ラッセルひとりでは処理できない仕事量ー何か大きな組織を創らないと・・・

DOKUSH34-300x222 全てのこのような活動が,差し迫った要求により,積みあがって増えていった。私には非常に有能かつ自発的な支援者がいたが,それでも1963年頃になると,一人の人間では処理しきれない状態に急速になりつつあった。さらに,旅行費用,手紙や電報や電話(等)の通信費,また秘書や協力者の経費が,私個人の資金ではまかないきれない状態になりつつあった。それにまったく一人で取り仕切っていることの責任の重さが大きかった。
Schoenman-R 次第に,ある種の組織を創ろうという計画が -再び,ラルフ・シェーマン(右写真:Ralph Schoenman)の創造力に富んだ精神から生まれたものだと思うが- 形をなし,孵化した。この組織は,これとかあれとかいった特定の目的のためだけのものであってはならない。それは,戦争や軍備競争に反対し,抑圧されている個々人が苦しんでいる不安や不正に反対し,そのような不安や不正を非常に広範な地域でひき起こした人々に反対する運動を前進させるためのあらゆる目的のための組織でなければならない。そのような組織であればさまざまの要求に対して幅広く応えられるようになるであろう。それはまた状況の変化にともなって,自らを新しい環境に適応させることができるであろう。それゆえ,1963年の私の時間のかなりの部分が,そのような組織をつくる計画の議論に費やされた。こうした論議の仲間の多くは,百人委員会の初期の頃から行動をともにしていた人たちであった。

All this work steadily mounted in demand. By 1963, it was rapidly becoming more than one individual could carry on alone even with the extraordinarily able and willing help that I had. Moreover, the expenses of journeys and correspondence – written, telegraphed and telephoned – and of secretaries and co-workers was becoming more than my private funds could cover. And the weight of responsibility of being an entirely one-man show was heavy. Gradually the scheme took shape, hatched, again, I think, by the fertile mind of Ralph Schoenman, of forming some sort of organisation. This should be not just for this or that purpose. It should be for any purpose that would forward the struggle against war and the armaments race, and against the unrest and the injustices suffered by oppressed individuals and peoples that in very large part caused these. Such an organisation could grew to meet the widely differing demands. It could, also, reorientate itself as circumstances changed. A good part of my time, therefore, in 1963, was taken up with discussing plans for the formation of such an organisation. Many of my colleagues in these discussions had been working with me since the early days of the Committee of 100.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap4:The Foundation,(1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB34-070.HTM

[寸言]
平和運動(反核運動)や政治犯を救う運動その他、ラッセルの社会的活動はどんどん拡大していき、秘書を雇ってもとても処理しきれないほど拡大していく。ラッセルが住んでいた,英国北ウェールズの片田舎へも,世界中から面会を求めるひとが毎日くるほどになるに及んで、平和活動や国家ができない国際的な諸活動をするためのある程度大規模な組織を創る必要がでてきた。
そこで、長い間一緒に活動を行ってきた人たちと一緒にどのような組織を創るとよいか、真剣に検討を始めることになった。(結局2つの財団を創ることになるが、その内の一つが、バートランド・ラッセル平和財団であった。)

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