私は今でも、真理は事実へのある種の関係であり、事実は一般に非人間的なものである、と考えている。(また)私は今でも、人間が宇宙的にはとるに足りない存在であり、今とここ[時空)とによって歪められずに宇宙を公平に見渡すことのできる絶対的な存在者 - そういうものが存在するとして ー であるならば、おそらくは書物の終り近くにつける脚注以外では、人間のことにほとんど言及しないでであろう、と考える。しかし、私はもはや、人間的要素が存在する場所からそれらを追い払おうとは望まない。(即ち)私はもはや、知性は感覚よりすぐれているとも、プラトンのイデヤの世界のみが「真実の」世界を知らしめるとも、感じない。以前は、感覚や感覚の上に築かれた思想をひとつの牢獄と考え、感覚から解放された思考によってのみ,我々はそこから脱出しうる、と常に考えていた。今ではそうは感じない。感覚と、感覚の上に築かれた思想とを、牢獄の格子としてではなく、窓として考える。我々は、いかに不完全であったとしても、ライプニッツの単子のように世界を映しうる、と私は考える。そして、物を歪めない鏡となることにできるかぎり努めることが哲学者の義務である、と考える。しかしまた、我々の本性そのもののゆえに避けがたい歪みをはっきり認めることも、また哲学者の義務である。そういう歪みのうち最も根本的なものは、我々が世界をここと今(時空)の見地から見て、有神論者が神に帰するような広い公平さで見るのではない、ということである。そういう公平な見方に達することは我々には不可能であるが、それに向って一定の距離を旅することは我々にもできる。そしてこの目標へ向かっての道を示すことは,哲学者の最高の義務なのである。
I still think that truth depends upon a relation to fact, and that facts in general are non-human; I still think that man is cosmically unimportant, and that a Being, if there were one, who could view the universe impartially, without the bias of here and now, would hardly mention man, except perhaps in a footnote near the end of the volume; but I no longer have the wish to thrust out human elements from regions where they belong; I have no longer the feeling that intellect is superior to sense, and that only Plato’s world of ideas gives access to the ‘real’ world. I used to think of sense, and of thought which is built on sense, as a prison from which we can be freed by thought which is emancipated from sense. I now have no such feelings. I think of sense, and of thoughts built on sense, as windows, not as prison bars. I think that we can, however imperfectly, mirror the world, like Leibniz’s monads; and I think it is the duty of the philosopher to make himself as undistorting a mirror as he can. But it is also his duty to recognize such distortions as are inevitable from our very nature. Of these, the most fundamental is that we view the world from the point of view of the here and now, not with that large impartiality which theists attribute to the Deity. To achieve such impartiality is impossible for us, but we can travel a certain distance towards it. To show the road to this end is the supreme duty of the philosopher.
出典: Bertrand Russell: My Philosphical Development, 1959.
【George Allen & Unwin Ltd., 1959, p.258】
* theist (n):有神論者
詳細情報:http://russell-j.com/cool/54T-1701.HTM
[寸言]
ラッセルの哲学(基本的な考え方)は一貫しているとも、多くの変遷をしているとも、どちらとも言える。
ラッセルは、生涯、理性や知性に信頼を起き続けたが、徹底的に論理を追求していく過程で、人間の知性や論理的思考能力の限界をも実感するようになった。
だが、人間には(今とここ)に縛られるという宿命があるにしても、「(世界のより正しい理解や認識に向かって)一定の距離を旅することは我々人間にもできる。そしてこの目標へ向かっての道を示すことは,哲学者の最高の義務」であるというラッセルのいくらか控えめの態度こそ、哲学者のみならず、多くの学者や研究者が旨とすべき態度ではないだろうか?