russellian-j のすべての投稿

「結果が全てだ」としてプロセスを軽視する人々 ー政治家とスポーツマン

result-and-process (生産)過程に喜びがあるところにはスタイルがあり,生産活動は,それ自体,美的特質を持つに至るだろう。しかし,人間が機械に同化し,仕事自体ではなく仕事の結果のみを価値あるものとするならば,スタイルは消え,機械に同化した人間には(同化していない人間)よりも自然に思えるが,実際はただより野蛮なものがそれに取って代わる。

Where there is delight in a process, there will be style, and the activity of production will itself have aesthetic quality. But when men assimilate themselves to machines and value only the consequences of their work, not the work itself, style disappears, to be replaced by something which to the mechanised man appears more natural, though in fact it is only more brutal.
In praise of artificiality, Sept. 9, 1931. In: Mortals and Others, v.1 (1975)
https://russell-j.com/ARTIFICI.HTM

<寸言>
tpp-hantai_jiminto スポーツや政治の世界では,「結果が全てだ」とよく言う人がいます。もちろん,結果は大事です。しかし,それを自分に言い聞かせるだけであれば実害はそれほど大きくないかもしれないですが、家族や第三者など、周囲に強制するならとても大きな害悪を待ちちらします。

通常,「手段」という言葉は,「ある目的を実現するためのもの」という意味合いで使われています。これに対し,プラグマティストのJ.デューイは,個々の目的「より高次の」目的のための「手段」にすぎないとします。
最高次の目的を「人類の幸福」におくことに対しても異論を唱える人はいると思われますが,このエッセイの中でラッセルは,(常識的な意味合いで)人類の幸福を最重要なものとし,(科学技術や機械等の利用において)手段と目的をとりちがえないよう,警鐘をならしています。80年前に書かれたものですが,傾聴に値すると思われます。

「人類の罪の少なくとも半分は退屈を恐れることに起因している」

gca_jolly 戦争,虐殺,迫害は,すべて退屈からの逃避の一部(逃避から生まれたもの)であり,隣人とのけんかさえ,何もないよりはましだと感じられてきた。それゆえ,人類の罪の少なくとも半分は退屈を恐れることに起因していることから,モラリスト(道徳家)にとってきわめて重要な問題である。

Wars, pogroms, and persecutions have all been part of the flight from boredom; even quarrels with neighbours have been found better than nothing. Boredom is therefore a vital problem for the moralist, since at least half the sins of mankind are caused by the fear of it.
出典:The Conquest of Happiness, 1930, chap. 4: boredom and excitement.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/HA14-030.HTM

<寸言>
自分や自分の家族や自分の親しい人に関係にないことであれば、他人や他国のことはどのようなひどいことでも,いやショッキングなことであればあるほど,興味・感心を持って,あるいは面白がって,眺める人間性の闇
マスコミ関係者においては,大事件は起こらないよりも起こったほうがよいと内心思っている人が少なくない政治家どのような国難が起こっても、自分がスポットライトをあびることができるのであれば生き生きとしてくる
bonbon_sekensirazu ラッセルが言うように,「戦争,虐殺,迫害は,すべて退屈からの逃避の一部」というのが真実なのであろう。そうでなければ,日本で言えば信長や秀吉のように残忍な行為(信長による比叡山焼き討ち;秀吉による豊臣秀次一族39人及び関係者全員の公開処刑) をした人物が一番人気になるようなことはないであろう。また,そうでなければ,600万もの人間を強制収容所で惨殺したヒトラーを持ち出してヒトラーのやり方を学べばよい」などと、たとえ冗談であっても、言う気にはなれないであろう。

