地獄(の存在)に対する信仰が衰えたのは,何か新しい神学的論拠(神学的議論)によるのではなく,(また)科学の直接的影響でさえなく(nor yet でさえなく,ですらなく),18世紀と19世紀の間に,残忍さが一般的に減少したせいである。それは(そのことは),フランス市民革命の少し前に多くの国で司法的拷問(注:judical torture 自白を得るための司法的拷問。刑罰としての拷問とは別)を廃し,また,19世紀初期に野蛮な刑法を改正せしめるに至った -野蛮な刑法ということでは英国は不名誉を被った- と同じ変化の一端(part of the same movement)である。今日では,未だ地獄(の存在)を信じている人々の間においてさえ,地獄における拷問を受ける運命にある人の数は,以前に考えられたよりもずっと少ないと考えられている。今日では,我々の凶暴な感情は,神学的方向よりむしろ政治的方向をとっている(向いているのである)。 地獄信仰がより不確かなものになるにつれて,極楽信仰も同様に生き生きとしたイメージを失ったことは,興味深い事実である。天国(極楽)は今日でもキリスト教正統信仰によって公認されているものの部分(一部)であるが,現代の議論において,天国(極楽)に関しては,進化における神の目的の証拠に関してよりも,語られることはずっと少ない。宗教を擁護するための論拠(論証)は,今日では,あの世での生活との関連でよりも,この地上での善い生活を促進することにおいて宗教が与えている影響について,詳細に述べられている(dwell upon)。以前,道徳や行為に影響を与えていたこの世の生活はあの世の生活の単なる準備にすぎないという信仰は,今日では,その信仰を意識的に拒否していない人々に対してさえ,余り影響(力)を与えなくなっている。
Chapter V Soul and Body, n.19
The decay of the belief in hell was not due to any new theological arguments, nor yet to the direct influence of science, but to the general diminution of ferocity which took place during the eighteenth and nineteenth centuries. It is part of the same movement which led, shortly before the French Revolution, to the abolition of judicial torture in many countries, and which, in the early nineteenth century, led to the reformation of the savage penal code by which England had been disgraced. In the present day, even among those who still believe in hell, the number of those who are condemned to suffer its torments is thought to be much smaller than was formerly held. Our fiercer passions, nowadays, take a political rather than a theological direction. It is a curious fact that, as the belief in hell has grown less definite, belief in heaven has also lost vividness. Although heaven is still a recognized part of Christian orthodoxy, much less is said about it in modern discussions than about evidences of Divine purpose in evolution. Arguments in favour of religion now dwell more upon its influence in promoting a good life here on earth than on its connection with the life hereafter. The belief that this life is merely a preparation for another, which formerly influenced morals and conduct, has now ceased to have much influence even on those who have not consciously rejected it.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
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ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.19
(さて)生理学や心理学に関する現代の学説が,不死に対する正統信仰にどのような関係を持つか(持っている)か問うこと(仕事)が残っている。 魂が肉体の死後生存するというのは,これまで見てきたように,キリスト教徒によっても非キリスト教徒によっても,また文明人によっても野蛮人(未開人)によっても,広く抱かれてきた考えである。キリストの時代(キリストが生きていた時代)のユダヤ人の中でも,ファリサイ派の人たち-(注: the Pharisees 古代イスラエルの第二神殿時代後期に存在したユダヤ教内グループで,現在ではユダヤ教正統派と呼ばれている。なお,パリサイ派と表記されることがある。)は(魂の)不死を信じたが,旧来の伝統を固執したサドカイ派(注: the Sadducees 第二神殿時代の後期に現れ、ユダヤ戦争に伴うエルサレム神殿の崩壊と共に姿を消したユダヤ教の一派)は信じなかった。キリスト教においては永遠の生命に対する信仰は,常にとても重要な(突出した)地位を保持してきた。ロマン・カトリックの信仰に従って,煉獄(purgatory れんごく:カトリックの教えによれば,煉獄は天国と地獄との間にある,死者の霊が天国にはいる前に通過しなければいけない場所で,ここで火によって浄化される。)における一定期間の(魂の)浄化の苦しみの後- 天国における至福を享受する者もいれば,地獄において無限の苦痛を受ける者もいる。今日では,自由主義的なキリスト教徒は,しばしば,地獄は永遠なものではないという見解に傾いている。この考えは,1864年に(英国)枢密院(the Privy Council)がそう考えることは非合法ではないと決定して以来,英国国教会の多くの牧師たちによって抱かれるようになった(支持されるようになった)。しかし,19世紀半まで,キリスト教信仰を公言する者(professing Christians)で,永遠の罪が実在することを疑う者はほとんどいなかった。地獄に対する恐怖は -その程度はより少なくなったが,いまだ今日でも- 最も深い不安の源(心配の種)であり,それは永遠の生命に対する信仰から導き出される心地よさを大いに減少させた。他人を地獄から救おうとする動機が,他人に対する迫害の正当化として、促された(注:ひどい迫害をしても,それはあなたを地獄行きから救うためということで,迫害の正当化のために使われた,ということ/因みに,荒地出版社刊の津田訳では「他人を地獄から救おうとする動機が,喜んで迫害を受けようとする心持ちを起こさせた」と誤訳している。「justification of persecution 迫害の正当化」の意味を取り違えたようであるが、津田訳では「自虐することの正当化」なんてことになってしまう )。なぜなら,もしある異端者が,他人を誤導することにより,彼らに天罰(damnation)を受けさせることができるとしたら,そのような恐ろしい結果を防止するため用いられるのならいかなる地上における拷問をもってしても過剰ではない(足りない)と考えられたからである(注:地獄にいかせないためにやる迫害は許される,というへ理屈)。というのも,今日ではどう考えられているにせよ,以前には(昔は),わずかな例外は別として,異端(キリスト教の正統派以外)は救済と両立しないと信ぜられていたからである。
Chapter 5: Soul and body, n.19
