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ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.21

 注:一段落が長いので2つに分けましたが,次の文章は前の段落の最後の部分です。)
このようにして,聖書のテキスト(本文/章句)に由来するカトリック教会の教義だけでなく,聖書のテキスト(本文/章句)そのものも,成長(発達)の最も初期にある人間の胎児にも適用できるとと考えられた。また,この後者の意見(= 人間の胎児にも適用可能という意見)の根拠(理由)は,明らかに,胎児が神学上「魂」と呼ばれるものを持っているという信念に由来している。(原注:かつて神学者たちは,男の胎児は14日目に魂を得,女の胎児は18日目に得るという考えを抱いた。今日では,男女とも14日目に(魂を)得ると言うのが最上の見解である。(J.ニーダム(著)『発生学(胎生学)の歴史』p.参照) (訳注:どういうわけか,荒地出版社の津田訳では,次の2行分が訳出されていない。) そのような前提から引き出される結論は,正しいかも知れないし,間違っているかも知れない。しかし,(正誤)いずれの場合においても,その論拠は科学が受容できるものではない。教皇(=ピオ11世)が論じている事例において,医者によって予測された,母親の死(妊婦が亡くなること)は,殺人ではない(殺人にはならない)。なぜなら,医者は(予測はしても)必ずその母親が死亡するとは確信を持つことは決してできないからである。即ち,その母親は奇蹟によって救われる可能性がある(のである)。  しかし,今見てきたように(今さっき考察したように),今日でも神学は,道徳的な問題が特に含まれていると思われる場合には医学に干渉しようとしているけれども,ほとんどすべての領域において,医学の科学的独立のための戦いは勝利してきた。今日では,衛生施設や衛生学(sanitation and hygiene)により悪疫や伝染病を避けることを不敬(不信心)だと考える者はいない。また,依然として病は神によって与えられると主張する者もいるが,だからといって,それを避けようとするのは不信心だと論じたりする者はいない。健康の改善と長寿(longevity)の増進は,現代の最も注目すべきかつ驚嘆に値する特質である。科学が人類の幸福のためそれ以外何もしなかったとしても,それら(健康と長寿の増進)の理由だけで,我々の感謝に値するであろう。神学的教義の効用を信ずる者も,それらの神学的教義が人類に与えてきたもので(医学や衛生学に)比肩できる何らかの利益を指摘することに困難を感ずるであろう。

Chapter 4: Demonology and Medicine, n.21
Thus not only is the doctrine of the Catholic Church derived from a text, but the text is considered applicable to a human embryo at even the earliest stage of development, and the reason for this latter opinion is obviously derived from belief that the embryo possesses what theology calls a “soul.”(note: It was formerly held by theologians that the male embryo acquired a soul at the fortieth day, and the female at the eightieth. Now the best opinion is that it is the fortieth day for both sexes. See Needham, History of Embryology, p. 58.) The conclusions drawn from such premisses may be right or wrong, but in either case the argument is not one which science can accept. The death of the mother, foreseen by the doctor in the cases which the Pope is discussing, is not murder, because the doctor can never be certain that it will occur ; she might be saved by a miracle. But although, as we have just seen, theology still tries to interfere in medicine where moral issues are supposed to be specially involved, yet over most of the field the battle for the scientific independence of medicine has been won. No one now thinks it impious to avoid pestilences and epidemics by sanitation and hygiene ; and though some still maintain that diseases are sent by God, they do not argue that it is therefore impious to try to avoid them. The consequent improvement in health and increase of longevity is one of the most remarkable and admirable characteristics of our age. Even if science had done nothing else for human happiness, it would deserve our gratitude on this account. Those who believe in the utility of theological creeds would have difficulty in pointing to any comparable advantage that they have conferred upon the human race. (掲載日:2018.10.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-210.HTM

ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.20

 医学上の問題に対する神学の介入はまだ終っていない。(即ち,)産児制限のような問題に関する意見や一定の場合における流産の法的許可は,今日でも聖書の章句や(キリスト)教会の布告(ecclesiastical decrees)に影響されている。例えば,数年前教皇ピオ11世によって出された結婚に関する回勅(the encyclical 回勅とは,ローマ教皇から全世界のカトリック教会の司教へあてた公文書で,道徳や教えの問題についての教皇の立場を示すもの)を見よ。彼は,産児制限を行なう者は「自然に対して罪を犯し,恥ずべきまた本質的に不道徳な行いをすることになる。従って,主(the divine Majesty 神,主)がこの恐るべき犯罪を最大限の憎悪をもって注視し(regards with greatest detestation),時には死をもって罰したことを聖書(Holy Writ)が証言している(が聖書に書かれている)(bear witness 証言する)のも驚くべきことではない(small wonder)」と述べている。教皇は,さらにアウグスティヌスの創世記に関する著作(注:アウグスティヌス著作集(第16巻) :創世記注解)第38節の第8~10項までを引用する。産児制限を非難する理由はそれ以上必要ないと不要だと考えられている(教皇はそれ以上の理由は必要ないと考えている/いた)。経済上の理由に関しては,(教皇は)「極度の貧困で子供を養うのに大きな困難を経験している親たちの苦しみには深く心を動かさえる」が,「本質的に不道徳なあらゆる行為を禁じている神の綻を脇に置くことを正当化するほどの困難は生じ得ない」と述べている。「医学上あるいは治療上の」理由による妊娠中絶(the interruption of pregnancy),即ち,女性(妊婦)の生命を救うため中絶が必要と考えられる時も,それらは(妊娠中絶の)正当な理由にならないと彼(教皇)は考える。「形はどうであれ(in any way 多少なりとも)無実の者(嬰児)を直接殺害することを許すような(弁解を与えるような)充分な理由が存在するであろう? 母親(妊婦)を害しようと子供(嬰児)を害しようと,それは『汝殺すなかれ』と言う神の教えと自然の法(則)に反するものである」。教皇は,さらにすぐに続けて,この(聖書の)章句は戦争や死刑(capital punishment)を非難しているのではないと説朋し,次のように結論づけている。 「公正でありかつ熟達した医者は,母親と子供の両方の生命を守るため,極めて称賛に値する努力をする。反対に,医術(医療)を行なうという口実のもと,あるいは,誤った同情という動機のもと,(母と子の)どちらかの命を失くさせる者(who encompass the death 死を引き起こす者)は,気高い医療職(医者の仕事)に最も値しない者であることを示す(show oneself 証明する)」。

Chapter 4: Demonology and Medicine, n.20 The intervention of theology in medical questions is not yet at an end ; opinions on such subjects as birth control, and the legal permission of abortion in certain cases, are still influenced by Bible texts and ecclesiastical decrees. See, for instance, the encyclical on marriage issued a few years ago by Pope Pius XL. Those who practise birth control, he says, “sin against nature and commit a deed which is shameful and intrinsically vicious. Small wonder, therefore, if Holy Writ bears witness that the divine Majesty regards with greatest detestation this horrible crime and at times has punished it with death.” He goes on to quote St. Augustine on Genesis xxxviii. 8-10. No further reasons for the condemnation of birth control are thought necessary. As for economic arguments, “we are deeply touched by the sufferings of those parents who, in extreme want, experience great difficulty in rearing their children,” but “no difficulty can arise that justifies the putting aside of the law of God which forbids all acts intrinsically evil.” As regards the interruption of pregnancy for “medical or therapeutic” reasons, i.e., when it is considered necessary in order to save the woman’s life, he considers that this affords no justification. “What could ever be a sufficient reason for excusing in any way the direct murder of the innocent? Whether inflicted upon the mother or upon the child, it is against the precept of God and the law of nature : ‘Thou shalt not kill.’ “He goes on at once to explain that this text does not condemn war or capital punishment, and concludes : “Upright and skilful doctors strive most praiseworthily to guard and preserve the lives of both mother and child ; on the contrary, those show themselves most unworthy of the noble medical profession who encompass the death of one or the other, through a pretence of practising medicine or through motives of misguided pity.” (掲載日:2018.10.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-200.HTM

ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.19

 人類(人間)の苦しみを和らげることを阻止するための神学的干渉のもう一つの機会(場合)は,麻酔の発見であった。シンプソン(Sir James Young Simpson,1811-1870:スコットランドの産科医でクロホルムの医学への応用を初めて実施)は,1847年,それを出産に用いることを勧めた(因みに、華岡青洲(はなおか せいしゅう, 1760-1835)は,1804年に,世界で初めて全身麻酔を用いた手術(乳癌手術)に成功)が,牧師たちは神がイブに言ったこと,即ち,「汝は苦しみて子を産まん」(という言葉)を思い出した(『創世記』第3章第16項)。しかし(← and そうして),クロロフォルムの影響下において(注:昏睡状態にあって),イブはいかにして苦しむことが出来たであろうか? 神は(イブを誕生させるために)アダムの肋骨を抜く時に彼を深い眠りに陥れたという理由で,シンプソンは男性は麻酔(薬)を用いても害がないことを証明することに成功した。だが,男性の聖職者たちは,女性の苦しみに関しては,少なくともそれが出産の際のものである時には,依然(麻酔を使用することを)納得しないままであった。創世紀の権威が認められていない日本においては,いかなる人工的な軽減措置もなされずに,女性は依然として陣痛の苦しみに堪えることが期待されていることに注目してよいかも知れない(注:「endure the pains of labour」を津田氏は「労働の苦しみ」と訳出しているが陣痛のことを「labour pain」と言うことから,ここは「陣痛の苦しみ」と訳すべきであろう)。(こういったことから)多くの男性にとって,女性の苦しみは楽しみであり,従って,苦しみを避ける正当な理由がある時にも(←避けない正統な理由がまったくない時でも),忍耐強く苦しみを甘受することを義務づける何らかの神学的あるいは倫理的行動規範に固執する傾向があるという結論に反対することは困難である。神学が(これまで)与えてきた害悪は,残酷な衝動を生み出したことではなく,そうした衝動に高尚(高貴)な倫理という裁可(認可/是認)を与え,無知で野蛮な時代から伝わってきた諸習慣(行為)に外見上において神聖な性格を与えたことにある。

