「ラッセル哲学の発展」カテゴリーアーカイブ

知的戯言の概要(1943) n.8

 罪であることにも、罪でないことにも、同様に(equally)、私は当惑させられる。(訳注:”equally”は「罪であること」と「罪でないこと」の両方にかかっている。つまり、この後を読めばわかるように、「動物を殺すことは罪でない」ということにも当惑させられること。しかし、理想社版の山田英世・訳では、原文にない「の区別」を補って、「罪であることと罪でないこと(の)区別によって私はひどく当惑させられる」と訳出している。) 動物虐待防止協会(動物愛護協会)ローマ教皇に支持を求めた時、人間は下等動物に対しては義務を負っておらず、動物を虐待することは罪ではないとの理由で、彼は支持することを断った。これは動物は魂を全く持っていないという理由からである。他方、あなた(注:男性)は、自分の亡き妻の妹(あるいは姉)と結婚することは、たとえ両者が結婚したいとどれだけ強く望んでいても、邪悪であると、少なくとも(カトリック)教会はそのように教える(訳注:同上、山田・訳では「your deceased wife’s sister(あなたの亡くなった妻の妹or姉)を「自分の病気の妻の妹」と誤訳している。「deceased」は「死亡」の婉曲表現だと言うことぐらい・・・?)  これは、(結婚の結果起こるかもしれない)何らかの不幸が理由ではなく、聖書に書かれている文章がその理由である。  使徒信条のなか一箇条である肉体の復活は様々の奇妙な結果を生み出す教義である。 それほど昔のことではないが、ある一人の著作家が世界の終末の日を計算する独創的な方法を持っていた。彼は、世界の終わりの日(終末日)に全ての人に必要なものを与えるのに十分なだけの人体に必要な成分というものがなければならない、と論じた。手に入る原材料を注意深く計算し、彼は、そこで、その分をさし引い てあまりの利用可能な原材料を注意ぶかく計算することによっ、それはすべてある特定の日までに消費されてしまうだろうと、結論を下した。その期日がやってくればこの世界は終 るにちがいない。なぜなら、そうでないと、必要な原材料が不足して肉体の復活は不可能となるに違いないからである。不幸にも私は、その日(世界の終末の期日)がいつだったかを忘れしまっている。しかし、それはそう遠くではない、と私は信じている(注:からかい言葉)。

知的戯言の概要(1943) n.7

A woman with medium length red hair, wearing a pink shirt, light blue leggings and gray shoes, kneels on a kneeler with soft beige cushion, as she closes and bows her head to pray, both hands together in praying position and resting on top of a beige confessional, that is separating her from a seated priest with balding gray hair, wearing a black clergy gown, white collar, a violet stole worn around his neck, black pants and black shoes, both of his eyes are closed in concentration

 「罪」という概念全体が非常に人を戸惑わせる概念だと私には思われるが、これは私の罪深い性格によるものであることは疑いもないことである(注:冗談)。もし「罪」というものが、無用の損害をさけることにあるというのであれば、私も理解できる。数年前、イギリスの上院(貴族院)で、苦痛がはげしくて耐えられない場合安楽死を合法 化する法案が提出された。数枚の診断書患者の同意が必要であった。私には、単純に考えて、患者の同意を要求することは当然のことだと思われた。しかし、前カンタベリー大僧正 -カンタベリー大僧正は罪にかんするイギリスの公認専門家である―  はそのような見解は誤りであると説明した。 (即ち、)患者の同意は安楽死を自殺にかえるものであり、そうして自殺は罪である(とのことであった)。上院の閣下達(貴族院議員諸君)はこの権威の声に耳を傾けた(傾聴した)、そうして、その法案を否決 した。その結果、大僧正を ―そして、もし彼が正しく報告しているとすれば、(彼が信ずる)神を喜ばせた。癌の犠牲者達はいぜんとして、かれらの医者あるいは看護婦が殺人のとがめを受ける危険をおかしてもよいとするほど十分になさけ深くないかぎり、何ヶ月も全く無用の苦しみに耐えなければならないのである。そのような拷問をじっと見つめる(熟視熟考する)ことから喜び得る神というものの概念に私は困難を見出す(理解できない)。そしてそのような気まぐれな残忍行為をなしうる神が もしあるとすれば、その神は崇敬に値するものとはとても考えられない。 しかしこのことはただ私が 道徳的にどんなに堕落しているかを証明するものにほかならない(注:もちろん、皮肉)。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.7 .
The whole conception of “Sin” is one which I find very puzzling, doubtless owing to my sinful nature. If “Sin” consisted in causing needless suffering, I could understand; but on the contrary, sin often consists in avoiding needless suffering. Some years ago, in the English House of Lords, a bill was introduced to legalize euthanasia in cases of painful and incurable disease. The patient’s consent was to be necessary, as well as several medical certificates. To me, in my simplicity, it would seem natural to require the patient’s consent, but the late Archbishop of Canterbury, the English official expert on Sin, explained the erroneousness of such a view. The patient’s consent turns euthanasia into suicide, and suicide is sin. Their Lordships listened to the voice of authority, and rejected the bill. Consequently, to please the Archbishop — and his God, if he reports truly — victims of cancer still have to endure months of wholly useless agony, unless their doctors or nurses are sufficiently humane to risk a charge of murder. I find difficulty in the conception of a God who gets pleasure from contemplating such tortures; and if there were a God capable of such wanton cruelty, I should certainly not think Him worthy of worship. But that only proves how sunk I am in moral depravity.  Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943  Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
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知的戯言の概要(1943) n.6

