ラッセル『私の哲学の発展』第5章 「一元論にそむいて多元論へ」 n10

<しばらく小難しい議論が続きます。わかりにくいとことは飛ばしてください。>

 内的関係の公理(注:「内面的関係」を「内的関係」に変更/内的関係説)に反対するもっと綿密な議論(論証)(A more searching argument)は、ひとつの項(term)の「本性(性質)」は何を意味するか(項の「本性(性質)」の意味)について考察することに由来している。「項の本性(性質)」は、「項そのもの」と同一なのか、あるいは異なっているのか。もし異なっているとすればと本性(性質)は項に対してある関係をもたなければならないことになり、この関係は、無限後退におちいることなしに、関係以外の何ものかに還元することはできない。従って(thus こうして)この公理(内的関係説)が支持されるべきだとするなら、項がその本性(性質)と異なったものではない,と想定しなければならない。その場合には、(一つの)述語(a predicate)を(一つの)主語(a subject)に帰属させるあらゆる真なる命題は、純粋に分析的なもの(分析命題)となるなぜなら、主語はそれ自身の全ての本性(性質)の全体(注:its own whole nature)であり、述語はその本性(性質)の部分(一部)であるからである。しかし、この場合、(いくつかの)述語を、一つの主語の(配下の)述語として結合させる接着剤は何であろうか? もしも主語が、それ自身の述語の体系そのものに他ならないとすれば、いくつかの述語の任意のいかなる集まり(集合体)でも、ひとつの主語を構成しうると考えられることになるであろう(注:倒置型になっている。/一般人の常識では主語と述語は別物であるが「主語=諸述語の集合体」だと考えることも可能)。もし一つの項の「本性(性質)」が多くの述語からなるものであり、そしてそれが同時に項そのものと同一のものであるならば、一体主語Sが述語Pを持つかどうかと問う場合に、その問いの意味を理解することが不可能であるように思われる。なぜなら、この問いは「Pは、Sの意味を説明する場合に枚挙される述語のうちの一つであるか」という意味ではもちろんありえないのであるが、上の見解によれば、そういう意味に取るより他ない(他の意味にとることができない)ように見えるからである。つまり今議論している(問題にしている)見解では --ある述語(predicates 述部)が一つの主語の述語であると言われるための根拠となるところの(in virtue of which they may be called predicates of one subject)-- いろいろの述語の間の「コヒーレンス」の関係(注:a relation of coherence 全体を貫く一つの関係/全体を束ねる一つの関係?)を導入しようとしてもできない。というのは、それは関係を述語に還元するのではなく、叙述(predications)を一つの関係に基礎づけることになるだろうからである。このようにして,我々は、主語がそれ自身の「本性(性質)」とは異なると考えてもまた異ならないと考えても、同様な困難に陥ることになる。〔「この点については私の著書『ライプニッツの哲学』第21節、24節、25節を参照〕

Chapter 5: Revolt into Pluralism, n.10
A more searching argument against the axiom of internal relations is derived from a consideration of what is meant by the ‘nature’ of a term. Is this the same as the term itself, or is it different? If it is different, it must be related to the term, and the relation of a term to its nature cannot, without an endless regress, be reduced to something other than a relation. Thus if the axiom is to be adhered to, we must suppose that a term is not other than its nature. In that case, every true proposition attributing a predicate to a subject is purely analytic, since the subject is its own whole nature, and the predicate is part of that nature. But in that case, what is the bond that unites predicates into predicates of one subject? Any casual collection of predicates might be supposed to compose a subject, if subjects are not other than the system of their own predicates. If the ‘nature’ of a term is to consist of predicates, and at the same time to be the same as the term itself, it seems impossible to understand what we mean when we ask whether S has the predicate P. For this cannot mean; ‘Is P one of the predicates enumerated in explaining what we mean by S?’ and it is hard to see what else, on the view in question, it could mean. We cannot attempt to introduce a relation of coherence between predicates, in virtue of which they may be called predicates of one subject; for this would base predication upon a relation, instead of reducing relations to predications. Thus we get into equal difficulties whether we affirm or deny that a subject is other than its ‘nature’. [[On this subject, cf. my Philosophy of Leibniz, §§ 21 , 24 , 25]
 Source: My Philosophical Development, chap. 5:1959.  
 More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_05-100.HTM