ラッセル『結婚論』第十五章 家族と国家 n.7

第十五章 家族と国家 n.7:男性支配に対する女性の反乱

 男性支配に対する女性の反乱は,純粋に政治的な意味では,ほとんど(practically)完遂された運動であるが,より広い面から見れば,いまだ始まったばかりのもの(幼児期にある運動)である。その間接的な影響(remoter effects)は,徐々に現われてくるだろう。女性が感じると思われている情緒は,あいかわらず,いまだ,男性の関心と感情(心情)の反映である。あなたは男性の小説家たちの作品で,読者(you)は,幼子に乳を飲ませる時に女性は肉体的(身体的)な快楽を見出す,と書いてあるのを読まれるだろう。あなた(読者)の知り合いのどの母親に聞いてみても(尋ねても),それは本当のことではないとわかる(はずである)。しかし,女性が選挙権(votes 投票権)を得るまでは,聞いてみようと思った男性は,誰もいなかった(のである)。概して,母性的な情緒は,無意識的に,その中に,男性(による)支配の手段を見いだした彼ら(男性たち)によって,非常に長い期間,感傷的に話されてきた(褒め称えられてきた)ので,この点について女性が真剣にどう思っているかを確かめるには,かなりの努力が必要である。

 ごく最近まで,上品な女性は皆子供を欲しがるがセックス(性交)は嫌悪する,と思われて想定されていた。今でも,子供は欲しくないと率直に述べる女性に対しショックを受ける男性は多い。それどころか(indeed 実際),男性が,そういう女性に対するお説教(注:homilies : homily の複数形で「説教」)を買って出ることも珍しくない。女性は,男性に従属(隷属)しているかぎり,あえて自分自身の情緒を正直に語ろうとはせず,男性を喜ばせるような情緒を(偽って)表明していた。それゆえ,子供に対する女性の普通の態度だとこれまで思われてきたものに基づいて議論することはできない。というのは,女性が完全に解放されるにつれて,女性の情緒は,一般に,これまで考えられてきたものとはまったく異なるものであることを発見するかもしれないからである。

私見では,文明は これまで存在してきた文明は少なくとも,女性の母性的感情を大いに減らす傾向があると思われる。おそらく,子供を生むことは金儲けの職業(money-making career)として価値のあることだという気持ちを女性に起こさせるほどの報酬を支払わないかぎり,将来,高度の文明を維持していくことはできなくなるかも知れない。もしも,そんなことになれば,もちろん,全ての女性はおろか,大多数の女性でさえ,この(子供を生む)職業につかなくてもよくなるだろう。それは,多くの職業の中の一つとなり,しかも,専門職としての完全さ(throughness 徹底性)をもって企てられなければならないだろう。

けれども,これらは推測である。それら(これら)の推測中で唯一,かなり確かだと思われる点は,フェミニズムが,今後の発展で,先史時代における女性に対する男性の勝利を表わしている父家長制家族を崩壊させる上で甚大な影響を及ぼしそうだということである

Chapter XV: The Family and the State, n.7

The revolt of women against the domination of men is a movement which, in its purely political sense, is practically completed, but in its wider aspects is still in its infancy. Gradually its remoter effects will work themselves out. The emotions which women are supposed to feel are still, as yet, a reflection of the interests and sentiments of men. You will read in the works of male novelists that women find physical pleasure in suckling their young; you can learn by asking any mother of your acquaintance that this is not the case, but until women had votes no man ever thought of doing so. Maternal emotions altogether have been so long slobbered over by men who saw in them subconsciously the means to their own domination that a considerable effort is required to arrive at what women sincerely feel in this respect. Until very recently, all decent women were supposed to desire children, but to hate sex. Even now, many men are shocked by women who frankly state that they do not desire children. Indeed, it is not uncommon for men to take it upon themselves to deliver homilies to such women. So long as women were in subjection, they did not dare to be honest about their own emotions, but professed those which were pleasing to the male. We cannot, therefore, argue from what has been hitherto supposed to be woman’s normal attitude towards children, for we may find that as women become fully emancipated their emotions turn out to be, in general, quite different from what has hitherto been thought. I think that civilization , at any rate as it has hitherto existed, tends greatly to diminish women’s maternal feelings. It is probable that a high civilization will not in future be possible to maintain unless women are paid such sums for the production of children as to make them feel it worth while as a money-making career. If that were done, it would, of course, be unnecessary that all women, or even a majority, should adopt this profession. It would be one profession among others, and would have to be undertaken with professional thoroughness. These, however, are speculations. The only point in them that seems fairly certain is that feminism in its later developments is likely to have a profound influence in breaking up the patriarchal family, which represents man’s triumph over woman in pre-historic times.
出典: Marriage and Morals, 1929.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM15-080.HTM

