もしも,純粋な学問を大学の目的の一つとして残しておくべきであるならば,純粋な学問は,単に少数の暇のある紳士の洗練された喜びと結びつけるだけではなく,社会生活全体と関連を持つようにしなければならない。私は,私心のない研究を非常に重要なものだと考えており,大学生活の中でその地位が低くなるのではなく,高まることを望んでいる(高まるのを見たい)。
英国において,また米国においても,純粋な学問を減らすおそれのある主な力は,(これまで)無知な富豪から寄付金を得ようとする欲求であった。これに対する治療法は,産業界の大物には理解することのできない目的のために公費を使うことを惜しまない(ような)教育された民主主義(educated democracy 機械的な民主主義ではなく,民度の高い民主主義)を創りだすことにある。これは決して不可能ではないが,そのためには知的レベルが一般的に向上する必要がある。もし,学者たちがもっと頻繁に金持ちの居候的態度(食客的態度)から解放されるならば,それは,ずっと容易になるだろう。そのような態度は,パトロンが学者の生計の自然な源泉(出所)であった時代から受け継がれたものであった。もちろん,学問と学者との区別がつかない(混同される)こともないわけではない。
(たとえば)まったく架空の例をあげるなら,ある学者が有機化学の代わりに酒(ウィスキー・ワイン・ビールなど)の醸造を教えることによって自分のふところ具合をよくすることができるかもしれない。彼は利益を得るが,学問は損害をこうむる。もしも,その学者がもっと本物の学問への愛を抱いているならば,酒の醸造の教授ポストを寄付する酒造業者に政治的に味方をするようなことはしないだろう(注:企業による寄附講座に対する態度)。また,もし,彼が(特定の権力者や金持ちではなく)民主主義の味方であるならば,民主主義は進んで彼の学問の価値を認めようとするだろう。
以上のような理由で,学術の諸団体(注:大学,研究所,学会,その他)は金持ちによる施しよりも,むしろ,公費に頼ってほしい,と私は思っている。金持ちに頼る弊害(注:企業から競争的資金を獲得すること,金持ちからの寄付に頼ること)は,英国よりも米国のほうが大きいが,英国にも見いだされるし,今後増えていく可能性がある。
If pure learning is to survive as one of the purposes of universities, it will have to be brought into relation with the life of the community as a whole, not only with the refined delights of a few gentlemen of leisure. I regard disinterested learning as a matter of great importance, and I should wish to see its place in academic life increased, not diminished. Both in England and in America, the main force tending to its diminution has been the desire to get endowments from ignorant millionaires. The cure lies in the creation of an educated democracy, willing to spend public money on objects which our captains of industry are unable to appreciate. This is by no means impossible, but it demands a general raising of the intellectual level. It would be much facilitated if our learned men would more frequently emancipate thernselves from the attitude of hangers-on of the rich, which they have inherited from a time when patrons were their natural source of livelihood. It is, of course, possible to confound learning with learned men. To take a purely imaginary example, a learned man may improve his financial position by teaching brewing instead of organic chemistry ; he gains, but learning suffers. If the learned man had a more genuine love of learning, he would not be politically on the side of the brewer who endows a professorship of brewing. And if he were on the side of democracy, democracy would be more ready to see the value of his learning. For all these reasons, I should wish to see learned bodies dependent upon public money rather than upon the benefactions of rich men. This evil is greater in America than in England, but it exists in England, and may increase.
出典:On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 3: Intellectual education, chap.18: The University.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE18-040.HTM
<寸言>
It is, of course, possible to confound learning with learned men.(もちろん,学問と学者との区別がつかない(混同される)こともないわけではない。)の一文はわかりにくいですが、次のような意味と思われます。ある学者が防衛省から委託された研究をしたり,企業から委託された紐付きの(しかし資金が多く支給される)研究をしたりする場合,学者がやっているのだから「学問」であるが,市井の(アマチュア)研究者が自分が知りたいことについて研究していても,学者ではないのでそれは「学問」とは認められない,ということ。もちろん、以前大学教授をしていたが大学をやめ名誉教授になれば、その人の研究は引き続き「学問」とされ,市井の人間が何十年と研究しても(学会で認められない限り)それは「学問」とは考えられない,ということ。即ち,「学問」=「学者」と思い込めば,「市井の人間の研究」は「非学問」ということになる。