恐怖(心)にかられると人は(国民も)自ら悲惨な結果を招きかねない

 こういう心の習慣(主観主義的な考え方や生き方)を治すためには,他の多くの場合と同様,恐怖(心)を捨て,(将来生ずる可能性のある)不幸に対する理性的な予知をすること(予知力に置き換えること)が必要である。恐怖(心)があると,人びとは,現実の(本当の)危険を直視することを嫌がるようになる。主観主義の病いにかかった人は,真夜中に「火事だ!」という叫び声で目をさましたとしても(注: if = even if),火事は隣の家にちがいない,と結論付けるかもしれない。真実(事実)はあまりにも恐ろしいからである。こうして,彼は,(その時には)まだ逃げる余裕があったのに,その機会を失ってしまうかもしれない。
このようなことは,もちろん,病的な場合にのみ起こるものである。しかし,政治(の世界)においては,それに類似した行動は常態化している考えることによってのみ正しい方針が発見できるような場合には,一つの情緒として恐怖(心)(例:北朝鮮や中国が戦争をしかけてくる!」/北朝鮮のサリン弾保有の可能性についてわざわざ言及した安倍総理)を持つことは,あらゆる場合において,悲惨な事態をもたらす。それゆえ,私たちは,害悪が生じる可能性を恐怖(心)を持たずに予見したり,不可避ではない物事を避けるために知性を働かせたりできるようになりたい。真に不可避的な害悪は,真の勇気をもって対処しなければならない。

To cure this habit of mind, it is necessary, as in many other cases, to replace fear by rational prevision of misfortune. Fear makes people unwilling to face real dangers. A person afflicted with subjectivity, if awakened in the middle of the night by the cry of “fire”, might decide that it must be his neighbour’s house, since the truth would be too terrifying ; he might thus lose the moment when escape was still possible. This, of course, could only occur in a pathological case ; but in politics the analogous behaviour is normal. Fear, as an emotion, is disastrous in all cases where the right course can only be discovered by thinking ; we want, therefore, to be able to foresee possibilities of evil without feeling fear, and to use our intelligence for the purpose of avoiding what is not inevitable. Evils which are really inevitable have to be treated with sheer courage; ….
出典:On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 3: Intellectual education, chap.16: Last school years.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE16-080.HTM

<寸言>
恐怖心にかられやすい国民は,独裁的な権力(政府)にとって御しやすい。また,政権が危なくなると,国民がより関心をもったり、恐怖心にかられたりしやすい情報を流して,自己保身をしようとすることが少なくない。

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