It remains to inquire what bearing modern doctrines as to physiology and psychology have upon the credibility of the orthodox belief in immortality. That the soul survives the death of the body is a doctrine which, as we have seen, has been widely held, by Christians and non-Christians, by civilized men and by barbarians. Among the Jews of the time of Christ, the Pharisees believed in immortality, but the Sadducees, who adhered to the older tradition, did not. In Christianity the belief in the life everlasting has always held a very prominent place. Some enjoy felicity in heaven – after a period of purifying suffering in purgatory, according to Roman Catholic belief. Others endure unending torments in hell. In modern times, liberal Christians often incline to the view that hell is not eternal ; this view has come to be held by many clergymen in the Church of England since the Privy Council, in 1864, decided that it is not illegal for them to do so. But until the middle of the nineteenth century very few professing Christians doubted the reality of eternal punishment. The fear of hell was – and to a lesser extent still is – a source of the deepest anxiety, which much diminished the comfort to be derived from belief in survival. The motive of saving others from hell was urged as a justification of persecution ; for if a heretic, by misleading others, could cause them to suffer damnation, no degree of earthly torture could be considered excessive if employed to prevent so terrible a result. For, whatever may now be thought, it was formerly believed, except by a small minority, that heresy was incompatible with salvation.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
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ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.18
最後に述べておくべきことは,魂と肉体との旧来の区別は,「心」がその霊性(霊的性格)を失ったと同様に「物質」もその旧来の堅固さまったく失ってしまったために,消失してしまったということである。物理学のデータは誰もが見ることができるという意味において公的なもの(人間共通のもの)である一方(whereas しかるに,これに反し),心理学のデータは(個々人の)内省(内観)によって得られるという意味で個人的(私的)なものであると今でも時々考えられており,また,従来広く考えられていた。けれども,この(両者の)差(相違)は程度の差(相違)にすぎない。二人の人間が同時に厳密に同じ対象を知覚することは出来ない。なぜなら,二人の視点の差(違い)が,彼らが見るもの対する差(差異,違い)を生じさせるからである。(従って/即ち/このように)物理学のデータも,厳密に検証すれば(吟味すれば),心理学のデータと同様の種類の個人的性質(privacy 私的性質)を持っている(のである)。そして,物理学のデータが持っている準周知性(quasi-publicity)は心理学においても必ずしも不可能ではない(注:個々の人間が採取する物理学のデータはどうしても一部個人的な性質が含まれてしまい、心理学のデータはかなり個人的な性質がある。しかし,心理学のデータも,物理学のデータ同様に,「準」周知性(人間共通の知識)をもたせることも不可能ではないだろう,といったニュアンスか?)。 これら二つの科学(物理学と心理学)の出発点を形作る(諸)事実は,少なくとも一部は,同一のものである。(たとえば)我々が見る色の付いた布片(patch of colour )は,物理学と心理学にとって,等しく,データである。物理学はある種の文脈のなかで一連の推論をすすめ,心理学は別の文脈のなかで一連の推論をすすめる。非常に雑な言い方であるが,物理学は脳の外部の因果関係を取扱い,心理学は脳の内部の因果関係を取扱う,と言ってもよいかも知れない。ただし,後者の場合,脳を調べる生理学者の外的観察によって発見されるものは除外する(必要がある)。物理学と心理学の両方に共通したデータは,ある意味で,脳内で起こる(生じる)出来事(events 事象)である。それらの出来事(事象)は,物理学によって探求される外的な原因の連鎖と,心理学によって探求される内的な結果 -記憶や習慣など- の連鎖を有している。しかし,物理学的世界(物的世界)と心理学的世界(心的世界)の構成要素の間に何らか根本的な相違(違い)が存在するという証拠はまったくない。我々は両者について,以前にそう思われていたほど,知識をもっていない。しかし,我々は「魂」も「肉体(身体)」も(両方とも,現代科学の中に存在する余地がないことは,かなり確実であることを充分知っている。(注:たとえば,物理学においては,人間であろうが,石ころであろうが,同じ原子の集合にすぎない。)
Chapter 5: Soul and body, n.18
Finally, it should be said that the old distinction between soul and body has evaporated quite as much because “matter” has lost its old solidity as because “mind” has lost its spirituality. It is sometimes still thought, and it used to be thought universally, that the data of physics are public, in the sense that they are visible to anyone, whereas those of psychology are private, being obtained by introspection. This difference, however, is only one of degree. No two people can perceive exactly the same object at the same time, because the difference in their point of view makes some difference to what they see. The data of physics,”when closely examined, are seen to have the same kind of privacy as those of psychology. And such quasi-publicity as they possess