ラッセル『結婚論』第十五章 家族と国家 n.6

第十五章 家族と国家 n.6:育児と仕事

 けれども,今日では,しばしば個々の女性の側に,ひどく家庭を怖がる気持ち(注:自宅にのみ居続けることをひどく嫌う気持ち)があるので,大部分の女性は,我が子の世話をして(国などから)金をもらうよりも,結婚前にしていた仕事を続けることができるほうを,よほど好むのではないかと思われる。託児所で幼児の面倒を見るために,自分自身の家庭をあける(仕事に出る)ことをいとわない女性は,十分な数にのぼるだろう(注:託児所で保育士として働くために家をでる女性も少なくないだろう,ということ)。なぜなら,それ(子供の世話)は専門的な仕事であるからである。しかし,働いている女性の大部分は,どちらを選んでもよいと言われたら,家庭で我が子の世話をして(公的に)金をもらうのは,結婚前にしていた仕事で賃金を稼ぐために外へ働きに出ることほど楽しくはないだろう,と私は思っている。けれども,これは,まったく意見のわかれる問題(a matter of opinion)であり,何らかの決定的な根拠がある,と主張するわけではない。そのことはともかく(However that may be),これまで述べてきたことに何か真理があるとしたら,既婚女性の間のフェミニズムの発展により,遠くない将来,資本主義社会の枠の中においてさえ,賃金労働者階級では,ふた親でないとしても,片方の親(両親のどちらか)は子供の世話から排除(除外)されることになるように思われる

Chapter XV: The Family and the State, n.6

There is, however, in these days, on the part of the individual woman often such a horror of the home that I think most women would very much prefer to be enabled to continue the work they were doing before marriage, rather than to be paid for taking care of their own children. There would be a sufficient number of women willing to leave their own homes in order to look after young children in a creche, because that would be professional work; but I do not think that most working women, if the choice were offered them, would be as happy being paid to look after their own children in the home as going out to work to earn wages at the job on which they were engaged before marriage. This, however, is purely a matter of opinion, and I cannot pretend that I have any conclusive grounds. However that may be, it seems, if there is any truth in what we have been saying, that the development of feminism among married women is likely, in the not distant future, even within the framework of capitalist society, to lead to the elimination of one if not both parents from the care of the young in the wage-earning class.
出典: Marriage and Morals, 1929.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM15-070.HTM

ラッセル『結婚論』家族と国家 n.5

第十五章 家族と国家 n.5:貧困の賃金労働者の父親から親権をとりあげた場合

 そういった法律が可決されたと仮定した場合,家族(というもの)が道徳に及ぼす影響は,当の法律がどのように起草されているか(どのようなことがどのように規定されているか)にかかっている。その法律は,子供が私生児(非嫡出子)なら,女性は支払いを受けない,というふうに起草されるかもしれない。あるいは,また(again 昔と同じようにまた),女性がたとえ一度でも姦通(不義密通)を犯したことが証明された場合は,支払いは彼女ではなく夫になされるべきである,と規定されるかもしれない。もしも,それが法律となるなら(そのような法律であるなら),すべての既婚女性を訪問して,その品行(道徳的状態)を調査することが地方警察の職務になるだろう。その効果(結果)は,(彼女たちを)最大限高潔にすることになるかもしれないが,高潔にされた人たちがほんとうに喜ぶかどうかは,疑わしい。

私の考えでは,やがて(presently まもなく),警察の干渉は中止すべきだ,という要求が持ち出されるだろうし,その当然の帰結は(with the corollary),私生児の母でさえも(公的)手当を受けるべきである,ということになるだろう。かりにそうなったとしたら,賃金労働者階級の父親の経済的な力(影響力)は,完璧に失われるだろうし,おそらく,家族はやがて両親揃ったものではなくなり,父親の重要性も猫や犬の間に見られる以上のものではなくなるだろう。

Chapter XV: The Family and the State, n.5

Assuming such a law to have been passed, its effects upon family morals will depend upon how it has been drafted. The law may be so drafted that a woman receives no payment if her child is illegitimate,’ or again, it might be decreed that if she can be proved even once guilty of adultery, the payment should be made to her husband instead of to her. If such is the law, it will become the duty of the local police to visit every married woman and make an inquisition into her moral status. The effect might be most elevating, but I doubt whether those who were being elevated would altogether enjoy it. I think there would presently come to be a demand that police interference should cease, with the corollary that even the mothers of illegitimate children should receive the allowance. If that were done, the economic power of the father in the wage-earning class would be completely at an end, and the family would probably cease after a time to be bi-parental, the father being of no more importance than among cats and dogs.
出典: Marriage and Morals, 1929.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM15-050.HTM

ラッセル『結婚論』家族と国家 n.4

第十五章 家族と国家 n.4:既婚職業婦人に対する差別-男性優位保持の願望?