みな虚栄心の塊(歴史に名を残したい!)-トランプ、プーチン,安倍総理

mad-magazine_world-leaders 虚栄心は非常に大きな力を有している動機(原動力)である。子供と多くの関わりを持っている人であれば,彼らは常に何かふざけたことをやっては,「ほら,見て!」と言うのを見知っている。「ほら,見て!」(見て欲しい)というのは人間の心の最も基本的な欲求の一つである。それは,ふざけた行為から死後の名声の追求まで,数限りない形態をとりうる。ルネサンス期イタリアに一人の小公子(小君子)がいて,死の床で聖職者から何か懺悔しなければならないことはないか(あるか)と尋ねられた。彼は,次のように応えた。「はい,一つあります。私は,ある折に,皇帝と教皇との訪問を同時に受けました。私の邸宅内の塔のてっぺんからの眺めを見せるためにお二人を塔のてっぺんに案内しましたが,二人とも同時に投げ落として不滅の名声を自分に与える(不滅の名声を得る)機会を見逃して(怠って)しまいました。」 歴史(書)は,その聖職者がその小公子に赦免を与えたかどうかは物語っていない。虚栄心の厄介なことの一つは,虚栄心がエサとするもの(を食べる)とともに虚栄心も成長して大きくなるということである。

Vanity is a motive of immense potency. Anyone who has much to do with children knows how they are constantly performing some antic, and saying “Look at me”. “Look at me” is one of the most fundamental desires of the human heart. It can take innumerable forms, from buffoonery to the pursuit of posthumous fame. There was a Renaissance Italian princeling who was asked by the priest on his deathbed if he had anything to repent of. “Yes”, he said, “there is one thing. On one occasion I had a visit from the Emperor and the Pope simultaneously. I took them to the top of my tower to see the view, and I neglected the opportunity to throw them both down, which would have given me immortal fame”. History does not relate whether the priest gave him absolution. One of the troubles about vanity is that it grows with what it feeds on.
From: Human Society in Ethics and Politics, 1954,pt.2,chap.2: Politically Important Desires (Nobel Prize Acceptance Speech)
https://russell-j.com/cool/47T-020201.HTM

<寸言>
kesho-gijyutu-daisinka_world-leaders 4K液晶ディスプレイの精細技術はすさまじく(いずれ8K),大分部の美人女優を駆逐するのではないかと恐れられていましたが、ITの進歩とともに、化粧技術も大進歩しました。富士フィルムまでが化粧品を出す時代です。
「◯◯さんは年のわりに綺麗で若くみえますね」とよく耳にしますが,化粧を落として素顔を見るまでは信用できません。ほんの少しで万単位もする化粧品がいろいろあります。
abe-poster_atugesho 政治家もまけていません。世界の要人(プーチン、トランプ、安倍総理、その他おおぜい)も皆、化粧で誤魔化しています。時々安倍総理の写真で、あまりにも違うものを見受けますが、ひどく写っているのが真の姿だと思ってまず間違いないでしょう。化粧をやりなおしている時間がなくて、化粧が落ちたりした時に撮影されるとこのようなことになってしまいます。
素肌が綺麗で化粧をしなくてもよい人はうらやましいですね。

「非存在」(存在しない)と「存在」,あるいは、主語と存在(実在)