is not wholly impossible in psychology. The facts which form the starting-point of the two sciences are, at least in part, identical. The patch of colour that we seel is a datum for physics and psychology equally. Physics proceeds to one set of inferences in one sort of context, psychology to another set in another sort of context. One might say, though this would be putting it too crudely, that physics is concerned with causal relations outside the brain and psychology with causal relations inside the brain – excluding, in the latter case, those which are discovered by the external observation of the physiologist inspecting the brain. The data for both physics and psychology are events which, in some sense, happen in the brain. They have a chain of external causes, which are investigated by physics, and a chain of internal effects – memories, habits, etc. – which are investigated by psychology. But there is no evidence of any fundamental difference between the constituents of the physical and the psychological world. We know less of both than was formerly thought, but we know enough to be fairly sure that neither “soul” nor “body” can find a place in modern science.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
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ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.17
「意識」という概念のより重要な役割(part)は,我々が内省によって発見することと関係(関連)がある。我々(人間)は外界の対象(物)に反応するだけでなく,自分が反応するということを知っている。石は自らがいつ反応するかを知らないと我々は考えるが,もし(万一)石が反応するとしたら,石は(も)「意識」を持っている(ということになる)。ここでもまた,分析によって(論理的に突き詰めてゆけば),その相違(人間と石の反応の相違)は程度の差であることがわかるであろう。我々があるものを見ていることを知ることは,それが記憶でないなら(記憶されたものでないなら),見ることを越えて(over and above the seeing 見ること以上の),新しい(一片の)知識には実際にはならない。もし我々があるものを見て,その直後に我々はそれを見ていると思案(reflect 熟考,内省)するなら,内観的(introspective 内省的)に見えるその思案(するもの)(reflection)は直接的記憶(即時記憶)である。記憶は,明らかに「心的(精神的)」なものだと言われるかも知れないが,それも否定されるかも知れない(注:unwound : unwind の 過去分詞形)。(即ち)記憶は習慣の一形態であり -習慣は,例えば,巻紙(ロールペイパー)が解かれた時に再び丸まるように(注:記憶合金を思い出すとよい),他の場所で起こる可能性があるが- 習慣は神経組織の一つの特徴である。私は,上述したことが,我々が漠然と「意識」と呼んでいることの完全な分析だと言うつもりはない。(また)この問題は大きな問題であり,(説明には)一冊の書物を必要とするだろう。私はただ,一見して精確な概念に思われるものも,実際は全くその逆であり,科学的心理学者にとっては別の用語(terminology 専門用語)が必要である,ということを示唆したかっただけである。
Chapter 5: Soul and body, n.17
The more important part of the notion of “consciousness” is concerned with what we discover by introspection. We not only react to external objects, but we know that we react. The stone, we think, does not know when it reacts, but if it does it has “consciousness.” Here also, on analysis, the difference will be found to be one of degree. To know that we see something is not really a new piece of knowledge, over and above the seeing, unless it is a memory. If we first see something, and then, immediately afterwards, reflect that we saw it, the reflection, which seems introspective, is an immediate memory. Memory, it may be said, is something distinctively “mental,” but this again may be denied. Memory is a form of habit, and habit is characteristic of nervous tissue, though it may occur elsewhere, for example in a roll of paper which rolls itself up again if it is unwound. I do not suggest that the above is a complete analysis of what we vaguely call “consciousness” ; the question is a large one, and would require a volume. I mean only to suggest that what at first sight seems a precise concept is really quite the opposite and that a different terminology is required by scientific psychologists.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
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ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.16