Chapter 4: Demonology and Medicine, n.19 Another occasion for theological intervention to prevent the mitigation of human suffering was the discovery of anaesthetics (= anethetics). Simpson, in 1847, recommended their use in childbirth, and was immediately reminded by the clergy that God said to Eve ; “In sorrow shalt thou bring forth children” (Gen. hi. 16). And how could she sorrow if she was under the influence of chloroform? Simpson succeeded in proving that there was no harm in giving anaesthetics to men, because God put Adam into a deep sleep when He extracted his rib. But male ecclesiastics remained unconvinced as regards the sufferings of women, at any rate in childbirth. It may be noted that in Japan, where the authority of Genesis is not recognized, women are still expected to endure the pains of labour without any artificial alleviation. It is difficult to resist the conclusion that, to many men, there is something enjoyable in the sufferings of women, and therefore a propensity to cling to any theological or ethical code which makes it their duty to suffer patiently, even when there is no valid reason for not avoiding pain. The harm that theology has done is not to create cruel impulses, but to give them the sanction of what professes to be a lofty ethic, and to confer an apparently sacred character upon practices which have come down from more ignorant and barbarous ages.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-190.HTM

ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.18

 生理学は解剖学より遅れて発達し,血液循環の発見者ハーヴェー(William Harvey, 1578-1657:イングランドの解剖学者,医師。1628年に血液循環説を発表)ともに科学的になったと見てよいだろう(may be taken as)。彼はヴェサリウスと同様宮廷医(侍医) -最初はジェームズ一世の,その後チャールズ一世の- であったが,ヴュサリウスとは異なり,彼はチャールズ一世が亡くなった時でさえも迫害を受けなかった(注:when Charles I had fallen: 「fallen 亡くなった」を荒地出版社の訳本では「退位した時」と誤訳している)。その間の世紀(注:ヴェサリウスとハーベイとの間の期間)に,医学上の問題に関する意見は,ずっと自由になった。特にプロテスタント諸国においてそうであった。スペインの諸大学では,血液の循環は18世紀末においてさえ否定されており,また,解剖は(も)その時でもなお医学教育に加えられていなかった。  古い神学上の偏見は,かなり弱められたが,何らかの(何か)驚くほど新奇なもの(startling novelty)によって覚醒されると,再び現れた。天然痘に対する種痘(=天然痘の予防接種)(inoculation against smallpox)は,神学者たち(divines)からはげしい抗議を引き起こした(注:津田氏は divines を牧師たちと訳出)。ソルボンヌ大学は神学的根拠からそれに対し反対意見を公表した。英国国教会のある牧師は説教集を出版し,その中でヨブの出来物(腫れ物)(Job’s boils)は疑いもなく悪魔による接種のせいだと言っている。また,多くのスコットランドの牧師たち(ministers)は,種痘は「神の審判をくじこうとする努力である」という宣言(の発表)に加わった。けれども,(種痘の)天然痘による死亡率を低下させる効果(結果)がとても顕著であったので,神学的恐怖もこの病(天然痘)の恐怖を凌駕することは出来なかった。さらに,1768年には,エカチェリーナ2世(1729-1796)(注:ドイツ語のカザリン,英語のキャサリンの表記もあり)及び彼女の息子は種痘をうった。彼女は,もしかすると道徳的観点からではないかも知れないが,世俗的な(あの世ではなくこの世の)思慮分別が必要な問題における信蹟できる案内者と考えられた。  種痘の是非論に関する論争は消え始めていたが,予防接種(vaccination:ワクチン接種)の発見(注:予防接種が効果があることの発見)はその論争を復活させた(注:津田氏は vaccination 予防接種一般」を「種痘(天然痘に限定した予防接種)」と訳している)。聖職者たちは(また医者たちも),予防接種を「天(神)自体に,さらには,神の意にさえ反抗するもの」と見なした。ケンブリッジ大学においては,(ある)大学説教でも予防接種への反対が唱えられた(説教が行われた)。1885年になってさえも(そんなに時代が進んでも)モントリオールで天然痘が発生した時には,住民の内カトリック教徒たちは,牧師たちの支持の下に,予防接種に反対した。ある司祭(priest 神父)は次のように述べている。「もし,我々が天然痘にかかるとしたら,それは昨冬謝肉祭(注:カトリック教で行われる祭りで,四旬節(=復活祭前の四十日間)に肉を断つので、その直前三日ないし一週間をにぎやかに祝うもの)をやり,その時にごちそうを食べ肉体を喜ばせて主(神)を怒らせたからだ」。(また)「感染地区の中心にある修道院の神父たち(The Oblate Fathers)は予防接種を非難し続けた。(また)信者は,いろいろな種類の献身的な祈祷(devotional exercises 勤行/ごんぎょう)に頼るように熱心に勧められた。 全聖職団の裁可(the sanction of the hierarchy)のもと,聖母マリアへの厳粛な祈願をこめた聖歌大行列を行なうことが命ぜられ,ロザリオ(注:聖母マリアへの祈り「アヴェ・マリア」を繰り返し唱える際に用いる数珠状の祈りの用具)の使用も明細に指示された。」〈原注:ホワイト「前掲書」第2巻 p.60参照)