私(バンブロウスキー)おべっか使いの形而上学者達と議論を始めました。

proof_of_the_devil_takaichi 「あなたがたの言っていることは馬鹿げている’」と私(バンブロウスキー)はいさめました。「あなたがたは無の存在こそが唯一の実在だと言う,あなたがたが崇拝している,このブラック・ホール(black hole 宇宙論に言うブラックホールではないことに注意)は存在しているとあなたがたは偽って言う。あなたがたは,非存在(存在しないもの)が存在するということを私に説得しようとしている。だがこれは矛盾だ。それに’地獄の炎’がどんなに熱くなろうとも,私は矛盾を容認するほど,論理学上の存在を堕落させるようなことは決してしません。」
ここでおべっか使いの代表が議論にわってはいってきました。「あなた(バンブロウスキー)はせっかち過ぎる」,と彼は言いました。「あなたは非存在が存在することを否定するのですか?’ だが,あなたが存在を否定しようとするものは何ですか。もし非存在が無であるとするならば,それについての如何なる陳述も無意味となります。従って,非存在が存在しないというあなたの陳述も無意味ということです。あなた(バンブロウスキー)は文章の論理的分析に余りにも少ししか注意を払わなかったのではないかと思います。この事は,あなたが子供の時に教えられているべきことでした。あなたは全ての文には主語があり,もし主語が無だとしたら,文は無意味となることは,ご存じではありませんか。そういうわけで,あなたが高潔なる熱情をもって悪魔-非存在なるもの-が存在しないと宣言するなら,明らかに矛盾したことを言っています(自己矛盾していることになります)」。
私(バンブロウスキー)は答えた。「あなたは,疑いもなく,地獄に来てからしばらく経っていて,やや古風な学説を受け入れ続けています。あなたは文章には主語があるなどむだ口をたたいていますが,そういった話は時代遅れです。私が非存在である悪魔は存在しないという時,私は,悪魔や非存在そのものについて言っているのではなく,ただ「悪魔(サタン)」という語,「非存在」という語に言及します。あなたの誤謬は,私に偉大なる真実を明らかにしてくれました。その偉大なる真実とは,「~でない(否)」という語は必要ないということです。今後私は「~でない(否)」という語は使わないことにします。’

I began to argue with the metaphysical sycophants:
‘What you say is absurd,’ I expostulated. ‘You proclaim that non-existence is the only reality. You pretend that this black hole which you worship exists. You are trying to persuade me that the non-existent exists. But this is a contradiction: and, however hot the flames of Hell may become, I will never so degrade my logical being as to accept a contradiction.’
At this point the President of the sycophants took up the argument: ‘You go too fast, my friend,’ he said. ‘You deny that the non-existent exists? But what is this to which you deny existence? If the non-existent is nothing, any statement about it is nonsense. And so is your statement that it does not exist. I am afraid you have paid too little attention to the logical analysis of sentences, which ought to have been taught you when you were a boy. Do you not know that every sentence has a subject, and that, if the subject were nothing, the sentence would be nonsense? So, when you proclaim, with virtuous heat, that Satan – Who is the non-existent- does not exist, you are plainly contradicting yourself.’
‘You,’ I replied, ‘have no doubt been here for some time and continue to embrace somewhat antiquated doctrines. You prate of sentences having subjects, but all that sort of talk is out of date. When I say that Satan, Who is the non-existent, does not exist, I mention neither Satan nor the non-existent, but only the word ‘Satan’ and the word ‘non-existent.’ Your fallacies have revealed to me a great truth. The great truth is that the word ‘not’ is superfluous. Henceforth I will not use the word ‘not.”
出典: Nightmares of Eminent Persons and Other Stories,
illustrated by Charles W. Stewart.
詳細情報:https://russell-j.com/cool/NIGHT-M4.HTM

[寸言]
abe_under-control これは,安倍総理が俄仕込みで(誰かに教えてもらったばかりのものを)得意がって国会で説明した「悪魔の証明(非存在の証明の不可能性」に関係したもの。また,言語分析こそが(だけが)哲学の役割だと主張する日常言語学派(オックスフォード学派)に対する批判でもある。
何かが存在するかどうかは、存在するものを一つ発見すればその存在を証明できる。しかし、何かが存在しないということの証明は不可能、。なぜなら、存在しないと言われていても、地球上のどこかに存在するかも知れず、またこの地球上に存在しないとしても、この広大な宇宙のどこかに存在しているかも知れず、存在しないとは「証明不可能」。
「知性無き」、といって悪ければ、「知性の乏しい」総理が、多くの人が知らないことを自分が知っていると得意がって言いたくなるという、幼児性を発揮した事例であった。

「正気」とは,様々な「狂気」のバランスが保たれた状態?