「意識」の問題は,ことによると,もっと難しい問題かも知れない。我々(人間)は「意識を持っている」が棒切れや石は意識を持っていない,と言う。我々は目が覚めている時には「意識を持っている」が,眠っている時には意識を持っていないと言う。我々がこのように言う時,何かを意味していることは確かであり,また,何か真実であることを意味している。しかし,真実であることは何かについて,いくらかでも正確にその内容を述べることは困難であり,また,そのためには説明の仕方を変える必要がある。 我々が「意識を持っている」という時には,二つのことを意味している。即ち,一方ではある一定のやり方で(我々は我々の)環境に反応するということを意味し,他方では内省によって(on looking within)我々の思考や感情の中に,無生物の中には見出されないある種の質(性質)を発見するように思われるということを意味している。 (我々をとりまく)環境に対する我々の反応について言えば,それは何か「について(関して)」(現在)意識していることにある(で成り立っている)。もしあなたが「へい(おい)」と叫ぶなら,人間は周囲を見回すが,石はそうしない。そのような場合に,あなたが周囲を見回す時,それはあなたが音が聞こえたからだということをあなたは知っている(理解している)。人が外界にある事物を「知覚する」ことを想定できた限り(において),人は知覚においてそれらを「意識した」という事ができる。現在,我々が(確実に)言うことができるのは,我々(人間)は刺激に反応するし -石が反応する刺戟はより少ないが- 石もまた反応する,ということだけである(注:ここでは,刺激にもいろいろな種類があり,石に話しかけるという刺激をしても石は反応しない,ということを言っている。つまり「fewer」というのは量的な問題というよりもどちらかというと「質的」な問題である,ということなので訳し方に要注意)。従って,外的「知覚」に関する限り,我々(人間)と石との相違は程度の差にすぎない。(注:人間からみれば「質的な」問題に見えるが,人間よりずっと高度な生命体から見れば(人間とは異なる)「質的な問題」かもしれない、と言えそう)。
Chapter 5: Soul and body, n.16
The question of “consciousness” is perhaps rather more difficult. We say that we are “conscious,” but that sticks and stones are not ; we say that we are “conscious” when awake but not when asleep. We certainly mean something when we say this, and we mean something that is true. But to express with any accuracy what it is that is true is a difficult matter, and requires a change of language. When we say we are “conscious,” we mean two things ; on the one hand, that we react in a certain way to our environment ; on the other, that we seem to find, on looking within, some quality in our thoughts and feelings which we do not find in inanimate objects. As regards our reaction to the environment, this consists in being conscious “of” something. If you shout “Hi,” people look round, but stones do not. You know that when you yourself look round in such a case, it is because you have heard a noise. So long as it could be supposed that one “perceives” things in the outer world, one could say that, in perception, one was “conscious” of them. Now we can only say that we react to stimuli, and so do stones, though the stimuli to which they react are fewer. So far, therefore, as external “perception” is concerned, the difference between us and a stone is only one of degree.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-160.HTM
ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.15
その対象(物)が主な原因であるような何かが我々(の身体/感覚器官)に起こり、そうして,その対象に対して我々が推論することを許すような性質を持っているような何かが我々(の身体/感覚器官)に対して起こる時,おおざっぱな意味で(in a loose sense),我々はその対象を「知覚」すると言うことが出来る。ある人物が話しているのを聞く時,我々の聞くことの内にある相違(点)はその人物の話していることの内にある相通(点)に対応している。(対象とその人物との間に)介在する媒体の影響はおおざっぱに言って定常的であり,従ってほとんど(more or less)無視してもよいだろう(注:Those chairs are more or less the same. それらの椅子はほぼ同じ)。同様に,我々が赤い斑点と青い斑点が隣り合っているのを見る時,その赤い光と青い光がやってくるそれぞれの場所(注:2つの光の発生源)の間にある相違は -両者の相違は赤の感覚と青の感覚との間にある相違と類似していると想定することはできないけれども- 赤い光がくる場所と青い光がくる場所との間に何らかの相違があることを想定する権利を持っている。このように,我々は「知覚」概念を救う試みをしてもよいかも知れないが,その試みに正確さを与えることに決して成功しないだろう。両者の間にある媒体は常にある種の歪みを生じさせる影響力を有している。(即ち)赤い場所は中間にある霧(やもや)のために赤く見えているのかも知れないし,また(あるいは)青い場所は我々が色眼鏡(サングラス)をつけているため青く見えるのかも知れない(注:荒地出版社刊の津田訳では「coloured glasses」を「色ガラス」と訳出。やれやれ)。我々が通常「知覚」と呼んでいる種類の経験から(当該)対象に関して推論をするためには,我々は物理学や感覚器官の生理学について知らなければならず,また我々と対象との間の空間に何があるかについても徹底的に(網羅的に)知らなければならない。このような知識(情報)が全て与えられ,また,外界(外的世界)の実在が仮定(想定)されるなら,「知覚される」対象についてある種の高度に抽象的な知識(情報)を引き出すことが出来る。しかし,「知覚」という言葉の中に含まれているあらゆる直接性(immediacy)や温かさは,難しい数学的公式による推論過程のなかで消滅してしまっているであろう。太陽のように遠く隔った(ところにある)対象の場合には,このことを理解するのは困難ではない。しかし,我々が触れ,匂いを嗅ぎ,味わうもの(注:身近なもの)に関しても,同様に真理である。なぜなら,そのようなものの「知覚」も,神経を通って脳に達する複雑な(elaborate 入り組んだ)過程によるものだからである。
Chapter 5: Soul and body, n.15