 父親を排除する方向に働いている強い力が,もう一つある。それは,経済的に独立したいという女性の欲求(願望)である。これまで最も多く政治的な発言をしてきた女性は未婚女性であったが,そういう状況は一時的なものでありそうである。既婚女性の受ける不当な待遇は,現在のところ,未婚女性のそれよりもはるかに深刻である。結婚する教師は,公然と不倫の生活をしている教師(lives in open sin)と同様の扱いを受ける。公認の産婦人科医でさえ,女性であれば,未婚でなければならない。こういうったことに対する動機は,既婚女性仕事に不向きだと考えられていることではなく,また,既婚女性雇うのに法律上の障害があるということでもない逆に(それどころか)いかなる女性も,結婚によっていかなる不利な条件を被ってはならない(注:suffer disability 資格なしとされてはならない)という趣旨を明確に規定した法律がつい数年前に可決されている(のである)。既婚女性を雇おうとしない動機は,全て(と言ってよいほど)既婚女性に対する経済的な支配力を保持しようとする男性の欲求(願望)にある。女性が,そのような圧政にいつまでも(無期限に)屈服(服従)しているとは考えられない。

もちろん,女性の主張(cause)をとりあげる政党を見つけることは,少々困難である。なぜなら,(英国)保守党は家庭を愛し,(英国)労働党は(男性)労働者を愛しているからである。にもかかわらず,今や女性が選挙民の多数派(注:majority 過半数)を占めているので(注:now that 今や~なので),女性が永久に,甘んじて背景にひっこんでいるとは考えられない。もしも,(彼女たち)女性の主張が認められたなばら,家族(制度)に甚大な影響を及ぼしそうである。

既婚女性が経済的独立を獲得するには,異なる方法(やり方/道)が二つある。一つは,結婚前に従事していたのと同じ種類の仕事を続ける方法(道)である。これには,子供を他人の世話にまかせることが含まれているので,託児所(crechesや保育所が大幅に拡張されることになるだろう。その論理的な帰結は,父親ばかりではなく,母親も,子供の心理に占めていた重要性が全て取り除かれるということになるだろう。

もう一つ(の方法)は,幼い子供をかかえた女性が,我が子の世話に専念するという条件で,国から賃金(手当)をもらうことである。もちろん,この方法だけでは十分ではなく,子供がある程度大きくなったら女性は普通の仕事に復帰することができるという条項を付け加える必要があるだろう。しかし,この方法には,女性が一人の男性に屈辱的に頼ることなしにみずから子供の世話をしてやれるという利点がある。

そして,この方法を採用する場合は 今日ではますますそういう状況になっているが,次のことを認めることになる。(即ち)子供を生むことは,以前は,ただ単に,性的満足の結果にすぎなかったが,いまは慎重に企てられる仕事であること,そして,その仕事は,親の利益というよりは,むしろ国(家)の利益に帰するものである以上,父母に重い負担をかける代わりに,国(家)がその費用を持つぺきだ,ということである。 この最後の点は,家族手当(family allowances)を支持するということで認められつつあるが,子供に対する支給(養育手当)は,母親だけになされるべきだ,ということはまだ認められていない。けれども,労働者階級のフェミニズムは,このことが認められ,また法律に具体化されるところまで成長すると想定してよい,と私は考えている。

