ラッセル『私の哲学の発展』第12章  意識と経験 n7

 知識の理論の見地から見ると、このことは、「経験の証拠」 (empirical evidence) がいったい何を 意味するかということに関して、きわめて困難な問題を生み出す。『意味と真理の探求』は主とし この問題を扱ったのであるが、その中で私は、それまで採っていた 「熟知」 (acquaintance) の代 りに「注意」 (noticing) をおき、これを、定義されない用語として受け入れた。 次の引用がこの点を明らかにするであろう。 「雨の日に外を歩いていて、水たまりを見てそれを避ける、と仮定しよう。その時、我々は心の中で次のように言うことはなさそうである。『水たまりがある。 それに踏み込まないほうが望ましい』。しかし、誰かが『なぜあなたは急に横へ寄ったのか』と言えば、『あの水たまりに踏み込みたくなかったからです』と答えるであろう。我々は、自分が視覚による知覚をもったのであり、それに適切に反応したのであることを、後から回顧的に(振り返って)知るのである。そして上記の例の場合には、その知識を言語で表現して いるのである。しかし、もし我々の注意が質問者によってその方に向けられることがなかったなら ば、我々は水たまりを避けたときに何を知っていたのであろうか? またいかなる意味で知っていたのであろうか? 「質問された時(には)その出来事はもう終っていたのであり、我々は記憶によって答えた のである。しかし、前に知らなかったことを思い出すことができるだろうか(想起できるだろうか)?。しかし、これは『知る』という語の意味に依存する。 「『知る』という語(言葉)はとても曖昧な語(言葉)である。『知る』という語(を使う時)の大部分の場合の意味は、ひとつの事象(event 出来事)を知ることは、知られる事象(event 出来事)とは異なるひとつの出来事(occurrence)である。 し かし『知ること』の意味には、我々がひとつの経験を持つとき、その経験と、それを持つと知る ことが、別のことではないという場合がある。我々は我々の現在の経験を常に知っている、と主張されることがあるが、これは、もし知ることが経験することとは別のことであるなら、真ではあ りえない。なぜならば、もしひとつの経験と、それを知ることとが別のことであるのなら、経験が現に起っている時我々は必ずそれを知っているのだという想定は、一々の出来事を無限に多様なものにすることになる。 私が熱いと感ずる。これはひとつの出来事である。私は私が熱いと感じ ていることを知る。これは第二の出来事である。私は私が熱いと感ずることを知ることを知る。これは第三の出来事である。かくして無限に進むことになるが、これは不合理である。それゆえ、私の現在の経験と私がその現在している経験を知ることとは区別不可能な同一のことであると言うか、あるいはまた、原則として我々は我々の現在の経験を知らないのだと言うか、しなければならない。 全体として言えば私は、『知る』という語を、知ることが知られるものとは異なっているという意味に 用いるほうがよいと思う。そして、原則として我々は我々の現在の経験を知らないとい う結論(帰結)を受けいれるほうがよいと思う。
Chapter 12: Consciousness and Experience , n.7
From the point of view of theory of knowledge, this raises very difficult questions as to what is meant by ‘empirical evidence’. In the Inquiry into Meaning and Truth, which is largely concerned with this problem, I replaced ‘acquaintance’ by ‘noticing’, which I accepted as an undefined term. A quotation will make this point clear; ‘Suppose you are out walking on a wet day, and you see a puddle and avoid it. You are not likely to say to yourself: “there is a puddle; it will be advisable not to step into it”. But if somebody said “why did you suddenly step aside?” you would answer “because I didn’t wish to step into that puddle”. You know, retrospectively, that you had a visual perception, to which you reacted appropriately; and in the case supposed, you express this knowledge in words. But what would you have known, and in what sense, if your attention had not been called to the matter by your questioner? “When you were questioned, the incident was over, and you answered by memory. Can one remember what one never knew? That depends upon the meaning of the word “know”. ‘The word “know” is highly ambiguous. In most senses of the word, “knowing” an event is a different occurrence from the event which is known; but there is a sense of “knowing” in which, when you have an experience, there is no difference between the experience and knowing that you have it. It might be maintained that we always know our present experiences; but this cannot be the case if the knowing is something different from the experience. For, if an experience is one thing and knowing it is another, the supposition that we always know an experience when it is happening involves an infinite multiplication of every event. I feel hot; this is one event. I know that I feel hot; this is a second event. I know that I know that I feel hot; this is a third event. And so on ad infinitum y which is absurd. We must therefore say either that my present experience is indistinguishable from my knowing it while it is present, or that, as a rule, we do not know our present experiences. On the whole, I prefer to use the word “know” in a sense which implies that the knowing is different from what is known, and to accept the consequence that, as a rule, we do not know our present experiences.
 Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12  
 More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_12-070.HTM

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