Chapter 4: Demonology and Medicine, n.18
Physiology developed later than anatomy, and may be taken as becoming scientific with Harvey (1578-1657), the discoverer of the circulation of the blood. Like Vesalius, he was a Court physician – first to James I and then to Charles I – but unlike Vesalius he suffered no persecution, even when Charles I had fallen. The intervening century had made opinion on medical subjects much more liberal, especially in Protestant countries. In Spanish universities, the circulation of the blood was still denied at the end of the eighteenth century, and dissection was still no part of medical education. The old theological prejudices, though much weakened, reappeared when awakened by any startling novelty. Inoculation against smallpox aroused a storm of protest from divines. The Sorbonne pronounced against it on theological grounds. One Anglican clergyman published a sermon in which he said that Job’s boils were doubtless due to inoculation by the Devil, and many Scottish ministers joined in a manifesto saying that it was “endeavouring to baffle a Divine judgment.” However, the effect in diminishing the death-rate from smallpox was so notable that theological terrors failed to outweigh fear of the disease. Moreover, in 1768 the Empress Catherine had herself and her son inoculated, and though perhaps not a model from an ethical point of view, she was considered a safe guide in matters of worldly prudence. The controversy had begun to die down when the discovery of vaccination revived it. Clergymen (and medical men) regarded vaccination as “bidding defiance to Heaven itself, even to the will of God” ; in Cambridge, a university sermon was preached against it. So late as 1885, when there was a severe outbreak of smallpox in Montreal, the Catholic part of the population resisted vaccination, with the support of their clergy. One priest stated : “If we are afflicted with smallpox, it is because we had a carnival last winter, feasting the flesh, which has offended the Lord.” “The Oblate Fathers, whose church was situated in the very heart of the infected district, continued to denounce vaccination ; the faithful were exhorted to rely on devotional exercises of various sorts ; under the sanction of the hierarchy a great procession was ordered with a solemn appeal to the Virgin, and the use of the rosary was carefully specified.”(note: White, op. cit., Vol. II, p. 60. )
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-180.HTM

ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.17

Andreas Vesalius by Edouard Hamman (1819-1888). (Photo by: Universal History Archive/Universal Images Group via Getty Images)

 これまで見てきたように,中世時代を通して病気の予防と治療は,迷信的あるいはまったく恣意的な(arbitary 原則によらず勝手な)方法で試みられた。解剖学及び生理学なしには(当時)より科学的なもの(予防や治療)はまったく不可能であり,そうしてこれらの科学も教会が反対する解剖を行なわないでは可能ではなかった。解剖学を初めて科学的なものにしたヴュサリウスは,皇帝チャールズ五世 -彼は自分が愛顧している医者を失ったら自分の健康は害されるかも知れないと恐れていた- の医者(侍医)だったので,暫くの間,公的な非難を首尾よく免れていた。チャールズ五世の治世下,神学者会議は,ヴュサリウスについて助言を求められ,彼らの意見として,解剖は神物冒涜(sacrilege 罰当たりな行為)ではないと回答した。しかし,(チャールズ五世ほど)病弱でないフィリップ二世は一人の被疑者(a suspect 嫌疑をかけられた者)を保護する理由を認めなかった。(そうして)ヴュサリウスはそれ以上解剖のための死体を得ることができなかったキリスト教会(カトリック教会)は,人体の中には復活(再生)する肉体の核となる一つの(頑丈なため)破壊できない骨があると信じていた。ヴュサリウスは,そのことを問われ,そういった骨を未だかつて発見したことがないと告白した。これは具合わるいことだったが,おそらく,それほど悪いものではなかった。ガレヌス(Galen – Claudius Galenus, 129年頃 – 200年頃:ローマ帝国時代のギリシアの医学者で,彼の学説はルネサンスまでの1500年以上にわたり、ヨーロッパの医学およびイスラームの医学において支配的なものとなった) の医学上の弟子たちは -物理学においてアリストテレスがそうであったように,彼らは医学の進歩において大きな障害になった- ヴュサリウスを無慈悲な敵意をもって追求し,そして遂に(at length)彼を破滅させる機会を見出した。(即ち)彼が,親族の者の同意を得て某スペインの大公(grandee 最高位の貴族)の遺体を調べている時,(執刀用)ナイフの下で(その貴族の)心臓が動いている徴候を示しているのが観察された - あるいは彼の敵たちがそう言った。彼は殺人の罪の疑いがかけられ,異端審問所に告発された。王が影響力を行使することによって,彼は聖地への巡礼により懺悔する(罪の償いをする)ことを許された。しかし,巡礼からの帰路,彼は難破に遭い,岸に達したけれども,疲れ切って亡くなった。だが,彼の影響力は生き残った。即ち,彼の弟子の一人のファロッピオ(Fallopius = Gabriele Falloppio ガブリエレ・ファロッピオ, 1523-1562:イタリアの16世紀を代表する解剖学者で医師)は顕著な仕事をした。そうして,医療専門職たちは,徐々に,肉体のなかにあるものを発見する方法は(外から眺めるだけでなく,実際に)人体の中に存在するものを視線を向けて見る(look and see)ことだと確信するようになった。