Chapter XV: The Family and the State, n.4

There is another powerful force which is working in the direction of the elimination of the father, and this is the desire of women for economic independence. The women who have been most politically vocal hitherto have been unmarried women, but this state of affairs is likely to be temporary. The wrongs of married women are at the moment much more serious than those of unmarried women. The teacher who marries is treated injust the same way as the teacher who lives in open sin. Even public maternity doctors, if they are women, have to be unmarried. The motive for all this is not that married women are supposed to be unfit for the work, nor is it that there is any legal barrier to their employment ; on the contrary, a law was passed not many years ago explicitly laying it down that no woman should suffer any disability through marriage. The whole motive for the non-employment of married women is a masculine desire to preserve economic power over them. It is not to be supposed that women will submit indefinitely to such tyranny. It is, of course, a little difficult to find a party to take up their cause, since the Conservatives love the home, and the Labour Party loves the working man. Nevertheless, now that women are a majority of the electorate, it is not to be supposed that they will submit for ever to being kept in the background. Their claims, if recognized, are likely to have a profound effect upon the family. There are two different ways in which married women might acquire economic independence. One is that of remaining employed in the kind of work that they were engaged upon before marriage. This involves giving their children over to the care of others, and would lead to a very great extension of creches and nursery schools, the logical consequence of which would be the elimination of the mother as well as of the father from all importance in the child’s psychology. The other method would be that women with young children should receive a wage from the State on condition of devoting themselves to the care of their children. This method would, of course, be not alone adequate, and would need to be supplemented by provisions enabling women to return to ordinary work when their children ceased to be quite young. But it would have the advantage of enabling women to care for their children themselves without degrading dependence upon an individual man. And it would recognize, what in these days is more and more the case, that having a child, which was formerly a mere consequence of sexual gratification, is now a task deliberately undertaken, which, since it redounds to the advantage of the State rather than of the parents, should be paid for by the State, instead of entailing a grave burden upon the father and mother. This last point is being recognized in the advocacy of family allowances, but it is not yet recognized that the payment for children should be made to the mother alone. I think we may assume, however, that working-class feminism will grow to the point where this is recognized, and embodied in the law.
出典: Marriage and Morals, 1929.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM15-040.HTM

ラッセル『結婚論』家族と国家 n.3

第十五章 家族と国家 n.3:生活困窮から逃れるために国家や権力者に服従? 

 現在,あらゆる国において,賃金労働者階級では父親の権力と役割・機能に対して国家の干渉が絶えず増大しつつあるのに,その他の階級では(ロシアは別として)それに対応する干渉が見られない,という傾向がある。この結果,金持ち貧しい人々との間に,それぞれ,かなり異なる二つの物の見方が生まれてくる。そして,それには,貧しい人々に関するところでは家族の弱体化が伴っているが,金持ちについては対応する変化が見られない。過去において国家の干渉を引き起こした子供に対する人道主義的な感情は継続し,ますます多くの干渉を引き起こす,と想定してよいだろうと私は考える。たとえば,ロンドンの貧民地区の非常に多くの子供たち,及び,北部の工業都市のもっと多くの子供たちが,くる病(rickets)にかかっているという事実は,公共の活動を要請する事実である。けれども,親は,どんなにそうしたいと思っても,この害悪に対処すること(deal with the devil 悪魔と取引をすること)ができない。なぜなら,そのためには,日常の食事と,新鮮な空気と,日光という条件が必要であるのに,親にはこういうものを用意する力がない(not in a position to 立場にいない)からである。子供の一生の最初の数年間に健康を損なうままにしておくことは,残酷なだけでなく,不経済(wasteful)でもある。そうして,衛生(学)や(毎日の)食事がもっとよく理解されてくるにつれて,子供が無用に健康を損ねるままにしてはいけない,という要請が次第に高まるだろう。もちろん,こうした提案にはすべて,熱心な政治的な抵抗があることは事実である。ロンドンの全ての自治区の裕福な人々は,一致団結して地方税(rates)を抑えようとする。つまり,貧しい人々の病気と不幸を軽減するようなことは,できるだけしないようにする(のである)。(ロンドンの)ポプラー区の場合のように,地方当局(local authorities)が幼児死亡率を減らすための真に効果的な措置を講じると,当局者(責任者)は投獄される(のである)。(原注:1922年には,幼児死亡率は,ポフラー区ではケンジントン区よりも1000分の5低かった。1926年,ポプラ一区で元の法規に戻して厚生事業をした後は,幼児死亡率は,ポプラ一区のほうがケンジントン区よりも1000分の10高くなった)。

 にもかかわらず,金持ちのこうした抵抗は,絶えず克服されつつあり,貧しい人々の健康は,絶えず改善されつつある。それゆえ(従って),我々は,自信をもって期待してよいが,近い将来,賃金労働者の子供の世話に関しての国家の機能は,縮小されるというよりも拡大されるだろうし,それに応じて,父親の役割・機能は縮小されるだろう。父親の生物学的な目的は,子供が無力な期間保護することであるから,この生物学的な機能が国家に引き継がれるならば,父親はその存在理由を失う(ことになる)。だから,資本主義社会においては,社会がますます2つの階級に分裂していくものと予想しなければならない。即ち,古いかたちのままに家族を維持する金持ちと,伝統的には父親に属していた経済的な機能をますます国家が果たすことを期待する貧しい人びと(との2つの階級)である。