 もし信心深い人々の言うことを信じるべきであるとすれば、神の慈悲は時折、不思議なほど選択的(選り好みをするもの)である。『千歳岩(Rock of Ages)』の著者トップレディ(Augustus Toplady, 1740-1778)は ある牧師館から別の牧師館に移動した。(そうして)その一週間後に、彼が前に住んでいた牧師館が火事で焼け落ち、その牧師館に新しく赴任してきていた教区牧師に大きな損失をもたらした。その結果を受けて、トップレディは神に感謝した。 しかし、その新任の教区牧師がどうしたか(感謝したかどうか)は知られていない。ボロウ(George Borrow、1803-1881)は(自著)『スペインの聖書』のなかで、彼が、山賊が出没する山道をどうやって無事に横切っていったか(越していったか)を記録している。 けれども、彼の次(後)に山を越した一行は山賊に襲われ(be set upon)、彼らの何人かは殺害された。ボロウは、これを聞き、トップレデイ同様、神に感謝した。    
 我々は(学校の)教科書でコペルニクス天文学(太陽が地球の周りを回るのではなく、地球が太陽の周りを回ること)を教わるけれども、それはいまだ我々の中に浸透しておらず、占星術に対する信仰を打ち破ることにすら成功していない。人々は、依然として、 神の計画は特に人間に言及しており、そして特別な摂理(Providence)が善人を手助けするばかりでなく邪悪な人々を罰すると考えている。私は、自らを信心深いと考える人々による(神に対する)冒涜行為(blasphemies)にショックを受けることが時々ある。たとえば、いつも入浴用の化粧着(バスローブ)を着ることなしには決して入浴しない修道女(の例である)。 誰も彼女達を見ることをできないことから、なぜかと尋ねると、彼女達は「おお、しかし、あなたは神が見ていること忘れています!」と答える。明らかに彼女達は神を出歯亀(ピーピング・トム)だと考えている(想像している)ようである。出歯亀としての神は、全能の力によって浴室内を透視する(覗き見する)ことができるがバスローブによって裏をかかれるようである。 このような考えかたは、私には興味深い(strikes me as curious)。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.6
ometimes, if pious men are to be believed, God’s mercies are curiously selective. Toplady, the author of Rock of Ages, moved from one vicarage to another; a week after the move, the vicarage he had formerly occupied burnt down, with great loss to the new vicar. Thereupon Toplady thanked God; but what the new vicar did is not known. Borrow, in his “Bible in Spain,” records how without mishap he crossed a mountain pass infested by bandits. The next party to cross, however, were set upon, robbed, and some of them murdered; when Borrow heard of this, he, like Toplady, thanked God. Although we are taught the Copernican astronomy in our textbooks, it has not yet penetrated to our religion or our morals, and has not even succeeded in destroying belief in astrology. People still think that the Divine Plan has special reference to human beings, and that a special Providence not only looks after the good, but also punishes the wicked. I am sometimes shocked by the blasphemies of those who think themselves pious — for instance, the nuns who never take a bath without wearing a bathrobe all the time. When asked why, since no man can see them, they reply: “Oh, but you forget the good God.” Apparently they conceive of the Deity as a Peeping Tom, whose omnipotence enables Him to see through bathroom walls, but who is foiled by bathrobes. This view strikes me as curious.
 Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943 Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
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知的戯言の概要(1943) n.5

 ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin, 1706-1790:米国の政治家、著述家、気象学者)が避雷針を発明した時、英米両国の聖職者は、ジョージ三世(英国の国王/在位:1760-1820)の熱烈な支持のもと、避雷針は神の意志を打ち負かそうとする不信心な企て(不敬な行い)であるとして非難した。というのは、物事を正しく考える人なら全て知っているように、稲妻(雷)は不信心あるいは何らかのその他の重大な罪を罰するために神によって発せられるのであり、有徳な人は決して稲妻に打たれることはないからである。それゆえ、もし神が 誰かに一撃を加えたいと欲するのであるならば、ペンジャミン・フランクリン神の計画(His design 神の計画・意図)を打ち負かすべきではない。実際、神の計画を打ち負かすことは罪を犯した者が逃げるのを助けることである。しかし、 もし我々がボストン(在住の)の指導的神学者の一人である著名なプライス博士の言うことを信じるとすれば、 神は事に当たって動じなかったのである(equal to the occasion その場に臨んで動じない/フランクリンが「避雷針」を発明した時に動じなかっ「た」こと)。 「賢明なフランクリン博士によって発明された鉄の尖端 (iron points) 」によって稲妻が効き目がないものにされてしまったために、マサチューセッツ州は地震にみまわれ、ブライス博士は、この地震を神の「鉄(製)の尖頭」に対する激怒によるものだと認識した。この問題についての説教のなかで、彼は言った。「ボストンではニュー・イングランドの他のどこよりも (多くの避雷針が)建てられており(erected)、それで、ボストンの揺れ方はいっそう恐ろしいものであるように思われます。ああ! 神の強大な手( the mighty hand of Go)から逃れることは決してできないのです」。しかし、明らかに、神の摂理(Providence)はボストン(の人々)をその不道徳さ(wickedness)を治す望みを全てあきらめてしまった。というのは、 避雷針はますます一般に広まっていったが、マサチューセッツ州の地震はまれなままであったからである。それにもかかわらず、プライス博士の見解、あるいはそれに非常に似た見解は、依然として、現在生きている最も影響力ある人々によって支持されているのである。(たとえば)かつて、インドでいくつかのひどい地震があった時マハトマ・ガンジー は、彼の同胞たちに これらの災害は彼ら(同胞たち)の罪に対する罰として(神から)送られたものであると厳粛に警告した。
 私自身が生まれた島国イギリスにおいてさえ、この見解は依然として存在している。先の戦争(注:第一次世界大戦)の間、英国政府は国内における食糧の生産を大いに奨励した。1916年に、事がうまくいっていなかった時、某スコットランドの牧師は新聞に投書して、軍事上の失敗は、政府の認可を得てじゃがいもを(キリスト教の)安息日に植えたせいであると言った。しかし不幸はさけられた。それはドイツ人がモーゼの十戒の一つだけでなく、その全てに従わなかったという事実によったのである。(訳注:モーゼの十戒の第4が「安息日を守ること」であり、英国はこれを破っただけだが、ドイツは十戒の全てを破ったという牧師さんの主張です。しかし、第6戒「殺人をするなかれ」は防衛のためではあっても、英国人も破っています。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.5
When Benjamin Franklin invented the lightning rod, the clergy, both in England and America, with the enthusiastic support of George III, condemned it as an impious attempt to defeat the will of God. For, as all right-thinking people were aware, lightning is sent by God to punish impiety or some other grave sin — the virtuous are never struck by lightning. Therefore if God wants to strike any one, Benjamin Franklin ought not to defeat His design; indeed, to do so is helping criminals to escape. But God was equal to the occasion, if we are to believe the eminent Dr. Price, one of the leading divines of Boston. Lightning having been rendered ineffectual by the “iron points invented by the sagacious Dr. Franklin,” Massachusetts was shaken by earthquakes, which Dr. Price perceived to be due to God’s wrath at the “iron points.” In a sermon on the subject he said, “In Boston are more erected than elsewhere in New England, and Boston seems to be more dreadfully shaken. Oh! there is no getting out of the mighty hand of God.” Apparently, however, Providence gave up all hope of curing Boston of its wickedness, for, though lightning rods became more and more common, earthquakes in Massachusetts have remained rare. Nevertheless, Dr. Price’s point of view, or something very like it, is still held by one of the most influential of living men. When, at one time, there were several bad earthquakes in India, Mahatma Gandhi solemnly warned his compatriots that these disasters had been sent as a punishment for their sins. Even in my own native island this point of view still exists. During the last war, the British Government did much to stimulate the production of food at home. In 1916, when things were not going well, a Scottish clergyman wrote to the newspapers to say that military failure was due to the fact that, with government sanction, potatoes had been planted on the Sabbath. However, disaster was averted, owing to the fact that the Germans disobeyed all the Ten Commandments, and not only one of them..  
Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943 Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
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知的戯言の概要(1943) n.4

