私たちは,自分の子供が他人に好かれ,立派に人生に対処できるような人間になってほしいと望む。幸いにも,健康と性格は同じ方向を向いている。即ち,一方にとって良いことは,他方にとっても良い。本書(ラッセル『教育論』)で私たちが特に関心を持つのは,性格である。だが,健康も同じような習慣を必要とする。そこで,私たちは,「健康な悪党」か「病弱な聖者」か,というむずかしい二者択一に直面しなくても済む。
We want the child to become the sort of person that will be liked and will be able to cope with life successfully. Fortunately, health and character point in the same direction: what is good for one is good also for the other. It is character that specially concerns us in this book; but health requires the same practices. Thus we are not faced with the difficult alternative of a healthy scoundrel or a diseased saint.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 3: the first years.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE03-030.HTM
[寸言]
「腕白でも良い,元気な強い子に育って欲しい」というコマーシャルどおりに、多少悪ガキでも世の中で活躍する(=よい暮らしができる)子供になって欲しいと望む親も、また、金持ちにならなくてもよいので健康で幸せな生活を送れる子供になって欲しいと望む親も、両方とも多いのではないかと思われます。
しかし、昨今の政治家のありようをみていると、「健康な悪徳政治家(良いこともやらないわけではない)」と「覇気が余りない政治家(悪いことはしないが、実行力があまりない)」とどちらかを選べと言われると、困る人がけっこういるのではないでしょうか?
普通の一般人の場合は「病弱な聖者」のほうが「まし」だと思っても、実行力が必要な政治家の場合は多少の脇の甘さも大目に見る必要があるのではないかと思ったりもすることでしょう。
しかし,実行力があっても、「長い目で見ると、大きな災いをもたらすような政治家」は,(’短期的な’バラマキによって利益を得るとう「目眩まし」にだまされず)排除していかないと、国民は、いずれ後悔することになります。たとえば、川内市民が原発は経済的豊かさのための必要悪だと思っていても、大きな災害が起これば180度意見が変わってしまい、「本当のことを聞いていなかった」と他人のせいにする人が少なくないことでしょう。
後悔先に立たず。