Chapter 4: Demonology and Medicine, n.17
Throughout the Middle Ages, as we have seen, the prevention and cure of disease were attempted by methods which were either superstitious or wholly arbitrary. Nothing more scientific was possible without anatomy and physiology, and these, in turn, were not possible without dissection, which the Church opposed. Vesalius, who first made anatomy scientific, succeeded in escaping official censure for a while because he was physician to the Emperor Charles V, who feared that his health might suffer if he were deprived of his favourite practitioner. During Charles V’s reign, a conference of theologians, being consulted about Vesalius, gave it as their opinion that dissection was not sacrilege. But Philip II, who was less of a valetudinarian, saw no reason to protect a suspect ; Vesalius could obtain no more bodies for dissection. The Church believed that there is in the human body one indestructible bone, which is the nucleus of the resurrection body ; Vesalius, on being questioned, confessed that he had never found such a bone. This was bad, but perhaps not bad enough. The medical disciples of Galen – who had become as great an obstacle to progress in medicine as Aristotle in physics – pursued Vesalius with relentless hostility, and at length found an opportunity to ruin him. While, with the consent of the relatives, he was examining the corpse of a Spanish grandee, the heart – or so his enemies said – was observed to show some signs of life under the knife. He was accused of murder, and denounced to the Inquisition. By the influence of the king, he was allowed to do penance by a pilgrimage to the Holy Land ; but on his way home he was shipwrecked, and although he reached land he died of exhaustion. But his influence survived ; one of his pupils, Fallopius, did distinguished work, and the medical profession gradually became convinced that the way to find out what there is in the human body is to look and see.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-170.HTM

ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.16

 レッキー(Lecky,William Edward Hartpole, 1838-1903)は,魔女術の問題を彼の「合理主義の歴史」の中で詳細に扱っており,ブラック・マジック(黒魔術/黒呪術)に対する信仰はこの問題に関する論証によってでなく,法の支配に対する信仰の普及により打ち負かされた,という興味深い事実を指摘した(している)。彼は魔女術に関する詳細な議論において,論証の重み(づけ)魔女術(が存在すること)を支持している者の側にあるとさえ主張しているほどである(even goes so far as to say )。このことは,もしかすると,魔女術(の存在)を支持する者たち聖書を引用しうるのに反し,反対者たち(魔女術の存在を否定する人たち)が聖書の全てを例外なく信ずるべきではない(常に信ずるべきということではない)とあえて主張することはできなかったことを想起すれば,驚くにあたらないことかも知れない。さらに,すぐれた科学的精神の持主たちが通俗的な迷信に関わらなかったのは,ひとつには彼らがもっと積極的な(前向きな)仕事を持っていたからであり,一つには彼らが敵意を喚起するのを恐れたからであった。この出来事(the event)は彼ら(科学的精神の持ち主たち)は正しかったことを示している。ニュートンの著作は,神は最初に自然を創造し,そうしてキリスト教の啓示のような重大な機会以外は(神が)新たに介入することなく神が意図した結果を自然法則が生み出すように命じたのだ,と人々を信じさせた。プロテスタントは,(神による)奇蹟は西暦1世紀あるいは西暦2世紀に起ったが,その後は止んだのだと考えた。もし,神が奇蹟による介入をしないなら,悪魔にも奇蹟を起こすことを(神が)許すということはほとんど考えられなかった。科学的な気象学についての期待が存在しており,科学的気象学はもはや嵐の原因としてのほうきに乗った老女の存在などを認める余地はなかったであろう。しばらくの間,雷光や雷音に自然法則の概念を適用することは(神に対する)不敬であるとずっと考えられていた。それらは神が特別になさることであるという理由からであった。この見解は,避雷針対する抵抗(反対)のなかに生き残った。そうして,1755年にマサチュセッツが地震で揺れた時,尊師プライス博士は,本になって出た説教の中で(in a published sermon),それらの地震は「聡明なるフランクリン氏(注:Benjamin Franklin, 1706- 1790:米国の政治家で気象学者)により発明された鉄針」のせいだとして,次のように言っている。ボストンではニューイングランドの他のどこよりも(避雷針が)多く立っているので,ポストンは他のどこよりも恐ろしく揺れたように思われる。おお! 全能の神の御手から逃げ出すことはまったくできない(のだ)」。この警告にも関らず,ポストンの人々は「鉄針」を立て続けたが,地震(発生)の頻度は増加はしなかった。 ニュートンの時代以後,プライス博士のような観点はますます迷信的香りがするように感じられるようになった。そうして,自然の行程への奇蹟による干渉への信仰は死に絶え,魔女術の可能性に対する信仰もまた必然的に消滅した。魔女術の証拠は決して反証されることはなかった。ただ,魔女術の証拠を吟味する価値があると思われなくなったのである。