 過去四百年を通して - その間、科学の成長は、徐々に、人々(人間)に自然の行程・あり方(the ways of nature)についての知識や、自然の諸力を支配する知識の、獲得方法を示してきた - 聖職者は天文学や地質学、解剖学や 生理学 生物学や心理学や社会学の面で科学と負け戦を戦ってきた。聖職者達は、一つの陣地(position 場所)から追い出されると、別の陣地(場所)を敷いた(taken up another position)。(即ち)天文学で形勢が悪化した後、彼ら(聖職者達)は地質学の勃興をさまたげることに最善を尽くした。彼ら生物学においてはダーウィンと戦い、そうして、現在では、心理学と教育の科学的理論と戦っている。それぞれの段階で、彼らは公衆(一派大衆)に、以前の彼らの無知蒙昧主義(obscurantism  事実・表現・意味などを〕故意に曖昧にするやり方)を忘れさせようと努めているそれは、彼らの現在の無知蒙昧主義をあるがままに認められないようにするためである。科学の勃興以来聖職者達の間に見られた不合理性(irrationality)の例を少し注目してみよう、そうして、その後で、彼ら(聖職者)以外の人類が彼らよりもいくらかでもましであるかどうか、探究してみよう。

 Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.4
Throughout the last 400 years, during which the growth of science had gradually shown men how to acquire knowledge of the ways of nature and mastery over natural forces, the clergy have fought a losing battle against science, in astronomy and geology, in anatomy and physiology, in biology and psychology and sociology. Ousted from one position, they have taken up another. After being worsted in astronomy, they did their best to prevent the rise of geology; they fought against Darwin in biology, and at the present time they fight against scientific theories of psychology and education. At each stage, they try to make the public forget their earlier obscurantism, in order that their present obscurantism may not be recognized for what it is. Let us note a few instances of irrationality among the clergy since the rise of science, and then inquire whether the rest of mankind are any better.
Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943 Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
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知的戯言の概要(1943) n.3