tp-noep いかなる隔離された情熱も,隔離された状態のままでは,(一種の)狂気である。正気とは,種々の狂気を総合(統合)したものとして定義してよいだろう。いかなる支配的な情熱も,(その情熱の対象を)達成できないという,支配的な恐怖を引き起こす。いかなる支配的な恐怖も,時には明白かつ意識的な狂信の形で,時には人を無力にさせる臆病のために,時には夢の中にのみ現れる無意識あるいは意識下の恐怖のために,悪夢を引き起こす。危険な世界において正気を保持したいと思う者は,自分の心のなかで恐怖の議会を招集し,そこにおいて,個々の恐怖を順にとりあげ,他の全ての恐怖によって,不合理であるとして票決されるべきである。

(意訳:「正気」というのは,平凡かつ起伏のない感情の寄せ集めでできているものではない。それぞれの情熱(強い感情)を一つ一つとりあげれば「狂気」に映るかもしれないが,それらの情熱(+の狂気と-の狂気)をまとめると,全体としてみれば,プラスマイナス零となる。そういった状態を「正気」というのであろう。)

Every isolated passion is, in isolation, insane; sanity may be defined as a synthesis of insanities. Every dominant passion generates a dominant fear, the fear of its non-fulfilment. Every dominant fear generates a nightmare, sometimes in the form of an explicit and conscious fanaticism, sometimes in a paralysing timidity, sometimes in an unconscious or subconscious terror which finds expression only in dreams. The man who wishes to preserve sanity in a dangerous world should summon in his own mind a Parliament of fears, in which each in turn is voted absurd by all the others. …
From: Nightmares of Eminent Persons, 1945, Introduction.
https://russell-j.com/cool/46E-INTR01.HTM

[寸言]
br196009-2 この言葉は,ラッセルの2冊めの小説『著名人の悪魔』(Nightmares of Eminent Persons, and Other Stories, 1954)の巻頭に収められたもの(序文代わりのもの)である。明らかに「狂気」とおもわれるものも少なくないが,強い感情であるために、「正気」であるのに「狂気」だと思われてしまうもの(誤解されてしまうもの)も少なくない。ラッセルの核兵器撤廃闘争もそうであった。危機感を感じてない人間にとっては,ラッセルの行動は「極端」で,一種の「狂気」に見えるかも知れないが、起こりうる危機や破局をまざまざと想像できる人間にとっては、「狂気の沙汰」ではなく「正気の沙汰」なのである。大きな戦争や、大きな人災や、大きな災害が起こって初めて、自らの思慮の足りなさに気づく人が多い。
「原発全廃」なども極端な意見だと思う人も少なくないようであるが、そういった人が、原発全廃こそが「現実的」であることに気づくのは福島に続く大きな原発事故が起こってから、それも自分や自分の家族に大きな影響が生じた時、のことであろう。

罪人の方が救われる!? -ラッセル(作)「郊外の悪魔」から

tp-ss (注:ボーション氏。小説「郊外の悪魔」の登場人物で,聖書の普及に関係した団体の事務長)は言った。「しかし,こういった書物を熟読することは,若い男,それから若い女もですが,彼らを恐ろしい罪に導くかもしれない,容易ならぬ危険があるのではないでしょうか? 仲間に合っているまさにその時に,自分が金銭的利益を得た行為(注:猥褻本の販売)の結果として,おそらく,どこかで結婚をしていない男女が,いかがわしい喜びを与えるものを楽しんでいると考えると,彼ら(仲間)の顔をまともに見ることができるでしょうか?」