Chapter 4: Demonology and Medicine, n.16
Lecky, whose History of Rationalism deals at length with the subject of witchcraft, points out the curious fact that belief in the possibility of black magic was not defeated by arguments on this subject, but by the general spread of belief in the reign of law. He even goes so far as to say that, in the specific discussion of witchcraft, the weight of argument was on the side of its upholders. This is perhaps not surprising when we remember that the Bible could be quoted by the upholders, while the other side could hardly venture to say that the Bible was not always to be believed. Moreover, the best scientific minds did not occupy themselves with popular superstitions, partly because they had more positive work to do, and partly because they feared to rouse antagonism. The event showed that they were right. Newton’s work caused men to believe that God had originally created nature and decreed nature’s laws so as to produce the results that He intended without fresh intervention, except on great occasions, such as the revelation of the Christian religion. Protestants held that miracles occurred during the first century or two of the Christian era, and then ceased. If God no longer intervened miraculously, it was hardly likely that He would allow Satan to do so. There were hopes of scientific meteorology, which would leave no room for old women on broomsticks as the causes of storms. For some time it continued to be thought impious to apply the concept of natural law to lightning and thunder, since these were specially acts of God. This view survived in the opposition to lightning conductors. Thus when, in 1755, Massachusetts was shaken by earthquakes, the Rev. Dr. Price, in a published sermon, attributed them to the “iron points invented by the sagacious Mr. Franklin,” saying : “In Boston are more erected than elsewhere in New England, and Boston seems to be more dreadfully shaken. Oh! there is no getting out of the mighty hand of God.” In spite of this warning, the Bostonians continued to erect the “iron points,” and earthquakes, nevertheless, did not increase in frequency. From the time of Newton onward, such a point of view as that of the Rev. Dr. Price was increasingly felt to savour of superstition. And as the belief in miraculous interference with the course of nature died out, the belief in the possibility of witchcraft necessarily also disappeared. The evidence for witchcraft has never been refuted ; it has simply ceased to seem worth examining.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-160.HTM

ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.15

 西欧諸国において魔女術に対する刑罰が停止されたのには,驚くべき同時性が存在している(驚くほど時を同じくしている)。英国においては,魔女術への信仰は,英国国教徒よりも清教徒(プロテスタント)の間で強固に持ちつづけられていた共和政(注:the Commonwealth = the Commonwealth of England:イングランド共和国/共和制イングランド:イングランド内戦の後にイングランド王国およびスコットランド王国に代わって1649年から1660年まで清教徒のクロムウェル(死後はその息子)が支配した政治体制)の間も,チューダー朝やスチュアート朝の全統治間と同じくらい魔女術(使い)に対する多くの処刑が行われた。(1660年の)王政復古とともに,この問題(魔女術)に対する懐疑主義が流行り始めた。確かに知られている最後の処刑(死刑執行)は1682年に行われた。ただし,1712年になっても(as late as)別の処刑が行われたとも言われている。同じ年に,,(英国)ハートフォード州(注:大ロンドンの北に隣接した州)で,同地域の牧師たちによって扇動されて起こされた裁判があった。裁判官は魔女術の犯罪の可能性を信じておらず,そういう意味で陪審たちを指導した。(つまり)陪審員たちは,それにも拘わらず,被告に有罪の判決を下したが,しかし,その判決は(裁判官によって)取り消された。そして,そのことは牧師たちの激しい抗議へと導いた。魔女の拷問や処刑がイングランドにおけるよりもずっと日常的であったスコットランドにおいても,17世紀末以後はそれらは稀になった。魔女の最後の火刑は,1722年,あるいは1730年に行われたフランスにおいては最後の火刑は1719年に行われた。(アメリカ大陸の)ニュー・イングランドにおいては,魔女狩りのはげしい騒動が17世紀末に起ったが,(それ以後)再び繰返されることはなかった(訳注:現在のアメリカ合衆国ニューイングランド地方のマサチューセッツ州セイラム村で1692年3月1日に始まったセイラム魔女裁判では、200名近い村人が魔女として告発され、19名が処刑された)。到るところで魔女の俗信(popular belief 世間通念)は続いた。辺境の地域では今日でもそれは生き残っているところがある。イングランドにおけるその種の最後の事件は1863年にエセックスで起こっており,その時には一人の(男性の)老人が男魔術師(魔術使い)だとして隣人によって私刑によって殺害されている(リンチされている)。法的に犯罪の可能性があるものとして魔術使いを認識することは,スペインとアイルランドにおいて一番遅くまで存続した。アイルランドでは魔女取締法は1821年まで廃止されなかった。スペインでは,一人の呪術師が1780年に焼殺された。

