罪であることにも、罪でないことにも、同様に(equally)、私は当惑させられる。(訳注:”equally”は「罪であること」と「罪でないこと」の両方にかかっている。つまり、この後を読めばわかるように、「動物を殺すことは罪でない」ということにも当惑させられること。しかし、理想社版の山田英世・訳では、原文にない「の区別」を補って、「罪であることと罪でないこと(の)区別によって私はひどく当惑させられる」と訳出している。) 動物虐待防止協会(動物愛護協会)がローマ教皇に支持を求めた時、人間は下等動物に対しては義務を負っておらず、動物を虐待することは罪ではないとの理由で、彼は支持することを断った。これは動物は魂を全く持っていないという理由からである。他方、あなた(注:男性)は、自分の亡き妻の妹(あるいは姉)と結婚することは、たとえ両者が結婚したいとどれだけ強く望んでいても、邪悪であると、少なくとも(カトリック)教会はそのように教える(訳注:同上、山田・訳では「your deceased wife’s sister(あなたの亡くなった妻の妹or姉)を「自分の病気の妻の妹」と誤訳している。「deceased」は「死亡」の婉曲表現だと言うことぐらい・・・?) これは、(結婚の結果起こるかもしれない)何らかの不幸が理由ではなく、聖書に書かれている文章がその理由である。 使徒信条のなか一箇条である肉体の復活は様々の奇妙な結果を生み出す教義である。 それほど昔のことではないが、ある一人の著作家が世界の終末の日を計算する独創的な方法を持っていた。彼は、世界の終わりの日(終末日)に全ての人に必要なものを与えるのに十分なだけの人体に必要な成分というものがなければならない、と論じた。手に入る原材料を注意深く計算し、彼は、そこで、その分をさし引い てあまりの利用可能な原材料を注意ぶかく計算することによっ、それはすべてある特定の日までに消費されてしまうだろうと、結論を下した。その期日がやってくればこの世界は終 るにちがいない。なぜなら、そうでないと、必要な原材料が不足して肉体の復活は不可能となるに違いないからである。不幸にも私は、その日(世界の終末の期日)がいつだったかを忘れしまっている。しかし、それはそう遠くではない、と私は信じている(注:からかい言葉)。