dokush30 マラコ博士は応えた。「ああ,残念ながら,恐らく,我々の神聖なる宗教(キリスト教)には,あなたが十分に理解していないことが,たくさんあります。何ひとつ懺悔をする必要のない九十九人の正しい人間が,神のふところに帰った一人の罪人よりも,天国では喜びを得ることが少ないという寓話を,よくよく考えたことがおありでしょうか? パリサイ人(注:古代ユダヤで立法の形式を重んじた保守派の人々。転じて偽善者)や貢取り(注:古代ローマの収税官吏:みつぎとり)に関する原典を研究されたことはまったくなかったのでしょうか? 悔い改めた盗人(の話)から教訓を得ませんでしたか? 主がパリサイ人の昼食を食べながらとがめた罪が何であったか自問したことはまったくありませんか? 打ちひしがれ罪を悔む心を讃美することを不思議に思ったことはまったくありませんか? モリヌー夫人(注:モリヌー大佐の未亡人)と会う前に,あなたの心が打ちひしがれていた,あるいは罪を悔んでいたと,いずれか正直に言うことができますか? まず罪を犯さなくては罪を悔むことはできないということを,今まで思い浮かんだことはありませんか? さらに,これは福音書ではっきり教えているところです。神を喜ばす心構えに人を導きたいと望むなら,人間はまず罪を犯さなければなりません。疑いもなく,例の出版業者が頒布している本を買った人たちの多くは,あとで罪を悔いるでしょう。そうして,我々の神聖なる宗教の教えを信ずるなら,彼らの方が非の打ちどころのないまっすぐな人間よりも,造物主がお気に召す者になるのです。あなたは,これまでは,まっすぐな人間の立派な模範でしたけれども。」
この論理は私を混乱させ,すっかり困惑してしまった。

But is there not; I said, ‘a grave danger that the perusal of such literature may lead young men, ay, and young women too, into deadly sin? Can I look my fellow men in the face when I reflect that perhaps at this very moment some unwedded couple is enjoying unholy bliss as a result of acts from which I derive a pecuniary profit?’

‘Alas,’ Dr. Mal1ako replied, ‘there is, I fear, much in our holy religion that you have failed adequately to understand. Have you reflected upon the parable of the ninety-nine just men who needed no repentance, and caused less joy in Heaven than the one sinner who returned to the fold? Have you never studied the text about the Pharisee and the Publican? Have you not allowed yourself to extract the moral from the penitent thief? Have you never asked yourself what it was that was blameworthy in the Pharisees whom our Lord denounced while eating their lunch? Have you never wondered at the praise of a broken and contrite heart? Can you say honestly that your heart, before you met Mrs. Molyneux, was either broken or contrite? Has it ever occurred to you that one cannot be contrite without first sinning? Yet this is the plain teaching of the Gospels. And if you wish to lead men into the frame of mind which is pleasing to God they must first sin. Doubtless many of those who buy the literature that my friend’s publisher distributes will afterwards repent, and if we are to believe the teachings of our holy religion, they will then be more pleasing to their Maker than the impeccably righteous, among whom hitherto you have been a notable example.’
This logic confounded me, and I became perplexed in the extreme.
出典: Satan in the Suburbs, and Other Stories, 1953.
詳細情報: https://russell-j.com/cool/45T-0101.HTM

[寸言]
時々街頭で,キリスト教普及団体(「ものみの塔」など)が「信じる者は救われる」とかなんとか言っているのが耳に入ります。これはラッセルが1953年に発表した小説「郊外の悪魔」(Satan in the Suburbs)に出てくる言葉「何ひとつ懺悔をする必要のない九十九人の正しい人間が,神のふところに帰った一人の罪人よりも,天国では喜びを得ることが少ないという寓話を,よくよく考えたことがおありでしょうか?」と同じ趣旨のことを言っています。
つまり,どんなに品行方正な生活をしていてもキリスト教(神)を信じていないとあの世で救われないけれども,罪人でも死ぬ間際に「回心」してキリスト教に帰依すれば天国に行けると言っています。
馬鹿馬鹿しいですが、キリスト教徒だけでなく、多くの宗教が同じような馬鹿げたことを言っています。