Chapter 4: Demonology and Medicine, n.15
There is a remarkable simultaneity in the cessation of punishments for witchcraft in Western countries. In England, the belief was more firmly held among Puritans than among Anglicans ; there were as many executions for witchcraft during the Commonwealth as during all the reigns of the Tudors and Stuarts. With the Restoration, scepticism on the subject began to be fashionable ; the last execution certainly known to have taken place was in 1682, though it is said that there were others as late as 1712. In this year, there was a trial in Hertfordshire, instigated by the local clergy. The judge disbelieved in the possibility of the crime, and directed the jury in that sense ; they nevertheless convicted the accused, but the conviction was quashed, which led to vehement clerical protests. In Scotland, where the torture and execution of witches had been much commoner than in England, it became rare after the end of the seventeenth century ; the last burning of a witch occurred in 1722 or 1730. In France, the last burning was in 1718. In New England, a fierce outbreak of witch-hunting occurred at the end of the seventeenth century, but was never repeated. Everywhere the popular belief continued, and still survives in some remote rural areas. The last case of the kind in England was in 1863 in Essex, when an old man was lynched by his neighbours as a wizard. Legal recognition of witchcraft as a possible crime survived longest in Spain and Ireland. In Ireland the law against witchcraft was not repealed until 1821. In Spain a sorcerer was burnt in 1780.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-150.HTM

ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.14

 スコットランドにおける魔女対策法は,イングランドにおける魔女対策法を廃止した同じ1736年の法律によって廃止された(注:イングランドとスコットランドは1707年に併合している)。だが,スコットランドにおいては,魔女に対する信仰は依然根強かった。1730年に出されたある法律の専門書で,「魔女は存在するかもしれないし,これまで存在してきた(だろう),また、おそらくそういったものは現在も実際に存在しているだろう,ということよりも明らかなことはない,と私には思われる。私は -事情が許せば(God willing 神許したまわば)- 刑法に関するより大部の著作のなかでそのことを明確にしたい」と述べている。スコットランド国教会(the Established Church of Scotland)のある重要な分派(分離派)の指導者たちは,1736年,その年(1736年)の堕落に関する陳述を公表した。それ(その陳述)は,ダンスや劇が奨励されていることについて不平を言っているだけでなく,「最近,魔女に対する刑法(penal statutes 刑罰法規)が廃止されたが,それは『汝,魔女を生かしておくべからず』という神の法(掟)を明文化したものに反するものである」と不平を言っている(原注:バートン「前掲書」第8巻p.410参照)。けれども,この年以後,魔女術に対する信仰は,スコットランドの教養ある人々の間で急速に衰えた

Chapter 4: Demonology and Medicine, n.14
The law against witchcraft was repealed in Scotland by the same Act of 1736 which repealed it in England. But in Scotland the belief was still vigorous. A professional text-book of law, published in 1730, says : “ Nothing seems plainer to me than that there may be and have been witches, and that perhaps such are now actually existing ; which I intend, God willing, to clear in a larger work concerning the criminal law.” The leaders of an important secession from the Established Church of Scotland published, in 1736, a statement on the depravity of the age. It complained that not only were dancing and the theatre encouraged, but “of late the penal statutes against witches have been repealed, contrary to the express letter of the law of God — ‘Thou shalt not suffer a witch to live.’ (note: Burton, op. cit., Vol. VIII, p.410) After this date, however, the belief in witchcraft rapidly decayed among educated people in Scotland.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-140.HTM

ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.13

Charles Turner (British, Woodstock, Oxfordshire 1774–1857 London) A Witch Sailing to Aleppo in a Sieve, December 1, 1807 British, Mezzotint; Plate: 24 × 18 in. (61 × 45.7 cm) Sheet: 24 3/4 × 21 3/8 in. (62.9 × 54.3 cm) The Metropolitan Museum of Art, New York, The Elisha Whittelsey Collection, The Elisha Whittelsey Fund, 1967 (67.797.44) http://www.metmuseum.org/Collections/search-the-collections/654259