 (所謂)信仰の時代(The Age of Faith)は -それは新スコラ学(注:19世紀後半のカトリック教会内に起こった、教会内外の近代主義化を排し、中世のスコラ哲学、特にトマス=アクィナスの哲学を復興しようとする運動)によって称賛されている時代であり- 聖職者が勝手にふるまった時代であった(注:have everything one’s own way 我儘のし放題をする)。日常生活は、聖者によって行われる奇跡や、悪魔や黒魔術師によって犯される魔法・呪術(wizardry)によって満たされていた。何千という魔女が火刑に処せられた。人々(人間)の罪は疫病(pestilence)や飢饉により、また地震、 洪水、火事によって罰せられた。それにもかかわらず(and yet)、おかしなことを言うようだが、彼ら(当時の人々)は今日におけるよりももっと罪深かった(注:「信仰の時代」にもかかわらず・・・というニュアンス)。(当時は)この世界について科学的に知られていることはわずかであった。 ごく少数の人達は、地球はまるいというギリシャ人の証明を記憶していたが、ほとんど人々は、地球に反対側(注:antipodes 対蹠地 たいしょち)があるという考えを物笑いにしていた(make fun of)。(自分たちが住んでいる場所の,地球の)反対側に人間がいると想定することは異端であった。人類の大多数は呪われていると一般に考えられていた(現代のカトリック教徒はこれよりも穏健な見解をとるけれども)。(いろいろな)危険があらゆるところに(at every turn)潜んでいると考えられた。修道僧が(まさに)食べよううとしている食物の上に悪魔が住み着き、一口食べるごとに(その前に)十字を切ることを省略する不注意な者の体に取り付くのであった。古風な人々はいまだ人がくしゃみをすると「おん身に幸あれ(bless you お大事に)」というが、彼らはこの慣習ができあがった理由は忘れてしまっている。その理由は、人々はくしゃみによって魂をふきとばしてしまい、そうして、彼らの魂が戻ることができないうちに、潜んでいる悪魔が魂不在の体のなかに入り込みがちである、と考えられていたのである。しかし、もし誰かが「御身の上に幸いあれ」と言えば、悪魔どもは追い払われたのである。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.3
The Age of Faith, which are praised by our neo-scholastics, were the time when the clergy had things all their own way. Daily life was full of miracles wrought by saints and wizardry perpetrated by devils and necromancers. Many thousands of witches were burnt at the stake. Men’s sins were punished by pestilence and famine, by earthquake, flood, and fire. And yet, strange to say, they were even more sinful than they are nowadays. Very little was known scientifically about the world. A few learned men remembered Greek proofs that the earth is round, but most people made fun of the notion that there are antipodes. To suppose that there are human beings at the antipodes was heresy. It was generally held (though modem Catholics take a milder view) that the immense majority of mankind are damned. Dangers were held to lurk at every turn. Devils would settle on the food that monks were about to eat, and would take possession of the bodies of incautious feeders who omitted to make the sign of the Cross before each mouthful. Old-fashioned people still say “bless you” when one sneezes, but they have forgotten the reason for the custom. The reason was that people were thought to sneeze out their souls, and before their souls could get back lurking demons were apt to enter the unsouled body; but if any one said “God bless you,” the demons were frightened off.
Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943 Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
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知的戯言の概要(1943) n.2

 アリストテレスは、私が知っている限り、人間が理性的動物であることをはっきりと宣言した最初の人であった。 彼がこの見解をいだいた理由は、現在ではあまりピンとこないものであった。その理由は、計算できる人間がいるということであったのだ。彼は、(soul)は三種類あると考えた。即ち、植物的魂 -、これは、植物も動物も、全ての生物が所有しており-、ただ栄養と成長にのみ関わっている。 動物的魂 -これは移動に関わるもので、人間と下等動物が共有している。 最後に、理性的魂あるいは(=即ち)知性 -これは神の心(the Divine mind)であるが 人間はその知恵に比例して、多かれ少なかれ、それに関与する(participate in 参加する)。 人間が理性的動物であるのはこの知性のおかげである。知性は様々な方法で示されるが、最も力強く(emphatically )示されるのは算術の習得(精通)によってである。ギリシャの数字の体系は非常にできの悪いものであり、そのために九九表は極めて難しく、複雑な計算はただ非常に頭のよい人々のみが行うことできた。今日、計算機は最も頭のよい人々に比べてさえ、よりよく計算を行うが、 それでも、これらの有用な道具は不滅である(immortal,)とか、神の霊感によって動くとか言う者は一人もいない。 算術は、しだいに容易になるにつれて、あまり尊重されなくなっている。 その結果、多くの哲学者は我々(人間)は素晴らしい仲間(同朋)だと語り続けるけれども、哲学者が我々を褒めるのはもはや決して我々(人間)が計算技術(の優秀さ)からではないのである)。
 時代の風潮は、もはや計算の上手な少年を人間は理性的であり魂は少なくともその一部分は不滅であることの証拠にすることを許さない以上、我々は(人間が理性的動物である)他の理由を探すことにしよう。 まずどこを探したら良いだろうか? いかにも意気揚々と(triumphantly)世界を現在の状態にまで導いてきた著名な政治家のなかに探したらよいだろうか? あるいは、文学者を選んだら良いだろうか? それとも哲学者のなかか? これらは全てそれぞれの主張する権利(claims)をもっているが、私は、正しくものを考える全ての人々が、人間のうちで最良であるばかりでなく最も賢いと認める人々、即ち、聖職者(clergy)から始めるべきだと考える。もし、「彼ら(聖職者達)」が理性的ででないとしたら、それよりもさらに劣る人間である我々にどんな希望があるだろうか? そうして(しかも)、悲しいかな、私はの敬意を評して言うが ― 彼ら(聖職者達)の知恵があまり明らかではなかった時代があったのである。そうして、おかしなことを言うようだが、それらの時代というのは特に牧師の力が最大であった時代なのである。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.2
Aristotle, so far as I know, was the first man to proclaim explicitly that man is a rational animal. His reason for this view was one which does not now seem very impressive; it was, that some people can do sums. He thought that there are three kinds of soul: the vegetable soul, possessed by all living things, both plants and animals, and concerned only with nourishment and growth; the animal soul, concerned with locomotion, and shared by man with the lower animals; and finally the rational soul, or intellect, which is the Divine mind, but in which men participate to a greater or less degree in proportion to their wisdom. It is in virtue of the intellect that man is a rational animal. The intellect is shown in various ways, but most emphatically by mastery of arithmetic. The Greek system of numerals was very bad, so that the multiplication table was quite difficult, and complicated calculations could only be made by very clever people. Nowadays, however, calculating machines do sums better than even the cleverest people, yet no one contends that these useful instruments are immortal, or work by divine inspiration. As arithmetic has grown easier, it has come to be less respected. The consequence is that, though many philosophers continue to tell us what fine fellows we are, it is no longer on account of our arithmetical skill that they praise us. Since the fashion of the age no longer allows us to point to calculating boys as evidence that man is rational and the soul, at least in part, immortal, let us look elsewhere. Where shall we look first? Shall we look among eminent statesmen, who have so triumphantly guided the world into its present condition? Or shall we choose the men of letters? Or the philosophers? All these have their claims, but I think we should begin with those whom all right thinking people acknowledge to be the wisest as well as the best of men, namely the clergy. If they fail to be rational, what hope is there for us lesser mortals? And alas – though I say it with all due respect – there have been times when their wisdom has not been very obvious, and, strange to say, these were especially the times when the power of the clergy was greatest.
Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943  Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
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「知的戯言の概要」n.1