「自白」の強要,「証拠」固め ,冤罪の発生 - 警察権力暴走の歯止め

against-death-penalty カトリックの異端審問(注:正統信仰に反する教え(異端)を信じているとの容疑をかけられた者に対するカトリック教会による宗教裁判)における拷問の根底にあったものは,自白させたいという欲求であった古代中国では,容疑者を拷問にかけるのは,習慣的なものになっていたが,それは人間性豊かなある皇帝が,いかなる者も,自白したのでなければ,有罪の判決を受けることはないと布告したからであった。(しかし)警察の権力を飼いならす(おさえておだやかなものにさせる)ために必須のことは,いかなる状況においても,決して自白を証拠として採用してはならないということである。

The desire to obtain a confession was the basis of the tortures of the Inquisition. In Old China, torture of suspected persons was habitual, because a humanitarian Emperor had decreed that no man should be condemned except on his own confession. For the taming of the power of the police, one essential is that a confession shall never, in any circumstances, be accepted as evidence.
* inquisition (名):審理;(大文字 The Inquisiiton)で(異端審理の)宗教裁判(所) / decree (動):(法律として)布告する;定める
出典: Power, a new social analysis, 1938, chap. 18: The Taming Power

[寸言]
現代の日本では、具体的な証拠がなければ,「自白」だけでは起訴できなくなっている。しかし、そうなったのはそんなに昔のことではない。戦後もかなりの期間,(取調官に脅かされて)「自白」させられたこと(調書)が証拠として採用され,有罪となってしまった者も少なくない。

現在でも,「自白」をもとに、その「自白」を信用してもよさそうに思われる「証拠」だけを収集したり採用したりする(その「自白」に反する「証拠」は無視される)ことがかなり行われており、そのことが後から判明して「死刑囚」が「冤罪(えんざい)」だとして釈放されることも時々起こっている。

death-penalty_opposition 「死刑制度反対」を唱える者の「死刑制度反対」の主張の根拠の一つが,「冤罪による死刑執行」(の可能性)である。遺族の気持ちとして、家族を殺害した者に極刑を望むのは自然なことである。しかし,そういった遺族の問題を離れて,冷静に原則論として考えた場合,「死刑制度賛成」(ただし遺族は除く)の人々のなかで,たとえ例外的に「冤罪」で死刑が執行されたことがあったとしても,数はわずかだから仕方がないと考えている人がどれくらいいるだろうか? 現在の日本の刑法では,「無期懲役刑」はあっても「終身刑」は設けられていない。「死刑」ではなく、「終身刑」にしておけば「冤罪」によって死刑が執行されるようなことがなくてよいと思うが,どうであろうか?

現政権の関係者には,「終身刑」の人間が多くなると「コスト」がかかるので、早く死刑を執行してしまったほうがよいと考える人が多いであろうが・・・。

(生活のためのの手段である)仕事が目的化することによる不幸をなくす

ichioku-sokatuyaku_abe 私と同じ世代の人々と同様,私も「何もしないで怠けている者のところには,悪魔がやってきて,何か不幸の種を見つけ出す」(宗教詩人 Issac Watts, 1674-1748 の句。Moral songs for children にある。)という格言に則って,(いつも何かしているように)育てられた。私は非常に善良な子供だったので,言われたことは何でも信じ,良心の持ち主になり,私はその良心によって現在まで一生けんめい働き続けてきた。しかし,私の良心は,私の「行為」を支配してきたけれども,私の「考え]はすっかり変ってしまっている。私は次のように考えている。即ち,これまで,世界中で,あまりにも多くの仕事(労働)がなされており,仕事は善いものだという信念が,恐ろしく多くの害をひきおこしており,(それゆえ)現代の産業国家で教えさとす必要のあることは,今までいつも説教されてきたこととはまるきり違うものである,と。
日なたぼっこをしている12人の乞食を見つけ(ムッソリーニの時代以前のことであった。),その中で最もなまけものに1リラをやろうと申し出た,あのナポリの旅行者の話を知らない人はいないだろう。。11人の乞食がそれをもらおうと飛び上がったので,その旅行者は,じっとしている12人目のものにお金を与えた。この旅行者のやったことは,正しい。しかし地中海の陽光のめぐみを享受できない寒い国々においては,何もせずに怠惰でいることははるかに難しいので,怠惰を始めるには,大規模な公的宣伝が必要となるだろう。キリスト教青年会の指導者諸君は,以下のページを読まれた後は,善良な青年たちを,何もしないように導く運動を始めてくださることを希望する。もしそうなれば,私としては生き甲斐があったことになろう。

