社会制度を樹木として想像する人は,異なる政治的見解を抱いているだろう。
悪い機械は,スクラップにして,別の機械と取り替えることが可能である。しかし,木は切り倒してしまえば,新しい木が前の木と同じ強さと高さに達するまでには,長い時間がかかる。
機械や鋳型は,その製作者が選ぶものである。(だが)木はそれぞれ特有の性質があり,(機械や鋳型のように同一製品でなく)その木の種類のすぐれた見本か劣った見本に育てあげることしかできない。
生物に適用される建設性は,機械に適用される建設性とはまったく異なっている。前者の場合は,より地味な機能があり,ある種の思いやりを必要とする。それゆえ,幼い子供に建設的な心を教えるときには,それを積み木や機械に対してだけではなく,植物や動物に対しても働かせる機会を用意してあげなければならない.
The man who imagines a social system as a tree will have a different political outlook. A bad machine can be scrapped, and another put in its place. But if a tree is cut down, it is a long time before a new tree achieves the same strength and size. A machine or a mould is what its maker chooses ; a tree has its specific nature, and can only be made into a better or worse example of the species. Constructiveness applied to living things is quite different from constructiveness applied to machines ; it has humbler functions, and requires a sort of sympathy. For that reason, in teaching constructiveness to the young, they should have opportunities of exercising it upon plants and animals, not only upon bricks and machines.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 6: Constructiveness.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE06-080.HTM
[寸言]
多くの人間(国民や社員など)を相手にする場合、それぞれが皆(かけがえのない)異なる個性をもっていると考えると、どう扱ってよいかわからなくなるということで、個々人や集団を何らかの種類別に分類し、それぞれにレッテルを貼り、わかったことにしていろいろな政策を実行していく。
教育行政(学校教育など)もそのような視点で行われることが少なくなく、文部官僚と現場の教師の考え方との意識や考え方によくずれが生じる。
現場の教師も生徒を鋳型にはめてよいというおすみつき(文科省や教育委員会の通達など)をもらえれば、教室の運営に余り困らず、生徒に気を使わなくてもよいので、負担を減らすことができる。受験期の生徒を担当している場合には、有名な大学にできるだけ多く入れるだけで評価してもらえる。
しかし、良心的な教師は、生徒を機械や歯車の一つとして眺めることができず、できるだけ一人ひとりの個性を尊重して教育にあたろうとする。結局はそのほうが生徒自身からも、長い目で見れば親からも感謝されることになるはずである。
親であろうが、教師であろうが、生身の一人の人間の教育や躾をする者にとって、生徒を機械や鋳型をモデルとしてみるのがよいか、生物(個性をもった生命体)をモデルとしてみるのがよいかは、明らかなはずであるが、短期的成果を求める「指導者」や「為政者」には前者のタイプが少なくない。