 イングランドよりも魔女の迫害がずっと厳しかったスコットランドにおいて,ジェームズ一世は,デンマークから(スコットランドへ)の航海中彼を悩ませた大暴風雨の原因を発見するのに大いに成功した(beset 悩ます;四方から取り囲んで攻撃する)。フィアン博士とかいう名前の人A certain Dr. Fian)は,拷問を受けて,この嵐はリース(注:現在エディンバラに一部となっている港町)からふるいに乗って(in a sieve)海に出帆した(had put to sea)何百人もの魔女によって生み出されたのだと告白した。 (注:sieve はふるい(漉し器)であるが,。漉し器にのったら水が入ってきてすぐに沈んでしまうはずなので「in a sieve (ふるい/漉し器)に乗って」とはどういうことか私も最初はわからなかった。ネットでいろいろ調べているうちに,go to sea in a sieve という表現があり,google の画像検索によって該当するイラストも発見できた。たとえばこんな詩もついていた。「やがて水が流れこみ ふるいはすっかり水びたし たたんだピンクの紙をだし ぬれないように足つつみ  ピンでしっかり留めといた・・・」とある。また,シェークスピアの「マクベス」にも第一魔女が「亭主はタイガー号の船長やってて,アレッポへ航海中だから, あたしは篩(ふるい)の船で追っかけてやるんだ。」というセリフをしゃべっている。つまり,英国人なら「witches who had put to sea in a sieve 」とあればみな理解してしまうのであろう! 因みに,荒地出版社の津田訳では「海をふるいにかけたリース出の幾百もの女魔法師等によってこの嵐は生み出された」とひどい訳になっている)。 バートン(John Hill Burton, 1809-1881: スコットランドの歴史家)は彼の「スコットランド史」(第7巻 p.116)で述べているように,「この現象((大嵐/大暴風雨))の価値は,スカンジナヴィア側の魔女の協力団体(a co-operative body 協同組合?)により一層増大され,両者(スコットランドとスカンジナビアの喪女)は悪魔学の諸法則に関する決定的な(crucial 重要な)実験を提供した」。フィアン博士はすぐに自分の告白を撤回した。そこで拷問は大いにその厳しさを増した。彼の下肢(足)の骨は幾つかに折られたが彼は屈しなかった(obdurate 頑固な)。そこで,事の成り行き(the proceedings)を見ていたジェームズ一世は,新しい拷問方法を考案した。(即ち)迫害の犠牲者の指の爪ははがされ,針が頭まで突きさされた。しかし,今日の記録にも残っているように,「悪魔が彼の心の奥深くに住んでいたので,彼は以前に告白した全てのことを完全に否定した」。そこで,かれは焼き殺された。(原注:レッキー(著)『ヨーロッパにおける合理主義の歴史』第1巻p.114参照)

Chapter IV Demonology and Medicine, n.13
In Scotland, where the persecution of witches was much more severe than in England, James I had great success in discovering the causes of the tempests which had beset him on his voyage from Denmark. A certain Dr. Fian confessed, under torture, that the storms were produced by some hundreds of witches who had put to sea in a sieve from Leith. As Burton remarks in his History of Scotland (Vol. VII, p. 116): “The value of the phenomenon was increased by a co-operative body of witches on the Scandinavian side, the two affording a crucial experiment on the laws of demonology.” Dr. Fian immediately withdrew his confession, whereupon the torture was greatly increased in severity. The bones of his legs were broken in several pieces, but he remained obdurate. Thereupon James I, who watched the proceedings, invented a new torture : the victim’s finger-nails were pulled off, and needles thrust in up to the heads. But, as the contemporary record says : “So deeply had the devil entered into his heart, that hee utterly denied all that which he before avouched.” So he was burnt.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-120.HTM

ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.12

 プロテスタントも,カトリックとまったく同じくらい,魔女(女魔術師)の迫害にふけった。この件については,ジェームズ一世(注:Charles James Stuart, 1566-1625:スコットランド、イングランド、アイルランドの王で,スコットランド王としてはジェームズ6世。学識ある統治者として知られた。)は,特に熱心だった。彼は悪魔研究(悪魔学)に関する本(注:Daemonologie, 1597年)を執筆し,イングランド統治の最初の年 -当時,コーク(Edward Coke, 1552-1634)は法務総裁(Attorney-General)で,ベーコン(注:Francis Bacon, 1561-1626:イギリスの哲学者、神学者、法学者。「知は力なり」という言葉で有名)は下院にいた- に,ある法令により魔女(女魔術師)に関する法律(the law)をより厳しいものにするようにさせたが,その法律は1736年まで効力を持ち続けた。多くの告発がなされており,そのなかのある告発の医師立会人だったトーマス・ブラウン卿は,「医師の宗教」(Religio Medici)の中で次のように力説している。「私はこれまで魔女(女魔法師)が存在すると信じてきたし,今もそれを知っている。魔女(の存在)を疑う者は魔女を否定するばかりでなく,霊(の存在)をも否定する者である。また,彼らはごまかしており(obliquely 傾いており),従って,そういった者たちは一種の不信心(者)ではなく一種の無神論(者)である」。事実,レッキーが指摘しているように,「幽霊や魔女(の存在)を信じないことは,17世紀における懐疑論の最も主要な特徴であった。当初懐疑論(懐疑主義)はほとんど公然たる自由思想家たちに限られていた。」(のである) 。

Chapter 4: Demonology and Medicine, n.12
Protestants were quite as much addicted as Catholics to the persecution of witches. In this matter James I was peculiarly zealous. He wrote a book on Demonology, and in the first year of his reign in England, when Coke was Attorney-General and Bacon was in the House of Commons, he caused the law to be made more stringent by a statute which remained in force until 1736. There were many prosecutions, in one of which the medical witness was Sir Thomas Browne, who declared in Religio Medici : “I have ever believed, and do now know, that there are witches ; they that doubt them do not only deny them, but spirits, and are obliquely and upon consequence a sort, not of infidels, but of atheists.” In fact, as Lecky points out, “ a disbelief in ghosts and witches was one of the most prominent characteristics of scepticism in the seventeenth century. At first it was nearly confined to men who were avowedly free thinkers.”
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-120.HTM