamental happiness, but a means of escape from reality, of forgetting for the moment some pain too difficult to be faced. Fundamental happiness depends more than anything else upon what may be called a friendly interest in persons and things.

[寸言]
他者(マスコミ,親,組織,その他)から与えられる(既成のもの)もので満足できるのなら,それはそれでよいだろう。しかし,通常は,作られる流行にのってばかりいる自分がいやになったり,人からみればどんなに小さなものでも,自分で創作したり,他者からのすすめを無視して自分で探し選びとりたくなるものであろう。

abe_olimpic-shochi 世の中には,スポーツ,グルメ,ファッション,その他,商業主義にもと,作られた流行が横行している。それらを追いかけていれば,気はまぐれ,そこそこの満足が得られるだろう。しかし,年をとってそういったものに興味を持てなくなれば悲劇である。それに対し,たいしたものでなくても,長い間につちかった,つみあげた喜びは,そう簡単に消え去るものではない。

所有衝動よりも創造衝動を! 所有物は消えてなくなりやすいが,他人と共有できる創造物は末永い喜びの源泉となるだろう。

付和雷同を慎む

Bertrand Russell Quote Fools and Fanatics 自分をとりまく環境とうまくいかないのは,もちろん,不幸ではあるが,それは常に,いかなる犠牲を払っても避けなければならない不幸であるわけではない。環境が愚かであったり,偏見にみちていたり,残酷であったりするような場合は,それと同調しないことは,長所(美点)の印である。
出典:ラッセル『幸福論』第9章「世論に対する恐れ」
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/HA19-040.HTM

To be out of harmony with one’s surroundings is, of course, a misfortune, but it is not always a misfortune to be avoided at all costs. Where the environment is stupid or prejudiced or cruel, it is a sign of merit to be out of harmony with it.

[寸言]
独善的になってはいけませんが,過度に周囲にあわせることは不幸の種ともなり ます。自分が正しいと思ったら,孤立することを恐れずに(ただし周囲の人々を 過度に非難せずに),自我を通すことは,長い目でみればきっとよいことがあると 思われます。

2022年はラッセル生誕150年