 人間は理性的動物である - 少なくとも私は今までそう聞かされてきた。長い人生を通じて この言葉(陳述)を支持する証拠を熱心に探してきた。しかし、3つの大陸(注:ヨーロッパ、北アメリカ、アジア)に広がる多くの国々で探してきたが、これまでのところ、その証拠にめぐりあう幸運を持ち得てこなかった。それどころか(逆に)、私は、この世界が引き続き狂気(気ちがいじみた状態)に突き進んでいるのを見てきた。(即ち)私は、 かつて文明の指導者であった大国が、大げさで無意味な言葉を説く者(preachers of bombastic nonsense.)によって道を踏み外すのを見てきた。残酷さ(残忍性)、迫害、迷信が飛躍的に(by leaps and bound)増加し、その結果、合理性を称賛することは過ぎ去った時代を生き残っている時代遅れの老人を特徴づけるものだとほぼ考えられるところまで来ているのを見ている。全てこうしたことは気をめいらせること(depressing)であるが、 憂鬱な気分(gloom)は、無益な感情である。そういった気分から逃れるために、私はこれまでよりもよりいっそう注意深く過去を研究することに駆り立てられ -エラスムス(1467-1536 が発見したように- 愚行は絶えることはないが、それにもかかわらず(and yet)、人類は生き残ってきたのだということを発見している(発見した)。 我々自身の時代の愚行は、過去の愚行を背景にして見る(see against the background of)場合には、 より我慢のし易いものである
 以下において(In what follows)、私は我々の時代の愚かさと過去数世紀の愚かさとを突き合わせることにしよう(mix ~ with 混ぜ合わせる)。もしかすると、その結果は我々自身の時代の将来を大局的に見る(see ~ in perspective)助けとなり、また、ことによると、我々先祖が究極の災難を受けることなく生きていた他の時代によりも我々の時代はそれほど悪くはないと知るのに役立つかも知れない(perhaps ことによると~かも知れない)。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.1

