1963年9月29日,「バートランド・ラッセル平和財団」創設記者発表


バートランド・ラッセル平和財団(の方)は、より直接的に、平和活動の政治的な面及び論争点な面を取り扱うことになっていた。また(慈善団体ではないので)ラッセル平和財団に対する寄付(金)は、金額の多少にかかわらず、通常の贈与とされていた。平和財団が発足してから最初の3年間に、何千ポンドもの金が、各個人や諸団体や諸政府から寄付された。紐つきの寄付金はまったく受け付けていない。特に政府からの寄付の場合には、寄付金の提供元は寄付金の支出の仕方や支出結果についていかなる方法においても介入しない(注文を付けない)、ということを、寄付者に明確にしている。
BR_and_Utant 不幸にして、平和財団創設の計画を公表しようと決定した(1963年)9月の初めに私は重い病気にかかってしまった。しかし9月末までに、すなわち、1963年9月29日に財団の創設について記者発表することができた。熱をこめた声明を私が発表した後、私の同志達が2つの財団についてそれぞれ準備したリーフレットを新聞記者たちに配付した。バートランド・ラッセル平和財団に関するリーフレットには、設立時のスポンサーのリストや、財団の目的に賛成して外部者の立場で書かれたウ・タント(国連事務総長)の書簡が載っていた。私はそれ以前から、他の諸問題と同時に平和財団の計画についても彼と語り合うととともに、彼に手紙も送っていた(上写真:ウ・タント国連事務総長とラッセル)。彼は心から賛成していたが、国連事務総長としての立場からスポンサーになることはできないと説明していた。けれども彼は、言葉遣いに注意しながらも激励する手紙(注:リーフレットに掲載したもの)を書くことを申し出てくれた。

The Bertrand Russell Peace Foundation was to deal with the more immediately political and controversial side of the work, and contributions to it, whether large or small, are given as ordinary gifts. During its first three years of existence many thousands of pounds have been contributed to it, some from individuals, some from organisations, some from Governments. No contribution with strings tied to it is accepted. Particularly in the case of Government contributions, it is made clear to the donors that the source of the money will not in any way prejudice the methods or results of its expenditure.
Unfortunately, I fell very ill at the beginning of September when we had decided to make our plans public, but by the end of the month, on September 29, 1963, we were able to release them. After I had made a vehement statement,we gave the press men the leaflet that my colleagues had prepared about each Foundation. That conerning the Bertrand Russell Peace Foundation gave a list of the then sponsors, and a letter that U Thant had written for the purpose on the outside. I had talked with him about our plans among other things and written to him about them. He had been warmly sympathetic, but explained that he could not be a sponsor because of his position as Secretary-General of the United Nations. He offered, however, to write the carefully worded but encouraging letter which we printed.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap4:The Foundation,(1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB34-100.HTM

[寸言]
 1963年9月29日に「バートランド・ラッセル平和財団(BRPF)」創設の記者会見を開催することができ、ようやく、ラッセル及びその支援者による一部の限られたメンバーによる平和運動ではなく、より幅広い人々や関係機関と協力して、組織的に平和運動を継続してやっていく体制を整えることができた。
その後、各国にもBPRF(ラッセル平和財団)を支援する組織がつくられていった。
 日本においては、1965年1月20日に、早稲田大学において、日本バートランド・ラッセル協会の設立総会が開催された。その発起人は次の発起人一覧にあるようにそうそうたるメンバーであった。
  発起人一覧 http://russell-j.com/FOUNDER.HTM
 ラッセル協会は、協会規約第二条に「本会はバートランド・ラッセルの思想の研究、理解、普及を目的とし、あわせて世界の平和、および人類の幸福に貢献しようとするものである。本会は学会であつて、直接の政治活動を行なわないものとする」とあるように、英国の BRPF と異なり、(個人として政治活動はしてもよいが)組織としては一切、政治運動をしないこととしていた。
そこで、BRPFを支援する団体として、別途、南原繁(元・東大総長)を委員長とするラッセル平和財団日本協力委員会が設けられた
しかし、ラッセルがヴェトナム戦争に反対し、米国を非難し始めたために、ついていけない者があらわれ、短期間活動しただけで解散となった。
 一方、ラッセルは『ラッセル自伝』で書いているように、BRPF創設より前の、1963年4月の少し前から,ラッセルの時間や思考(考えること)が,しだいにヴェトナムで行われている戦争に奪いとられるようになっていった。
 日本においては、組織で活動することとなると、集団の圧力がかかり、できるだけ突出したことはやめておこうという(無言の)圧力がかかることがよくある。他人の目を気にする日本人独特の態度である。
やはり、ここでも、ラッセルの平和運動に協力しようとしたのは,果敢に行動できる個人であった。当時長崎大学助教授(1928年長崎生れで、被爆者)をしていた岩松繁俊氏は、自宅にバートランド・ラッセルラッセル平和財団日本資料センターを設置し、日本中のラッセル平和財団賛同者・協力者・支援者に対し、BRPFから岩松氏に送られてくるBRPFの資料を(必要に応じて邦訳し)実費で配布する活動を始めたのである。
(長くなるので、本日はここまでとします。なお、岩松氏(長崎で被爆)は、その後、原水爆禁止日本国民会議(いわゆる原水禁)の議長を務められましたが、すでに88歳の高齢となられました。私も、年賀状のやりとりだけは、今でもしています。)

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