Chapter XV: The Family and the State, n.3

The present tendency in all countries is towards a continually increasing interference of the State with the power and functions of the father in the wage-earning class, without any corresponding interference (except in Russia) in other classes. The effect of this is to produce two rather different kinds of outlook among the rich and the poor respectively, with a weakening of the family where the poor are concerned, and no corresponding change as regards the rich. It may, I think, be assumed that humanitarian sentiment towards children, which has caused past interventions of the State, will continue, and will cause more and more interventions. The fact that an immense percentage of children in the poor parts of London, and still more in the industrial cities of the North, suffer from rickets, for example, is one which calls for public action. The parents cannot deal with the evil, however much they may wish to do so, since it requires conditions of diet and fresh air and light which they are not in a position to provide. It is wasteful as well as cruel to allow children to be physically ruined during the first years of their lives, and as hygiene and diet come to be better understood, there will be an increasing demand that children should not be made to suffer unnecessary damage. It is true, of course, that there is a vehement political resistance to all such suggestions. The well-to-do in every London borough band themselves together to keep down the rates, that is to say, to ensure that as little as possible shall be done to alleviate illness and misery among the poor. When local authorities, as in Poplar, take really effective measures to diminish infant mortality, they are put in prison. (note: In I922, the infant death-rate was five per thousand lower in Poplar than in Kensington; in I926, after the restoration of legality in Poplar had done its beneficent work, it was ten per thousand higher in Poplar than in Kensington.) Nevertheless, this resistance of the rich is continually being overcome, and the health of the poor is continually being improved. We may therefore confidently expect that the functions of the State in regard to the care of wage-earners’ children will be extended rather than curtailed in the near future, with a corresponding diminition in the functions of fathers. The biological purpose of the father is to protect children during their years of helplessness, and when this biological function is taken over by the State, the father loses his raison d’etre. We must, therefore, in capitalistic communitiess expect an increasing division of society into two castes, the rich preserving the family in its old form, and the poor looking more and more to the State to perform the economic functions traditionally belonging to the father.
出典: Marriage and Morals, 1929.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM15-030.HTM

ラッセル『結婚論』家族と国家 n.2

第十五章 家族と国家 n.2:教育制度と階級の関係

 国家が父親に取って代わるこのプロセスに対し,明確な制限(限界)を設けることはできない。国家が引き継いだもの(こと)は,母親というよりも,むしろ,父親の機能(役割)である。なぜなら,国家は,子供のために本来なら(otherwise そうでなければ)父親が金(代価)を支払わなければならないサービスをするからである。上流や中流の階級においては,このプロセス(進行/経過)は,ほとんど起こっていない。その結果,賃金労働者の間よりも,裕福な人びとの間のほうが父親はより重要なままであり,家族もより安定している。ソビエト・ロシアのように,社会主義を真剣に採り入れているところにおいては,以前,金持ちの子弟のために作られた教育機関を廃止したり,すっかり改革したりすることが,重要かつ絶対必要な事業だと認識されている。このようなことが英国で起こるとは,少し想像し難い。私は,高名なイギリスの社会主義者たちが,すべての子供は小学校に行くべきだという提案を聞いて,口角泡をとばして怒鳴るのを見たことがある。「何だって? 私の子供がスラムの子供とつきあうんだって! とんでもない!」と(言うように)彼らは叫ぶ(のだ)。奇妙なことに,彼らは,階級の区別がどれほど深く教育制度と結びついているか,わかっていないのである。

Chapter XV: The Family and the State, n.2

To this process of substituting the State for the father no clear limit can be set. It is the functions of the father rather than of the mother that the State has taken over, since it performs for the child such services as the father would otherwise have to pay for. In the upper and middle classes this process has hardly taken place at all, and consequently the father remains more important, and the family more stable, among the well-to-do than among wage-earners. Where Socialism is taken seriously, as in Soviet Russia, the abolition or complete transformation of educational institutions previously intended for the children of the rich is recognized as an important and vitally necessary undertaking. It is difficult to imagine this taking place in England. I have seen prominent English Socialists foam at the mouth at the suggestion that all children ought to go to elementary schools. “What? my children associate with the children of the slums? Never!” they exclaim. Oddly enough, they fail to realize how profoundly the division between the classes is bound up with the educational system.
出典: Marriage and Morals, 1929.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM15-020.HTM