Man is a rational animal — so at least I have been told. Throughout
a long life, I have looked diligently for evidence in favor of this statement, but so far I have not had the good fortune to come across it, though I have searched in many countries spread over three continents. On the contrary, I have seen the world plunging continually further into madness. I have seen great nations, formerly leaders of civilization, led astray by preachers of bombastic nonsense. I have seen cruelty, persecution, and superstition increasing by leaps  and bounds, until we have almost reached the point where praise of rationality is held to mark a man as an old fogey (fogy) regrettably surviving from a bygone age. All this is depressing, but gloom is a useless emotion. In order to escape from it, I have been driven to study the past with more attention than I had formerly given to it, and have found, as Erasmus found, that folly is perennial and yet the  human race has survived. The follies of our own times are easier to bear when they are seen against the background of past follies. In what follows I shall mix the sillinesses of our day with those of  former centuries. Perhaps the result may help in seeing our own times  in perspective, and as not much worse than other ages that our
ancestors lived through without ultimate disaster.  Source: Unpopular Essays, 1950.
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ラッセルの哲学 留意事項 06 (『私の哲学の発展』の最後)

       ラッセルとウッド夫妻

 (筆者のアラン・ウッドが執筆中に死亡し、この段落を書いて絶筆となりました。)

 ラッセルが言葉の使い分け(Russell’s different uses of different words 様々な言葉の様々な使用)で誤解を生じるかも知れない様々な(various 多様な)箇所を指摘する必要があるかも知れない。しかし、一般的に言えば、もしある特定の文脈の中で特定の語をラッセルがどういう意味で使っているかを知りたいのなら、最良のやり方(procedure 手続き)はその文脈そのものをよく見ることである。一例として、ラッセルが最終的に定義することを諦めた,「哲学」という言葉自体について考えてもよいだろう。 これはラッセルが結局、 定義を断念した語である。(即ち、)「私(ラッセル)は哲学者という者が何であるかを知らない。」 大雑把に言って、彼は哲学について二つの異なった見方を持っていた。
(a) 特殊科学(special sciences)においては・・・・・運動は単純なものから複雑なものへ向う*1 (訳注:special sciences: Special sciences are those sciences other than fundamental physics. と言う説明がネットにあります。基礎物理学以外は、応用物理学も含め、特殊科学になるようです)。 しかし、哲学で・・・我々は、分析によって単純かつ抽象的なものへと進み、その過程において、当初(最初の)主題の個別性(特殊性)を取り除き、我々の注意を当の事実の論理的形式にのみ(entirely)注意を向けようとするのである。」
(訳注) *1 『外界についての我々の知識』pp.189-190
 「新実在論(new realism)は・・・ただ科学の基礎概念を明晰にし、様々な科学をただ一つの包括的な見解に統合することをのみ目指している。*2 」
*2 『懐疑論』p.79及び『哲学の諸問題』p.232を参照

(b) 哲学は神学と科学の中間にある何ものかであり・・・どちらのものとも決まらない無人地帯(a No Man’s Land.)・・・である。*3」 *3 『西洋哲学史』p.10
「科学は我々知るものであり、哲学は我々の知らないものである。*4」
*4 『論理と知識』p.281
 ラッセルが哲学第一(上記の a)の仕方で考えていた時には、彼は論理学は「哲学の精髄」(the essence of philosophy)であると書いた しかし、もう一つの仕方(上記の b)で考えていた時には、次のような驚くべき矛盾を示す主張をした。「論理学は哲学の一部ではない」「哲学と見なされているものの10分の9は全くの戯言(たわごと)である。明確だといえる唯一の部分は論理学であるが、それは論理学であるから哲学ではない」と私は主張する」
 この例は、ラッセルにおける言葉の上の矛盾によって誤導されないようにする技術の優れた(かっこうの予行練習(preliminary exercise)を我々に与えるであろう。これらの,論理学と哲学についての一見(apparently 外見上)矛盾した主張において、かれは「哲学」 という語を異なる意味に用いていた(のである)。また、彼が「論理学」という語を用いる意味にもいくらか違いがあったし、また文脈も異なっていた。
 ラッセルの後期の哲学においては、論理学はある意味で、1914年における(訳注:ラッセルが1914年に出版した Our Knowledge of the External World)ほどに強調されていないことは事実である(注:does not feature 主役にしていない;呼び物にする)。しかし、初めて読んだ時(一読した時)にそう思われるほどに、見解の全面的な逆転(reversal )は存在していなかった。誰かがある文脈において「我々はABCを知らずに読むことはできない」と書き、他の文脈において「ABCの知識は文学の鑑賞に何の関係もない」と書くような場合のあることは想像可能である。
 ラッセルが或るとき言ったように「論理学と数学は・・・自然という書物のアルファベットであり(であるのであって)、その書物自身ではない」。
 この論文はここで未完に終った。(死亡したため絶筆)

