「言語」に関する迷信的な見解-言語の本質とその限界に無知な哲学者?

fishontable 哲学者読書人(読書家)は一般的に,言葉によって支配される生活を送る傾向があり,また,一般的に,非言語的であるところの事実と何らかの関係を有することは,言葉の本質的な機能である,ということを忘れる傾向さえある。現代の哲学者のなかには,言葉は決して事実とつきあわせてはならず,純粋な(言葉以外のものとまざらない)自律的な世界に生きるべきであり,他の言葉とのみ比較されるべきだ,とまで言う者もいる。(たとえば)「猫は肉食動物である」と言うとき,それは,現実の猫が現実の肉を食べるということを意味しているのではなく,動物学の本では猫は肉食動物の中に分類されている,ということを意味するにすぎない(というしだいである)。こう考えている著者たちは,言語と事実とつき合せる試みは「形而上学」であり,それゆえ非難されるべきである,と我々に告げる。これは,きわめて馬鹿げた見解であり,恐らく,非常に学問のある者だけが採用できる見解であろう。それを特に馬鹿げたものにしているのは,事実の世界における言語の位置に盲目であることである。言語は,食べたり歩いたりすることと全く同様に,知覚できる現象から成り立っている。もし,我々(人間)が事実について何も知りえないとしたならば,我々は他人の言うことを知りえないはずであるし,また,自分自身が何を言っているかも知ることができないはずである。言語は,後天的に獲得された他の行動様式と同様,有用な習慣から成り立っており,しばしばそれに取り囲まれている神秘性をまったく持っていない(のである)。言語に関する迷信的な見解には何の新しい点もない。それは有史以前の時代から我々に伝えられてきたものである。
我々が歴史的記録を有する最古の時代以来,言葉は迷信的な畏怖の対象であった。敵の名を知っている者は,それにより敵に対する魔力を手に入れることができた。そして今でもなお,我々は「法律の名において」というような句を用いている。「はじめに言葉ありき」という主張に同意することは容易である。この見解は,プラトンとカルナップおよびその間に出た大多数の形而上学者たちの,哲学の根底をなしている。」(『意味と真理との研究』,p.23

TP-MPDPhilosophers and bookish people generally tend to live a life dominated by words, and even to forget that it is the essential function of words to have a connection of one sort or another with facts, which are in general non-linguistic. Some modern philosophers have gone so far as to say that words should never be confronted with facts but should live in a pure, autonomous world where they are compared only with other words. When you say, ‘the cat is a carnivorous animal’, you do not mean that actual cats eat actual meat, but only that in zoology books the cat is classified among carnivora. These authors tell us that the attempt to confront language with fact is ‘metaphysics and is on this ground to be condemned. This is one of those views which are so absurd that only very learned men could possibly adopt them. What makes it peculiarly absurd is its blindness to the position of language in the world of fact. Language consists of sensible phenomena just as much as eating or walking, and if we can know nothing about facts we cannot know what other people say or even what we are saying ourselves. Language, like other acquired ways of behaving, consists of useful habits and has none of the mystery with which it is often surrounded. There is nothing new in the superstitious view of language, which has come down to us from pre-historic ages:
‘Words from the earliest times of which we have historical records, have been objects of superstitious awe. The man who knew his enemy’s name could, by means of it, acquire magic powers over him. We still use such phrases as “in the name of the Law”. It is easy to assent to the statement “in the beginning was the Word”. This view underlies the philosophies of Plato and Carnap and of most of the intermediate metaphysicians (An Inquiry into Meaning and Truth, page 23).
出典: My Philosophical Development, 1959,chap..13: Language.
詳細情報:http://russell-j.com/cool/54T-1301.HTM

[寸言]
illusion_sakusi みなさんもミューラー・リヤー錯視という言葉をご存知だと思われます。すなわち、同じ長さの線分であっても、先頭に矢印をつけると、付け方によっては長さが違って見えるというあれ(錯視)です。このように人間の眼に見えるというのはひとつの「事実」です。それは間違っているといっても、そう見えること自体は間違っていません。
しかし、実際は、両線分は同じ長さであることは間違いないので、言葉(論理)によって、人間の眼には同じように見えるが、実際にはかってみればわかるように、2つの線分は同じ長さだ、と修正してあげる必要があります。
このように、事実と言葉(論理)は相補関係にありますので、どちらか一方だけではこの世界を正しくとらえることはできません。従って、世界に関する感覚器官によって得られた知識(視覚、臭覚・触覚等の五感で得られる事実)も、それを言葉(論理)で必要に応じ解釈をほどこして、より正しい世界像を作り上げていく必要があります。
人間は年をとるにつれて、膨大な間違った情報を身につける可能性があるとともに、言葉(論理)だけでは世界に対する正しい認識は得られないということを、十分認識する必要があります
そのことを十分理解していない哲学者や現実主義者(体験主義者)も少なくなく、過信に陥る人間も少なくありません。権力をもっていなければ「お互い様だ」と笑い飛ばすことができますが、「確信過剰」の政治家は国民に大きな被害をもたらす可能性があり、そうもいっておられません。たとえば、◯△□(適当に名前をあてはめてください)・・・。

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