We can say, in a loose sense, that we “perceive” an object when something happens to us of which that object is the main cause, and which is of such a nature as to allow us to make inferences as to the object. When we hear a person speaking, the differences in what we hear correspond to differences in what he says ; the effect of the intervening medium is roughly constant, and may therefore be more or less ignored. Similarly, when we see a patch of red and a patch of blue side by side, we have a right to assume some difference between the places from which the red and blue light come, though this difference cannot be supposed to resemble the difference between the sensation of red and the sensation of blue. In this way we may attempt to save the concept of “perception,” but we shall never succeed in giving it accuracy. The intervening medium always has some distorting effect : the red place may look red because of intervening mist, or the blue place blue because we are wearing coloured glasses. To make inferences as to the object from the sort of experience which we naturally call a “perception,” we must know physics and the physiology of the sense-organs, and we must have exhaustive information about what is in the intervening space between us and the object. Given all this information, and assuming the reality of the external world, we can derive some highly abstract information as to the object “perceived.” But all the warmth and immediacy that are implicit in the word “perception” will have vanished in this process of inference by means of difficult mathematical formula. In the case of distant objects, like the sun, this is not difficult to see. But it is equally true of what we touch and smell and. taste, since our “perception” of such things is due to elaborate processes which travel along the nerves to the brain.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
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ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.14
心理学及び物理学は,より科学的になるにつれ,両者の伝統的概念はますます精度の高い新しい概念に道を譲るようになる(とって代わられることになる)。物理学はごく最近まで,物質と運動で満足していた。そして,物質は -(今日まで)哲学的契機(本質的構成要素)において(in philosophical moments)そのように考えられてきたけれども- 専門的には(technically),中世的な意味での実体であった。物質と運動は,今日では,専門的にも適切でないことがわかっており,理論物理学者のやり方(procedure)が科学哲学の要求と大いに一致するようになってきている(注:come into line with と一列に並ぶ;考え方などが~と一致する)。同様に,心理学も「知覚」や「意識」といった概念を放棄する必要性を認めつつある。なぜなら,これらの概念は正確さに欠けることが見出されたからである。このことを明らかにするため,それぞれの概念について少しく述べておく必要があろう。 「知覚」は,一見,まったく直截(straightforward 単刀直入で明快)(な言葉/表現)に思われる(注:津田訳では「完全な表現」←なにが完全なのか?)。我々は太陽や月を(目で=視覚で)「知覚」し,語られる言葉を(耳で=聴覚で)「知覚」し,我々が触れる物の硬さや柔らかさを(手で=触覚で)「知覚」し,腐った卵の臭いや辛子の味を(舌で=臭覚で)「知覚」する。我々がこのように記述する出来事(事象)についてはまったく疑問の余地はない。疑わしいのはその記述(の方)のみである。我々が太陽を「知覚」する時,(その知覚が生じるまでに)長い因果の過程が存在する。まず,太陽と(知覚する)人間との間にある9300マイルの空間のなかに因果関係があり,次に(刺激を受ける)眼の中に,視神経の中に,そうして,脳のなかに因果関係が存在している。我々が太陽を見ているという最後の心的出来事(精神現象)は,太陽それ自体と多くの類似性があるとは思えない(注:bear much resemblance to 多くの類似性を有する)。太陽は,カントの物自体と同様に,我々の(直接的な)経験の外側にあり続けており,たとえ(なんらかのことが)知られうるにしろ(if at all),それは我々が「太陽を見ている」と呼んでいる経験からの困難な類推によってである。我々は太陽が我々の経験外に存在していると想定する。なぜなら,多くの人々が同時に太陽を見るからであり(注:自分の経験の中にしかなければ同時に他の人が太陽を見ることはない)であり,また,あらゆる種類のものごとが,月の光のように(注:月の満ち欠け,月蝕,その他)、観察者(人間など)のいないいろいろなところで太陽が影響を与えていると想定することにより,最も容易に説明される(説明できる)からである。しかし,我々が感覚作用の精密な物理的な因果関係を理解する以前に理解していると思っていたほど,我々は,直接的かつ単純な意味で,太陽を「知覚」してはいないのは確かなことである。
Chapter V Soul and Body, n.14
As psychology and physics become more scientific, the traditional concepts of both give way increasingly to new concepts capable of greater accuracy. Physics, until very recently, was content with matter and motion ; and matter, however it may have been thought of in philosophical moments, was, technically, substance in the mediaeval sense. Matter and motion have now been found inadequate even technically, and the procedure of theoretical physicists has come much more into line with the demands of scientific philosophy. Psychology, in like manner, is finding it necessary to give up such concepts as “perception” and “consciousness,” because it is found that they are incapable of precision. To make this plain, a few words about each will be necessary. “Perception” seems, at first sight, perfectly straightforward. We “perceive” the sun and moon, the words we hear spoken, the hardness or softness of the things we touch, the smell of a rotten egg, or the taste of mustard. There is no