ラッセル『結婚論』家族と国家 n.1

第十五章 家族と国家 n.1: 家族制度と国家との関係

家族は,生物学的起源をもっているけれども,文明社会においては,法律の制定による所産である。結婚は,法律で規制されており,親の子供に対する権利(親権)も細かく定められている。(法的)結婚がおこなわれない場合は,父親には(子供に対して)なんの権利もなく,子供はもっばら母親のものになる。しかし,法律は,家族を擁護する意図を有しているけれども,現代においては,ますます親と子供の間に介入してきており,立法者の希望と意図に反して,次第に家族制度を崩壊させる主要なエンジン(動力源)の一つになりつつある。こういうことが起こったのは,悪い親には,社会の一般的な感情が必要と考えるだけの子供の世話を期待できない(子供の世話することを信頼できない),という事実による。しかも,悪い親だけでなく,非常に貧しい親の場合も,彼らの子供を災難から守るためには,国家の干渉が必要になる(のである)。

 十九世紀の初めに,子供を工場で働かせることを禁止しようとする提案は,親の責任(責務)を弱めるだろうという理由ではげしく反対された。英国の法律は,古代ローマの法律と異なり(注:did not, like the that of ancient Rome, allow を「古代ローマの法律のように・・・を許さなかった」と訳すと,逆に解釈される危険がある。),親が子供をすみやかに苦痛をあたえずに殺すことを許さなかったが,親がゆっくりと(子供を)苦役で苦しめて,子供の生命を(徐々に)奪うことは許した(のである)(注:皮肉ですね)。この聖なる権利は,親や雇い主や経済学者によって擁護された。にもかかわらず,社会の道徳感情は,このような抽象的かつ学者ぶった考えにぞっとし(注:was revolted by),そうして,(英国)工場法が可決された。次の段階は,より重要なものであった。即ち,義務教育の開始である。これは,親権に対する真に重大な干渉である。休日を除いて,毎日の多くの時間,子供は家庭から離れて,子供たちが知る必要があると国が考える事柄を学習しなければならず,また,親がこのことをどう思うかは法的には無関係ない(のである)。学校を通して,子供の生活に対する国家の支配は,次第に広がりつつある。たとえ両親がクリスチャン・サイエンスの信者(注:彼らは手術や輸血を認めない。)であっても,子供の健康は世話をしてもらえる。子供が精神的に欠陥があれば,特殊学校へ行かされる。困窮していれば,養ってもらえる(食料などが与えられる)。親がブーツを買ってやれないなら,支給されるだろう。子供が登校したときに,親から虐待されている形跡があれば,親はおそらく刑罰を受けるだろう。

昔は,子供が未成年の間は,子供の稼ぎを取りあげる権利があった。今日では,子供が自分の稼ぎを保持することは,実際上は難しいかもしれないが,子供にはそうする権利はあり,必要があれば,この権利を行使することもできる。賃金労働者階級の親に残されている,わずかな権利の一つは,いかなるものであれ,同じ地域の多数の親たちが共有している迷信を子供に教えこむことである。しかも,この権利さえも,多くの国では両親から奪われている。

Chapter XV: The Family and the State, n.1

The family, though it has a biological origin, is in civilized communities a product of legal enactment. Marriage is regulated by law, and the rights of parents over their children are minutely determined. Where there is no marriage, the father has no rights, and the child belongs exclusively to the mother. But although the law means to uphold the family, it has in modern times increasingly intervened between parents and children, and is gradually becoming, against the wish and intention of law-makers, one of the chief engines for the break-up of the family system. This has happened through the fact that bad parents cannot be relied upon to take as much care of their children as the general feeling of the community considers necessary. And not only bad parents, but such as are very poor, require the intervention of the State to secure their children from disaster. In the early nineteenth century, the proposal to interfere with the labour of children in factories was fiercely resisted on the ground that it would weaken parental responsibility. Although the English law did not, like that of ancient Rome, allow parents to kill their children quickly and painlessly, it did permit them to drain their children of life by a slow agony of toil. This sacred right was defended by parents, employers, and economists. Nevertheless, the moral sense of the community was revolted by such abstract pedantry, and the Factory Acts were passed. The next step was a more important one, namely the inauguration of compulsory education. This is a really serious interference with the rights of parents. For a large number of hours on all days except holidays, the children have to be away from home, learning things that the State considers necessary for them to know, and what the parents think about the matter is legally irrelevant. Through the schools, the control of the State over the lives of children is being gradually extended. Their health is cared for, even if their parents are Christian Scientists. If they are mentally deficient, they are sent to special schools. If they are necessitous, they may be fed. Boots may be supplied if the parents ‘cannot afford them. If the children arrive at school showing signs of parental ill-treatment, the parents are likely to suffer penal consequences. In old days, parents had a right to the earnings of their children as long as their children were under age; now, although it may be difficult in practice for children to withhold their earnings, they have the right to do so, and this right can be enforced when circumstances arise which make it important. One of the few rights remaining to parents in the wage-earning class is that of having their children taught any brand of superstition that may be shared by a large number of parents in the same neighbourhood. And even this right has been taken away from parents in many countries.
出典: Marriage and Morals, 1929.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM15-010.HTM

