(ラッセルのパラドクスよりも)もっと古いパラドクス(論理的矛盾)があり、それらのいくつかは古代ギリシャ人たちに知られており、それらは私の発見したのと同様と私には思われる問題を引き起こした。ただし、私の後に続いた著者たちは、それらを(ラッセルのパラドクスとは)異なった種類のパラドクスであると考えた。それらのパラドクスのなかで最もよく知られているものは、クレタ人のエビメニデスについてのパラドクスであった。(即ち)彼は「全てのクレタ人は嘘つきである」と言い、そうしてそう言った時、彼(自分)は嘘をついているかどうかを、人々に答えさせた(caused to ask)。このパラドクスは、もし人が「私は(今)嘘をついている」と言う時、最も単純な形で知られる(理解される)。もし彼が嘘をついているならば、「彼が嘘をついている」ということは嘘であり(嘘となり)、従って彼は真実(本当のこと)を言っていることになる。しかし、彼が真実を言っているのならば、彼は嘘をついている(ことになる)。なぜなら、それが彼が自分でやっていると言っていることだからである。このようにして、(論理的)矛盾は不可避となる。この(論理的)矛盾は、聖パウロによって言及されているけれども(原注:「テトス書」第1章第12節)(訳注:「クレテ人のうちのある預言者が「クレテ人は、いつもうそつき、たちの悪いけもの、なまけ者の食いしんぼう」と言っているが・・・」と書かれている)、聖パウロはその矛盾の論理的側面には興味を持たず、異教徒たちは邪悪であるということを示していることのみに興味を持っていた。しかしこのような古代の謎は、数学者達からは自分たちの主題(数学)に何の関係もないものとしてしりぞけるこことが可能であった。けれども、彼ら数学者は(も)最大の基数は存在するかどうか、また、最大の序数(=順序数)は存在するかどうか、という問いははっきりと無視することはできず、これら二つの問いは、彼ら数学者達を(論理的)矛盾に陥らせた(のである)。最大の序数(順序数)に関する(論理的)矛盾は、私が論理的矛盾(ラッセルのパラドクスを発見する前に、既にブラリ・フォルティによって発見されていたが、彼の発見した事例はずっと複雑なものであった(注:単純なことで矛盾に陥ることがより重要)。そうして、私は(ラッセルのパラドクス発見前は)、自分の推理に何かつまらない間違いがあるのだろうと考えて済ませていた。いずれにせよ、ブラリ・フォルティの発見した矛盾は、私の発見した論理的矛盾よりもずっと複雑なものであったので、一見したところ、それほど破壊的なものには思われなかった。しかし、最終的には、それもまた同様に重大なものであることを私も認めなければならなかった。
Chapter 7: Principia Mathematica: Philosophical Aspects, n.5 There were older paradoxes, some of them known to the Greeks, which raised what seemed to me similar problems, though writers subsequent to me considered them to be of a different sort. The best known of these was the one about Epimenides, the Cretan, who said that all Cretans are liars, and caused people to ask whether he was lying when he said so. This paradox is seen in its simplest form if a man says, ‘I am lying’. If he is lying, it is a lie that he is lying, and therefore he is speaking the truth; but if he is speaking the truth, he is lying, for that is what he says he is doing. Contradiction is thus inevitable. This contradiction is mentioned by St Paul, who, however, is not interested in its logical aspects but only in its demonstration that the heathen are wicked. But such ancient puzzles could be dismissed by mathematicians as having nothing to do with their subject, though they could not well ignore the questions whether there is a greatest cardinal or a greatest ordinal, both of which landed them in contradictions. The contradiction about the greatest ordinal was discovered by Burali-Forti before I discovered my contradiction, but the matter in his case was much more complex, and I had therefore allowed myself to suppose that there was some unimportant error in the reasoning. In any case, his contradiction, being much less simple than mine, seemed prima facie less devastating. In the end, however, I had to admit that it was just as serious.
Source: My Philosophical Development, chap. 7:1959.
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