知的戯言の概要(1943) n.53

恐怖心を遠ざける(避ける)方法には二つある。一つは、我々は災難を免れていると自分を説得することによってであり、もう一つは、真の勇気を奮うことによってである。後者は難しく。そうして、ある一定の点までくると誰にとっても不可能となる。従って、前者が常に後者よりも人気があり続けてきた。原始的な魔法には、敵を傷つけるか、あるいは、お守り(護符)、呪文(spells)、もしくは顕現(incarnations)によって自分自身を守るかして、安全を確保するという目的がある。 本質的な変化なしに、そのような危険を遠ざける(避ける)方法への信仰はパピロニア文明の時代を通して存続し、バビロンからアレクサンダー帝国全体に広がり、そうしてローマ人がヘレニズム文化を吸収する過程において、彼らによって獲得されたのである。(その後それは)ローマ人から中世のキリスト教世界及びイスラムの世界に伝わった。科学は、今日、魔法への信仰(belief in magic)を弱めたが、多くの人々は、公言する以上に、マススコット(注:幸運をもたらすお守り的なもの)を信じており、また、魔術(socery)は教会によっては非難されているが、依然として公的には可能性がある罪(a possible sin:実際に罪とされるかどうかは文脈や社会的な価値観に依存するもの)なのである。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.53
There are two ways of avoiding fear: one is by persuading ourselves that we are immune from disaster, and the other is by the practice of sheer courage. The latter is difficult, and to everybody becomes impossible at a certain point. The former has therefore always been more popular. Primitive magic has the purpose of securing safety, either by injuring enemies, or by protecting oneself by talismans, spells, or incantations. Without any essential change, belief in such ways of avoiding danger survived throughout the many centuries of Babylonian civilization, spread from Babylon throughout the empire of Alexander, and was acquired by the Romans in the course of their absorption of Hellenistic culture. From the Romans it descended to medieval Christendom and Islam. Science has now lessened the belief in magic, but many people place more faith in mascots than they are willing to avow, and sorcery, while condemned by the Church, is still officially a possible sin.

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知的戯言の概要(1943) n.52

自尊心の他に(besides ~に加えて)、それ以外の情熱も過ちの一般的な源泉(common sources ありふれた源泉)である。それらのなかで恐らく最も重要なのは恐怖心であろう(注:perhaps を使っているので断定まではしていない)。恐怖心は、時には、戦時に大惨事の噂を捏造(ねつぞう)したり、あるいは、恐怖の対象、たとえば幽霊、を想像したりすることによって、直接的に作用する。また時には、なにか慰めになるもの、たとえば不老不死の霊薬(elixir of life)といったものへの信仰とか、我々自身のための天国や我々の敵のための地獄への信仰を創り出すことによって、恐怖心、は間接的に作用する。恐怖心には多様な形態がある。死に対する恐怖(心)、暗闇に対する恐怖(心)、未知なものに対する恐怖(心)、群衆に対する恐怖(心)、及び、もっと具体的で明確な恐怖(specific terrors)から自ら隠している(目を隠している)人達に訪れる漠然とした一般的な恐怖心である。自分自身へのその人固有の恐怖(心)を自分で認めるまでは、また、そうして、それらの恐怖(心)の持つ神話造りの力に対して、困難な意志の努力によって自分自身を守るまでは、非常に重要な多くの事柄、特に、宗教的信念に関係するような事柄について、 真に考えることを期待することはできない。恐怖心は迷信の主要な源泉であり、また残酷さの主要な源泉の一つである。恐怖心を克服することは知慧の始まりである。それは、真理の探究においてもそうであるし、また価値ある人生態度をとろうとつとめる場合においても同様である。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.52

Other passions besides self-esteem are common sources of error; of these perhaps the most important is fear. Fear sometimes operates directly, by inventing rumors of disaster in war-time, or by imagining objects of terror, such as ghosts; sometimes it operates indirectly, by creating belief in something comforting, such as the elixir of life, or heaven for ourselves and hell for our enemies. Fear has many forms — fear of death, fear of the dark, fear of the unknown, fear of the herd, and that vague generalized fear that comes to those who conceal from themselves their more specific terrors. Until you have admitted your own fears to yourself, and have guarded yourself by a difficult effort of will against their mythmaking power, you cannot hope to think truly about many matters of great importance, especially those with which religious beliefs are concerned. Fear is the main source of superstition and one of the main sources of cruelty. To conquer fear is the beginning of wisdom, in the pursuit of truth as in the endeavor after a worthy manner of life.

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