Cautionary notes, n.06
It may be necessary to indicate various places where Russell’s different uses of different words may lead to misunderstandings. But, in general, if we wish to know what Russell means by a particular word in a particular context, the best procedure is to look at the context. For an illustration, we may consider the word ‘philosophy’ itself, which Russell finally gave up the attempt to define: ‘I don’t know what a philosopher is.’ Broadly speaking he had two different ways of looking at philosophy: (a) ‘In the special sciences … the movement is… from the simple to the more complex.*1 But in philosophy… we proceed toward the simple and abstract by means of analysis, seeking, in the process, to eliminate the particularity of the original subject-matter, and to confine our attention entirely to the logical form of the facts concerned.” *1 Our Knowledge of the External World, pp.189-90. “The new realism … aims only at clarifying the fundamental ideas of the sciences, and synthesizing the different sciences in a single comprehensive view.”*2 *2 Sceptical Essays, p.79; cf. Problems of Philosophy, p.233. (b) Philosophy … is something intermediate between theology and science … a No Man’s Land.’*3 *3 History of Western Philosophy, p.1 ” ‘Science is what you know, philosophy is what you don’t know. *4 *4 cf. Logic and Knowledge, p.281. When he was thinking of philosophy in the first way, (a), he wrote that logic was ‘the essence of philosophy’. In the other way, (b), he made such startlingly contradictory statements as that ‘Logic, I maintain, is no part of philosophy’, and that “Nine-tenths of what is regarded as philosophy is humbug. The only part that is at all definite is logic, and since it is logic, it is not philosophy.” This example will give us an excellent preliminary exercise in the art of not being misled by verbal contradictions in Russell. In these apparently conflicting statements about logic and philosophy, he was using ‘philosophy’ in a different sense; there may also have been some difference in the sense in which he was using ‘logic’; and there was a different context. It is true that logic – in one sense – does not feature in Russell’s later philosophy to the extent that it did in 1914. But there was no such complete reversal of his views as might appear at first reading. One can imagine someone writing in one context that ‘You cannot read without knowing your ABC”, and in another context that ‘A knowledge of the ABC has nothing to do with appreciating literature’. As Russell himself once put it: ‘Logic and mathematics… are the alphabet of the book of nature, not the book itself.’ (The essay remained unfinished at this point.)
Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell. More info.: https://russell-j.com/beginner/wood_br_cautionary-notes_06.html

ラッセルの哲学 留意事項 05

 ある語をどういう意味に使うかを確信しないで(あいまいな理解のまま)その語を使うことには、明らかな危険がある。しかし、正確な定義を与えようと試みる際にも、それほど明確ではないが、別の危険がある。 その危険とは、我々がその語の定義に成功したと思うかも知れないという危険である。
 哲学における正しい手続き(やり方/進め方)は、定義できない(いくつかの)名辞(indefinables)という用具(apparatus)と(=用具を揃えて)、それら(の定義できない名辞)によって定義される言葉と(の両者)によって始めることであるとは、私は信じていない。 哲学においては、定義できない名辞や(語の)定義に関するいかなる陳述も、最初にというよりむしろ最後に来るべきものだと私は信ずる。 哲学は、(上記のような)語を、観念論者実在論者(訳注:realist 人間の認識や知覚に依存しない事物の客観的実在を認める立場)として、先天的や経験的として、必然的と付随的(contingent)として、普遍的と個別的として、というように用いる主題なのである(訳注:哲学者は必要に応じ、いろいろな意味で語を使うということ)。 そうして、我々は、最後には、自分が何について語っているかを理解するであろうとの希望(それは決して完全には実現されない希望)によって鼓舞されるのである。

Cautionary notes, n.05
There are obvious dangers in using words without being sure what we mean by them. But there is another danger, though less obvious, in trying to provide exact definitions. The danger is that we may think we have succeeded. I do not believe the correct procedure in philosophy is to begin with an apparatus of indefinables, and other words defined in terms of them. I believe that, in philosophy, any statement of indefinables and definitions must come at the end, rather than at the beginning. Philosophy is a subject in which we use such words as idealist and realist, a priori and empirical, necessary and contingent, universal and particular; and we are inspired by the hope (never fully realized) that we will end up by knowing what we are talking about.
Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell.
More info.: https://russell-j.com/beginner/wood_br_cautionary-notes_05.html