doubt about the occurrences of which we give this description ; it is only the description that is questionable. When we “perceive” the sun, there has been a long causal process, first in the ninety-three million miles of intervening space, then in the eye, the optic nerve, and the brain. The final “mental” event which we call seeing the sun cannot be supposed to bear much resemblance to the sun itself. The sun, like Kant’s thing-in-itself, remains outside our experience, and only to be known if at all, by a difficult inference from the experience which we call “seeing the sun.” We suppose that the sun has an existence outside our experience because many people see it at once, and because all sorts of things, such as the light of the moon, are most simply explained by assuming that the sun has effects in places where there are no observers. But we certainly do not “perceive” the sun in the direct and simple sense in which we seem to do so before we have realized the elaborate physical causation of sensations.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-140.HTM
ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.13
心理学と(人間の)意志に関する理論に戻ろう。多分、大部分の,我々(人間)の意志には原因があることは,常に明らかである。しかし,正統派の哲学者たちは,これらの原因は物理的世界(物的世界)における(諸)原因とは異なり,必ずしも結果を伴うものではない,と主張した(necessitate their effects 結果を必要とする,結果を伴う)。最大限強い欲求にも純粋な(混じりけのない)意志行為(注:機械的な行為ではなく意志が介在する行為)によって抵抗することが常に可能であると,彼らは主張した(注:sheer 混ぜ物のない;全くの/荒地出版社刊の津田訳では「a sheer act of will」を「意志の全力でもって」と訳出している。/ここでは全力かそうでないかは関係ないことに気づくべきであろう)。こうして,我々(人間)の行為が強い感情(激情)によって導かれる時には原因があるゆえに(我々は)自由ではないが,時に「理性」と呼ばれ,時に「良心」と呼ばれる能力(function 機能・働き)が存在し,その導きに従う時,理性や良心は我々に本物の自由を与える、と考えられるようになった。(また)こうして,単なる気まぐれ(caprice)と対立する「真の」自由は,道徳律への服従と同一視された。ヘーゲル学派(ヘーゲル主義者たち)はさらに一歩を進め,道徳律を国家の法律と同一視し,そうして「真の」自由は警察に従うことにあった(注意:つまり国家権力に従うこと)。この説は政府によって大いに好まれた(のであった)。 けれども,(人間の)意志には時に(時々)原因がないという説(理論)を維持することはとても困難であった。最も有徳な行為さえ,動機が(まったく)ないとは言えない。(たとえば)人は,神を喜ばしたいとか,隣人あるいは自分自身の是認を得たいとか,他人(誰か)が幸せであるのを見たいとか,苦痛を軽減したいとか(いった動機である)。これらの欲求の中の一つ(どれか)は善い行ないを起こさせる可能性があるが,もし人にある種の善い欲求が存在していないなら,その人は道徳律が是認するようなことをしないだろう。我々(人間)は今日,欲求の(いろいろな)原因について,以前我々が知っていたよりずっと多くのことを知っている。(その欲求の原因として)時には内分秘腺(ductless glands)の働きの中にその原因が発見され,時には初等教育に,時には忘れていた(過去の)経験に,ときには是認されたいという欲求の中に,その他(の中に)(欲求の)動機が発見される。ほとんどの場合,多くの異なった起源のものが(個々の)欲求の因果関係(the causation of a desire)の中に入ってくる(enter into ~の一部となる)。そうして,我々(人間)が決意する時(何かを自分で決める時) -我々を(その欲求の)反対の方向に押しやろうとする別の欲求が同時に存在しているかも知れないが- 何らかの欲求の結果として決意をしていることは明らかである。そのような場合,トマス・ホッブスが言っているように,意志は熟慮における「最後の(貪欲な)欲求」(the last appetite in deliberation)である。このようにして,全く原因のない意志行為を防御することはできない。このことが倫理学においてどのような結果をもたらすかについては,後の章で取り扱うことにしよう。
Chapter 5: Soul and body, n.13
To return to psychology and the theory of will ; it was always obvious that many, perhaps most, of our volitions have causes ; but orthodox philosophers maintained that these causes, unlike those in the physical world, do not necessitate their effects. It is always possible, so they maintained, to resist even the most powerful desires by a sheer act of will. Thus it came to be thought that when we are guided by passion our acts are not free, since they have causes, but that there is a faculty, sometimes called “reason” and sometimes “conscience,” which, when we follow its guidance, gives us real freedom. Thus “true” freedom, as opposed to mere caprice, was identified with obedience to the moral law. The Hegelians took a further step, and identified the moral law with the law of the State, so that “true” freedom consisted in obeying the police. This doctrine was much liked by governments. The theory that the will is sometimes uncaused was, however, very difficult to maintain. It cannot be said that even the most virtuous acts are unmotived. A man may wish to please God, to win his neighbours’ approval or his own, to see others happy or to alleviate pain. Any one of these desires may cause a good action, but