ラッセル『結婚論』第十四章 個人心理の中の家族 n.11

ラッセル『結婚論』第十四章 個人心理の中の家族
n.11:

 このような制度(子供の養育権を父親からとりあげる制度)が男性の心理に及ぼす影響については,若干,前章で触れた。そういう制度は,男性の女性に対する関係のまじめさをはなはだしく減少させ,その関係を,心と精神と肉体の親密な結合ではなく,ますます単なる快楽の問題にしてしまうだろう,と私は信じている。(また)そういった制度は,すべての人間関係において,ある種瑣末なものに向かう傾向がある(注:tend towards a certain triviality/(人間関係は)ある種瑣末なものになりがちであり),その結果,男性の真剣な強い感情(情緒)は,自分の経歴や,自国や,あるいは何かまったく非個人的な問題に向けられるようになるだろう。

けれども,そういう言い方は,いくらか一般的(な言い方)にすぎるであろう。男性は,お互いに,はなはだしく異なっており,ある一人にとって大きな損失であるものが,もう一人にとっては,まったくもって申し分のないものであるかもしれないからである。いくらか躊躇しながら述べれば,認められた社会的関係としての父性が奪われたとしたら,男性の情緒生活をつまらなく,薄っぺらいものにしがちであり,ついには,ゆっくりと退屈と絶望を引き起こし,その中で,生殖(procreation)は次第に死に絶えていくであろう,と私は信じている。そして,人類は,より古い慣習(しきたり)を守ってきた種族(stocks 血統)によって補充されることになるだろう(注:一夫一婦制や家父長制を固守してきた種族が増えていくことになる/減った分が補充されることになるであろう)。退屈と平凡は避けがたいだろう,と私は思う。人口の減少は,もちろん,女性に十分な報酬を支払って,母親という職業につかせることで,防止できるだろう。もしも,軍国主義が相変らず今日のように強固であるなら,おそらく,こういうことが遠からず実行されるだろう。しかし,この方面に考えを向けるのは,のちの章で扱う人口問題の考察に属することである。従って,当面,そのことはこれ以上追求しないことにする。

Something was said in the last chapter as to the effect of such a system upon male psychology. It would, I believe, immensely diminish the seriousness of men’s relations to women, making them more and more a matter of mere pleasure, not an intimate union of heart and mind and body. It would tend towards a certain triviality in all personal relations, so that a man’s serious emotions would be concerned with his career, his country, or some quite impersonal subject. All this, however, is expressed somewhat too generally, for men differ profoundly one from another, and what to one might be a grave deprivation might to another be entirely satisfactory. My belief is, though I put it forward with some hesitation, that the elimination of paternity as a recognized social relation would tend to make men’s emotional life trivial and thin, causing in the end a slowly growing boredom and despair, in which procreation would gradually die out, leaving the human race to be replenished by stocks that had preserved the older convention. The boredom and triviality would, I think, be unavoidable. The diminution of population could, of course, be guarded against by paying women a sufficient sum for taking up the profession of motherhood. This will presumably be done before long, if militarism remains as strong as it is at present. But this line of thought belongs with the consideration of the population question, which will be dealt with in a later chapter. I shall not, therefore, at present pursue it farther.
出典: Marriage and Morals, 1929.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM14-110.HTM

ラッセル『結婚論』第十四章 個人心理の中の家族 n.10

ラッセル『結婚論』第十四章 個人心理の中の家族
n.10:もし子供の養育を全て国家が引き受けたら・・・

 男性は,現在父性(paternity 父親であること)から与えられる権利を享受できなくなるとしても,子供を作るだろうか? 男性の中には,もしも(子供に)責任を持たなくてもよいのであれば,むやみに子供を作るだろう,と言うものがいるだろう。私は,そうは信じない。子供を欲しがる男性は,それに伴う義務を欲しがる(のである)。そして,今日のような避妊法の(が普及した)時代においては,男性が快楽の追求時における単なる偶発的な事件として頻繁に子供を持つようなことはしないであろう。もちろん,法律の状態がどうであろうとも,その中で男性が現在父であることから得ているところの,男性と女性が恒久的に融和して生活する道は常に開かれているだろう。

しかし,もしも,法律と慣習が改正されて,子供は母親だけのものであるという見解に適応するようになったなら,女性は,今日知られているような結婚に類した(近い)ものは,いかなるものも自分たちの独立を侵害するものであり,結婚しなければ享受できるはずの,子供に対する完全な所有権を無駄に失うことになる,と感じることだろう。それゆえ,男性が女性を説得して,法律的に女性に保障されている権利を譲らせようとしても,あまり成功しないだろう,と予想(覚悟)しなければならない。

