第1章 権力衝動 n.5:
正統派経済学者たちは,この点(注:光栄に対する欲求は大体において権力欲によって促進される活動と同じ種類であること)に関して彼らと意見が一致していたマルクス同様,経済的な自利追求を社会科学における根本的な動機(原動力)とみなせると想定した点で,誤りを犯している。
(注:過去にみすず書房から東宮隆氏の邦訳がだされており,東宮訳は,原文をみなければこなれた日本語訳に見える。しかし,東宮訳は,原文の内容からは出てきそうもない言葉を追加していることが多く,誤訳に近いと思われるものも少なくない。たとえば,この部分は,「マルクスはもちろんのこと,この点で右のような現実の活動家たちと完全な意見の一致を見ている正統派経済学者たちも,およそ経済的な自利追求ということが,社会科学の根本的原動力をなすものだとした点で,誤りを犯している。」と訳している。「右のような現実の活動家たち」というのは,前の段落から類推したものであろうが,恣意的すぎる。”them” は素直に「the orthodox economists(正統派経済学者たち)のことだとすべきであろうし,“who”は直前の”Marx”を指すと考えるのが普通であろう。東宮氏は,”The orthodox economists”ととってしまったために,このような訳になってしまったと想像される。英文は,最後まで聞かないと肯定なのか否定なのかわからない日本語のようなことは通常なく,前の方から順番に訳していくのが原則である。「マルクスはもちろんのこと・・・」と後ろから訳すからこのような誤解が生ずるのであろう。)
物(commodities 日用品,生活必需品)に対する欲求(欲望)も,権力と光栄とから隔てられている場合には(特別な権力を持っていない場合には),限りがあるものであり,普通の(中くらいの)能力があれば,十分に充たすことができる。本当に費用のかかる(ぜいたくな)欲求(欲望)は,物的な慰め(安楽)への愛によって指図されるものではない。腐敗によって卑屈なものとなってしまった立法府(議会)ようなものや,専門家によって選ばれた(13‐17 世紀のヨーロッパの)古い大画家の絵画の個人的な画廊(注:企業が経営しているものではなく,個人が趣味で集めたものを飾っている画廊)とかいったようなものは,権力ないし光栄のために追い求められてるのであって,居心地のよい席(場所)を与えてくれるものとして求められるのではない。適度の安楽が確保されると,個人も社会も富よりはむしろ権力を追求するようになるだろう。権力に対する手段として富を求めるかも知れないし,あるいはまた,権力を増すために富の増大を差し控えるかも知れない。しかし,前者の場合(権力に対する手段として富を求めること)においては,後者の場合と同じく,その根本的な動機は経済的なものではない。
正統派経済学とマルスク経済学のこうした誤りは(注:この表現からも最初の一文の “who” はマルクスを受けていることがわかる。),単に理論的な誤りだということだけでなく,実際上からいっても極めて重要なもの(誤り)であり,この誤りが最近の主な出来事のいくつかが誤解される原因となっている。古代であれ現代であれ,歴史を正しく解釈できるのは,権力愛が社会的な事柄における重要な活動の原因であるということを理解することによってのみである。
The orthodox economists, as well as Marx, who in this respect agreed with them, were mistaken in supposing that economic self-interest could be taken as the fundamental motive in the social sciences. The desire for commodities, when separated from power and glory, is finite, and can be fully satisfied by a moderate competence. The really expensive desires are not dictated by a love of material comfort. Such commodities as a legislature rendered subservient by corruption, or a private picture gallery of Old Masters selected by experts, are sought for the sake of power or glory, not as affording comfortable places in which to sit. When a moderate degree of comfort is assured, both individuals and communities will pursue power rather than wealth : they may seek wealth as a means to power, or they may forgo an increase of wealth in order to secure an increase of power, but in the former case as in the latter their fundamental motive is not economic.
This error in orthodox and Marxist economics is not merely theoretical, but is of the greatest practical importance, and has caused some of the principal events of recent times to be misunderstood. It is only by realizing that love of power is the cause of the activities that are important in social affairs that history, whether ancient or modern, can be rightly interpreted.
出典: Power, 1938.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER01_050.HTM