しかし、我々のこの世界は,全てが推論の問題(a matter of inference)であるわけではない。科学者の意見を聞かなくても,我々が知っている物事はある。(たとえば)もし,我々が暑すぎたり,寒すぎたりすれば、暑さや寒さは何からなっているかについて物理学者に尋ねなくても、我々はその事実(暑い寒い)に完璧に気づくことができる。他人の顔を見る時、我々(you)は全く疑う余地のない経験をする。しかし,その経験は理論物理学者が語るようなものを見ることからなっていない。我々は他人の眼を見る。そうして,他人もまた我々の眼を見ていると信じる。視対象(visual objects 視覚上の対象)としての我々自身の眼は、(この)世界の中の推論された部分に属している。ただし,この推論は,鏡や写真やあなたの友人の証言によって,かなり疑うことのできないものになっている。(訳注:鏡で自分の眼を見ていろいろ思い巡らすような状況を考えるとよい?)視対象(視覚対象)としての自分自身の眼に対する推論は、物理学者が電子等に対して行う推論と,本質的に同種のものである。だから,もし物理学者の推論の妥当性を否定しようとするならば、我々は自分が視覚の対象としての眼を持っているという知識をもまた否定しなければならない(訳注:つまり,物理学者があなたの眼を科学的に観察することと、自分が鏡の向こうに見える自分の眼を観察することは同種の推論だということ)。ユークリッドが(よく)言っているように,これは馬鹿げている(不合理である)。(注:野田氏は、「ユークリッドの言い方をまねれば、これは背理である」と訳しているが、absurd を「背理(パラドクス)」と訳すのは感心しない。) 我々が推論なしで気づく全てのものに「所与(与件)」(data:与えられたもの,与えられたデータ)という名を与えてよいであろう。「所与(与件)」には,我々が観察したあらゆる感覚(されたもの) -視覚、聴覚、触覚等-が含まれている。(我々の)常識は、我々(人間)の感覚の多くは、我々の身体の外部にある原因のせいだとする理由があると理解する(sees reason)。常識は,常識(を持った自分)の座っている部屋が、常識(を持った自分)が眼を閉じたり眠ったりすると存在しなくなるとは信じない(注:単数形の “it”は,前後関係から,「常識(Common sense)」としか解釈できない。しかし,「常識」だけでは変な訳文になってしまうので,長いですが「常識(を持った個人)と訳しています)。常識(を持った自分)は,自分の妻や子供は自分の想像の単なる作り物(figments 虚構)に過ぎないなどとは信じない。これらすべての点で我々は(自分たちの)常識に同意するかもしれない。しかし,(我々の)常識が間違うのは、無生物の対象が、その本質において、それが(原因となって)引き起こす知覚に似ていると想定すること(場合)においてである。そのように信ずることは、蓄音機のレコードがそれの生み出す音楽と似ていると考えるのと同様に根拠のないことである。しかしながら私が主として強調したいことは、物理的世界と所与の世界との相違なのではない。けれども,私が主として強調したいのは、物理学の世界と所与(与件)の世界の間にある「相違」ではない。それどころか逆に,私が明らかにすることが重要だと考えているのは、物理学が一見そう思わせるよりもずっと多くの密接な相似が両者の間にある可能性があるということである。
Chapter 2: My present view of the world, n.9
But our world is not wholly a matter of inference. There are things that we know without asking the opinion of men of science. If you are too hot or too cold, you can be perfectly aware of this fact without asking the physicist what heat and cold consist of. When you see other people’s faces, you have an experience which is completely indubitable, but which does not consist of seeing the things which theoretical physicists speak of. You see other people’s eyes and you believe that they see yours. Your own eyes as visual objects belong to the inferred part of the world, though the inference is rendered fairly indubitable by mirrors, photographs and the testimony of your friends. The inference to your own eyes as visual objects is essentially of the same sort as the physicist’s inference to electrons, etc.; and, if you are going to deny validity to the physicist’s inferences, you ought also to deny that you know you have visible eyes – which is absurd, as Euclid would say. We may give the name ‘data’ to all the things of which we are aware without inference. They include all our observed sensations – visual, auditory, tactile, etc. Common sense sees reason to attribute many of our sensations to causes outside our own bodies. It does not believe that the room in which it is sitting ceases to exist when it shuts its eyes or goes to sleep. It does not believe that its wife and children are mere figments of its imagination. In all this we may agree with common sense; but where it goes wrong is in supposing that inanimate objects resemble, in their intrinsic qualities, the perceptions which they cause. To believe this is as groundless as it would be to suppose that a gramophone record resembles the music that it causes. It is not, however, the difference between the physical world and the world of data that I chiefly wish to emphasize. On the contrary, it is the possibility of much closer resemblances than physics at first sight suggests that I consider it important to bring to light.
Source: My Philosophical Development, chap. 2,1959.
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