unless some good desire exists in a man he will not do the things of which the moral law approves. We know much more than we knew formerly as to the causes of desires. Sometimes they are to be found in the working of the ductless glands, sometimes in early education, sometimes in forgotten experiences, sometimes in the desire for approval, and so on. In most cases, a number of different sources enter into the causation of a desire. And it is clear that, when we make a decision, we do so as a result of some desire, though there may at the same time be other desires pulling us in a contrary direction. In such cases, as Hobbes said, will is “the last appetite” in deliberation. The idea of a wholly uncaused act of volition is thus not defensible. With the results of this in ethics we shall be concerned in a later chapter.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-130.HTM
ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.12
この説(心身並行説)は信じ難い上に,自由意志を救えないという欠点がある。心身並行説では,身体の状態と心の状態との間には厳密な対応があると想定されており(There wa supposed to be),従って,どちらか一方(の状態)を知ることができれば他方(の状態)も理論的に(は)推論可能だと考えられた(のである)。この対応説を知っており,かつ,物理学の法則も知っている者は,充分な知識とスキルさえあれば,物理的な出来事(事象)と同様に心的出来事(事象)(の生起を)を予言可能になる。いずにせよ(in any case)心的な意志作用は,もしそれに身体的な表現(manifestations 現れ)が伴わなければ無用なものとなる。あなたは「今日は(こんにちは/お元気ですか」と言おうとする時,それは身体的行為(物理的な行為)であるので,物理学の法則が支配した(determined 決定した)。そうして,もしあなたが反対の(意味の)ことを言うことが事前に決定していたとするなら(=こんにちは、という事が物理的/身体的に事前に確定していたとするなら),「さようなら」 と言おうと「意志する」こともできたと信ずることはほとんど慰めにならないであろう(注:精神は物質に影響をまったく与えないというなら,「さようなら」と言いたくても言えない、ということ)。 従って,18世紀のフランスにおいて,このデカルト説(心身並行説)が,人間を完全に物理学の法則によって支配されるものとして扱う純粋な唯物論に席を譲ったことは驚くべきことではない(注:give place to 席を譲る,~にとって代わられる)。この哲学(唯物論哲学)においては,(人間の)意志はもはやいる場所はなく,罪の概念は消失する。魂(精神)といったものはまったく存在せず,従って,人体の中で一時的に結合するバラバラの個々の原子の不滅(不死)以外には不滅(不死)なものは存在しない。唯物論哲学は -フランス革命を過激なものにする一つの要因になり- (フランス革命中)恐怖の的となり,恐怖政治の時代(注:フランス革命時にロベスピエールを中心とするジャコバン派が行った統治のこと)以後は,当初はフランスと戦っている全ての人々にとって,(また)1814年以後はフランス政府を支持した全ての人々にとって,恐怖の対象となった((注:ナポレオン戦争中の1814年5月30日に,フランス帝国と第六次対仏大同盟の間の戦争を終わらせたパリ条約が締結された。) 英国は正統信仰にあと戻りし,ドイツはカントの後継者たちの理想主義哲学(idealistic philosophy)を採用した(idealistic philosophy 理想主義。idealism は理想主義と訳されたり,観念論と訳されたりするが,ここでは理想主義が適切と思われる)。次に,ロマン主義(浪漫主義)運動が起こり,感情を好み,人間の行為を数学の公式によってコントロールすることに耳を傾けようとはしなかった。 その間,人体生理学において,唯物論を嫌った人たちは,神秘主義あるいは「生命力」(vital force)の中に逃避した(注:たとえば,「生命に非生物にはない特別な力を認める」生気論(italism)など)。科学は決して(生きた)人体を理解できないと考える者もいれば,化学や物理学の原理以外の原理に頼る(訴える)ことによってのみ科学は人体を理解することができると宣言する者もいた。後者には現在いまだ少数の支持者がいるが,両方の見解のどちらも,今日では生物学者の間にあまり人気がない。胎生学,生化学,有機化合物の人工生産等においてなしとげられてきた成果により,生命体の特質が化学や物理学の言葉(用語)によって完全に説明可能となることがますます有り得そうになってきている。もちろん,進化論は動物の体に適用される原理は人間の身体には適用され得ないと想定することを不可能にしてきた(してきている)。
Chapter 5: Soul and body, n.12
This theory, besides being difficult to believe, had the disadvantage that it could not save free will. There was supposed to be a strict correspondence between states of body and states of mind, so that, when either was known, the other could theoretically be inferred. The man who knew the laws of this correspondence, and also the laws of physics, could, if he had enough knowledge and skill, predict mental occurrences as well as physical ones. In any case, the mental volitions were useless if no physical manifestations followed. The laws of physics determined when you would say “how do you do,” since this is a physical action ; and it would be small consolation to believe that you could will to say “goodbye” if it was foreordained that you should in fact say the opposite. It is not surprising, therefore, that the Cartesian doctrine gave place, in eighteenth-century France, to pure materialism, in which man is treated as wholly governed by the laws of physics. Will no longer has any place in this philosophy, and the concept of sin disappears. There is no soul, and therefore there is no immortality except that of the separate atoms which are temporarily joined together in