第18章 権力を手懐けること, n.37

【ラッセル『権力』(1938年)の最後のところです。長いので英文は省略します。英文を見たい方は次のページにあります。https://russell-j.com/beginner/POWER18_370.HTM

(以上の)フィヒテが言っていることの全ては,自由主義教育家が達成したいと望んでいることの正反対のもの(アンチテーゼ)を表わしていると取ってよいであろう(注:みすず書房版の東宮訳では「liberal educator」を「紳士養成の教育者」と訳している。財務省の大田理財局長ではないが「それは何でも,それは何でも・・・」と言いたいところ。liberal arts の教育を想像してのことあろうが,東工大の英語・英文学の教師をしていた東宮氏が・・・!?)。,自由主義教育者は,「(フィヒテが主張するように)意志の自由を絶滅させる」どころか,個人の判断(力)を強固なものにすることを目指す。彼は,知識の追求に向かう科学的態度について可能なことを(全て)教え込む(instil)であろう。彼は信念を暫定的なものかつ証拠に応じて変わりうるものとするであろう。彼は,生徒の前で博識(何でも知っている)のポーズをとらず(pose 自動詞),何らかの絶対的な善を追求をしているようなふりをして,権力愛に屈する(yeild to 従う/服従する)ようなことはしないであろう。権力愛は,政治家にとってと同じく,教育者にとって一番大きな危険である。教育において信頼できる人は,生徒自身のために(自分の)生徒に関心を持つべき(care for大事にすべき)であって,単に将来におけるある大義のための多数の宣伝掛りとして,関心を持つようではいけない。フィヒテ及びフィヒテの理想を受け継いだ権力者たちは,子供を見る場合,次のように考える。 「ここに私が操ることのできる材料がある。私は自分の目的を推進する機械のように行動せよと教えこむことができる(材料だ)。しばらくの間,人生の喜びや,自発性や,遊びたい衝動や,外側から強いられたのではなく内側から湧いてくる目的のために生きたいいう欲求によって邪魔されるかも知れない。しかし,こういったものは全て,私が強いる数年の学校教育(schooling)を受けた後は死んでしまうであろう。幻想,想像,芸術及び思考力は,服従によって破壊されてしまうであろう。(また)喜びが死に絶えれば,狂信主義に対する受容性(受容する傾向)を育むであろう。そして,最後には,私の材料としての人間たちは,採石場(quarry 石切場)からとってきた石や鉱山から採掘した石炭同様に,受動的なものになるであろう。彼ら(生徒)を導く戦場において,死ぬ者もあり,生き続ける者もあろう。死ぬものは勝ち誇って(注:die exultantly 戦場で万歳を叫んで)英雄のように死ぬであろうし,生き続ける者は,私の学校が彼らに慣れさせたあの深い精神的奴隷状態で,私の奴隷として生き続けるであろう。」  このようなことは全て,若者に対して自然な愛情を抱いている人々にとっては,身の毛のよだつことである。我々が子供たちにできるなら自動車によって殺さるのを避けるように教えるのと同様に,我々はまた子供たちが残酷な狂信主義者たちによって殺されないように教えるべきであり,この目的を達成するために,精神の独立 -それはいくらか懐疑的であると同時に全く科学的なものー を生み出そうと(努力)すべきであり,健康な子供にとって自然である,生きることの本能的な喜びをできるかぎり保持するように(努力)すべきである。これこそ自由主義教育の任務(務め)である。(即ち,)支配以外のものに価値があるという感覚を(生徒に)与えること,自由な社会の賢明な市民を創り出す助けになること,また,市民たることと個人の創造性における自由とを結びあわせることを通して,人生に(かつて)少数の者がそれが成就しうることを示したあの輝きを添えるようにさせることが(自由主義教育の)任務である。(完/終わり)