Like most of my generation, I was brought up on the saying: ‘Satan finds some mischief still for idle hands to do.’ Being a highly virtuous child, I believed all that I was told, and acquired a conscience which has kept me working hard down to the present moment. But although my conscience has controlled my actions, my opinions have undergone a revolution. I think that there is far too much work done in the world, that immense harm is caused by the belief that work is virtuous, and that what needs to be preached in modern industrial countries is quite different from what always has been preached. Everyone knows the story of the traveller in Naples who saw twelve beggars lying in the sun (it was before the days of Mussolini), and offered a lira to the laziest of them. Eleven of them jumped up to claim it, so he gave it to the twelfth. This traveller was on the right lines. But in countries which do not enjoy Mediterranean sunshine idleness is more difficult, and a great public propaganda will be required to inaugurate it. I hope that, after reading the following pages, the leaders of the Y.M.C.A. will start a campaign to induce good young men to do nothing. If so, I shall not have lived in vain.
出典: In Praise of Idleness, 1935, chap.1.
詳細情報:http://russell-j.com/cool/32T-0101.HTM

[寸言]
組織(私的、公的を問わず)の命令や指示によって過重労働を強いられる,あるいは「自主的に」過重労働をするように誘導され,ひどい場合には「過労死」にいたるなんてことは、先進国の日本において,あってはならない。

takahasi-maturi_karousi_dentsu 「過労死」であることが明らかになり,本人の体調管理のまずさのせいにできないことがわかると,経営者や執行役員連中は,「上からは指示していない」、「超勤については現場に判断をまかせている」とか弁解し,自分たちの責任を回避するのが普通となっている。しかし、過重労働をさせないような組織体制にしておくのは彼らの重要な仕事の一つであり,過重労働を発生させないように現場の管理職を指導するのも彼らの仕事だということをあまり自覚していないようである。

(過労死で亡くなった)電通の高橋まつりさんは、東大文学部を卒業した新入社員であり,能力がなくて仕事がたまったために「過重労働」になったわけでなく、あくまでも業務量が何倍にもなっているのに、会社が担当者を増やすことなく、実態をよくみずに「電通鬼十則」をたてに、過重労働を強いた結果であった。「電通鬼十則」とは、

1. 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
2. 仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
3. 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
4. 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
5. 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
6. 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。
7. 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。
8. 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。
9. 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。
10. 摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。

しかし,「」があれば必ず「」がある。「裏」バージョンもよいものとは言えないが,表の規則が厳しすぎると,裏の規則も必要以上に後ろ向きのものになってしまう。

★「電通裏十則」★
1)仕事は自ら創るな。みんなでつぶされる。
2)仕事は先手先手と働きかけていくな。疲れるだけだ。
3)大きな仕事に取り組むな。大きな仕事は己に責任ばかりふりかかる。
4)難しい仕事を狙うな。これを成し遂げようとしても誰も助けてくれない。
5)取り組んだらすぐ放せ。馬鹿にされても放せ、火傷をする前に…。
6)周囲を引きずり回すな。引きずっている間に、いつの間にか皆の鼻つまみ者になる。
7)計画を持つな。長期の計画を持つと、怒りと苛立ちと、そして空しい失望と倦怠が生まれる。
8)自信を持つな。自信を持つから君の仕事は煙たがられ嫌がられ、そしてついには誰からも相手にされなくなる。
9)頭は常に全回転。八方に気を配って、一分の真実も語ってはならぬ。ゴマスリとはそのようなものだ。
10)摩擦を恐れよ。摩擦はトラブルの母、減点の肥料だ。でないと君は築地のドンキホーテになる。