the human body. This philosophy, which was supposed to have contributed to the excesses of the French Revolution, became an object of horror, after the Reign of Terror, first to all who were at war with France, and then, after 1814, to all Frenchmen who supported the government. England relapsed into orthodoxy, Germany adopted the idealistic philosophy of Kant’s successors. Then came the romantic movement, which liked emotions and would not hear of the control of human actions by mathematical formulae. In human physiology, meanwhile, those who disliked materialism took refuge either in mystery or in the “vital force” : some thought that science could never understand the human body, others declared that it could only do so by invoking principles other than those of chemistry and physics. Neither of these views has now much popularity among biologists, though the latter still has a few supporters. The work which has been done in embryology, in bio-chemistry, and in the artificial production of organic compounds, makes it more and more probable that the characteristics of living matter are wholly explicable in terms of chemistry and physics. The theory of evolution has, of course, made it impossible to suppose that principles applicable to animal bodies are not applicable to those of human beings. 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-120.HTM
ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.11
最初の困難は力学の諸法則の発見によって生じた。17世紀の間に,実験や観察が真理であることを示すように思われた(力学の)諸法則は全ての物質の運動を完璧に示しているように思われるということが明らかになった。動物や人間の肉体のために例外を設ける理由はまったく存在しないように思われた。デカルトは「動物」は自動機械(automata オートマタ=オートマトン)であるという推論結果(推断)を引き出したが,なおも「人間」については意志は身体運動を引き起こすことができると考えた。(しかし)物理学の進歩はすぐに彼の折衷案(compromise 妥協案)は不可能であることを示し(物理学の進歩によって示され),また,彼の後継者たちは,心(精神)は物(物質)に何らかの影響を与えることができるという見解を放棄した。彼らは,逆に,物質もまた心(精神)にまったく影響を与えることはできないとを主張することによって天秤(scales てんびん)(の釣り合い)を維持しようとした(注:荒地出版社刊の津田訳では「物質もまた心に影響を与ええないことを主張することにより公平な裁きをしようとした」と訳出されており,ニュアンスが異なってしまっている)。このことは,彼らを,精神と物質はいずれもそれぞれの法則に従い,お互いに影響しあわないという心身並行説(の主張)へと導いた。(たとえば)あなたがある人に会い,「今日はお元気ですか?」と言おうと決意すると,あなたのその決意は精神の系列に属する。しかし,その決意から生じると人間には思われる唇や舌の動きは,本当は(実際は)純粋に力学的な原因(要因)を持っている。彼ら(デカルトの後継者たち)は,心(精神)と肉体(身体)とを,両者とも完全な時間を刻む,2つの時計と対照させた(compared ~ to)。(即ち)一方の時計がある(特定の)時刻に達すると,一方は他方にまったく影響を与えないけれども、両方の時計は(同時に)時を告げる(同時に鳴る)。もしあなたがどちらか一方の時計を見ることができるが他の時計はその時計の音でだけ知ることができるとすれば,あなたは見ることが出来る時計がその(時刻を告げる)音の原因だと思うだろう(注:つまり,心と物は独立しており,両者はお互いを知ることはできないということ)。
Chapter V Soul and Body, n.11
The first difficulty arose through the discovery of the laws of mechanics. During the seventeenth century it became apparent that the laws which experiment and observation seemed to show to be true were such as to determine completely all the motions of matter. No reason appeared for making an exception in favour of the bodies of animals or men. Descartes drew the inference that animals are automata, but still thought that in men the will could cause bodily movements. The progress of physics quickly showed his compromise to be impossible, and his followers abandoned the view that mind could have any effect on matter. They tried to hold the scales even by maintaining that, conversely, matter could have no effect on mind. This led them to the theory of two parallel series, mental and physical, each with its own laws. When you meet a man and decide to say “how do you do,” your decision belongs to the mental series ; but the movements of lips and tongue and larynx which seem to result from it really have purely mechanical causes. They compared mind and body to two clocks which both keep perfect time : when one reaches the hour, both strike, though the one has no influence on the other. If you could see one of the clocks, but only knew the other through its strike, you would think that the one you could see caused the strike.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-110.HTM