Chapter XIV: The Family in Individual Psychology, n.10

Would men beget children if they were not going to enjoy the rights which paternity confers at present? Some people would say that if they were not going to have responsibilities they would beget them recklessly. I do not believe this. A man who desires a child desires the responsibilities which it entails. And in these days of contraceptives a man will not often have a child as a mere incident in his pursuit of pleasure. Of course, whatever the state of the law might be, it would always be open to a man and woman to live in a permanent union in which the man could enjoy something of what now comes through fatherhood; but if law and custom were adapted to the view that children belong to the mother alone, women would feel that anything approximating to marriage as we know it now was an infraction of their independence, and involved a needless loss of that complete ownership over their children which they would otherwise enjoy. We must therefore expect that men would not often succeed in persuading women to concede rights legally guaranteed to them.
出典: Marriage and Morals, 1929.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM14-100.HTM

ラッセル『結婚論』第十四章 個人心理の中の家族 n.9

ラッセル『結婚論』第十四章 個人心理の中の家族
n.9:男が結婚する主な理由は?

 個人心理における家族に関連して最大級に重要な問題は,父親に及ぼす影響である。我々は,既に繰り返し機会をとらえて,父性(父親であること)とそれに付随する情熱の意義を指摘してきた。また,古代史において(in early history),父性が父家長制家族の発達と女性の隷属とに関連して,どのような役割を演じたかを見てきた。そうして,このことから,父親の感情がどれほど強い情熱である(にちがいない)かを判断することができる。理由はなかなか推測できないが,父親の感情は,高度に文明化された社会(高度文明社会)においては,それ以外の社会におけるほど,決して強くない(not nearly so strong)。帝国時代の上層階級のローマ人は,どうやら(apparently 見たところ)父性を感じなくなっていたようである。また,現代の多くの知的な男性は,父性をほとんど,あるいはまったく欠けている。にもかかわらず,最も文明化した社会においてさえ,非常に多くの男性はいまだ父性を感じている。男性が結婚する理由は,性(セックス)のためというよりも,むしろ,この(理由の)ためである。というのは,結婚しなくても性的な満足を得るのは困難ではないからである。子供を欲しがる気持ちは,男性よりも女性のほうに一般的であるという説があるが,私自身の印象は,真偽のほどはわからないが(for what it is worth),正反対である。非常に多くの現代の結婚において,子供は,男性の欲求に対する女性の側の譲歩にほかならない。結局,女性は,子供を生むためには,出産と陣痛(labor and pain)と美しさの喪失に直面しなければならないが,男性にはそういう心配をする理由がない

男性が子供の数を制限したいと思うのは,一般的に言って,経済的な理由からである。この理由は,同様に女性にも働いているが,女性にはさらに,女性自身の特別な理由もある。男性の子供を欲しがる気持ちがどれほど強いかは,専門職についている男性が,わざわざ物質的な安楽を喪失を引き受けてまでも,その階級に必要とされる高価な方法で子供を教育しようとすることを考えてみれば,明らかである

Chapter XIV: The Family in Individual Psychology, n.9

Much the most important question in relation to the family in individual psychology is the effect upon the father. We have already repeatedly had occasion to point out the significance of paternity and its attendant passions. We have seen what part it played in early history in connection with the growth of the patriarchal family and the subjection of women, and we can judge from this what a powerful passion paternal feeling must be. For reasons not easy to fathom, it is not nearly so strong in highly civilized communities as it is elsewhere. Upper-class Romans in the time of the Empire apparently ceased to feel it, and many intellectualized men in our own day are nearly or quite destitute of it. Nevertheless, it is still felt by the great majority of men, even in the most civilized communities. It is for this reason, rather than for the sake of sex, that men marry, for it is not difficult to obtain sexual satisfaction without marriage. There is a theory that the desire for children is commoner among women than among men, but my own impression, for what it is worth, is exactly the contrary. In a very large number of modern marriages, the children are a concession on the part of the woman to the man’s desires. A woman, after all, has to face labour and pain and possible loss of beauty in order to bring a child into the world, whereas a man has no such grounds for anxiety. A man’s reasons for wishing to limit his family are generally economic; these reasons operate equally with the woman, but she has her own special reasons as well. The strength of the desire that men feel for children is evident when one considers the loss of material comfort that professional men deliberately incur when they undertake to educate a family in the expensive manner that their class considers necessary.
出典: Marriage and Morals, 1929.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM14-090.HTM

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