「慈善行為」の必要のない社会

shogaisha_gizenbangumi-kirfai 今から100年前の,現在では消滅した社会における(人々の)自立よりも(貧しい人々への)慈善を優先する考え方は,今日の我々にはグロテスクに映る。しかしそれは 新しい形態では依然として現在でも残っており,いまだ政治的に有力である。失業者たち公的権威による支援を求める法的権利を持つよりも,私的慈善によって生存を保たれた方がより良い,と多数の人たちに考えさせるのは,まさにこの種の物の見方である。(正義が行き渡った)正しい世界では,「慈善」の可能性はなくなるだろう。

A hundred years ago, in a society now extinct, the point of view which puts charity above independence now seems to us grotesque. But in newer forms it still survives and is still politically powerful. It is this very same outlook which makes large numbers of people think it better  that the unemployed should be kept alive by private benevolence than that they should have the legal right to support by the public authorities. In a just world, there would be no possibility of ‘charity’.
出典:Bertrand Russell: On charity,Nov. 2, 1932. In: Mortals and Others, v.1 (1975)
詳細情報:http://russell-j.com/CHARITY.HTM

[寸言]
untitled - 31735066248802 「慈善」よりも「自立及び自律を」とラッセルが言っているのは、恵まれない人をラッセルが突き放しているのではない。社会をそういった人間を生み出さないようなものに創り変えるべきであり、そういう努力をしてもそういった人々が出現する場合は「公的」な救済措置をするべきであり、苦しんでいる人のほんの一部を「おなさけ」で救って、自分は良い行為をしているのだと「自画自賛」あるいは(日頃そういった人を無視していることに対する)「罪滅ぼし」をすることは,根本的な解決にならない、とのラッセルの主張。

永遠を追求する努力はたとえ虚しいとしても・・・

andromed 時の急速な経過,森羅万象のはかなさ,死の世界は,悲劇的感情のもとである。人類人生について深い考察をめぐらし始めて以後,人類は様々な逃避方法を探してきた。宗教,哲学,詩,歴史において,これら全てにおいて,移りゆく物事(事象)に’永遠の価値’を与えようと試みている。個人の記憶が存続する間は,幾分か時の(流れ)勝利を遅らせ,時々刻々の出来事も少なくとも’思い出の中で’持続させる。同様の衝動がいっそう強くなると,諸国の王は戦勝記念の石碑を彫らせ,詩人たちは自分の名を不朽にするような美しい言葉で昔の悲話を物語り,哲学者は時(間)は単なる幻影(仮象)にすぎないと立証する哲学体系を発明する。むなしい努力よ! 石碑は崩れ,詩人の言葉は読解不能となり,哲学者の体系は忘れられる。にもかかわらず,永遠(なるもの)を追求する努力は,移りゆく瞬間を価値あるものとしている。
DOKUSH28

The flight of time, the transitoriness of all things, the empire of death, are the foundations of tragic feeling. Ever since men began to reflect deeply upon human life, they have sought various ways of escape: in religion, in philosophy, in poetry, in history – all of which attempt to give eternal value to what is transient. While personal memory persists, in some degree, it postpones the victory of time and gives persistence, at least in recollection, to the momentary event. The same impulse carried further causes kings to engrave their victories on monuments of stone, poets to relate old sorrows in words whose beauty (they hope) will make them immortal, and philosophers to invent systems providing that time is no more than illusion. Vain effort! The stone crumbles, the poet’s words become unintelligible, and the philosopher’s system are forgotten. Nonetheless, striving after eternity has ennobled the passing moment.
出典: On old friends (written in Jan. 4, 1933 and pub. in Mortals and Others, v.1, 1975.]
詳細情報:http://russell-j.com/O-FRIEND.HTM

[寸言]
「人間は神が創造したもの」対「人間は宇宙のゴミ」。
どちらも間違っているか、どちらも正しいか?
永遠にわからないかも知れないが,「永遠を求めて努力することは価値がある」と思いたい。