古典(語)教育と科学の学習-時代が変われば教育内容も変わる

girisiago-latin 純粋に知的な事柄においても,建設的な傾向,あるいは破壊的な傾向を持つことはありそうなことである。古典教育(注:実質的には,ギリシア語及びラテン語の教育)は,ほとんどまったく批判的なものである。即ち,少年は,誤りを避けることと,誤りを犯す人びとを軽蔑することを学ぶ。これは,一種の冷淡な正確さを生み出す傾向があり、このような正確さにおいては,独創性は,権威に対する尊敬に取って代わられる。正しいラテン語は,きっぱりと決まっている。即ち,ヴェリギリウスとキケロのラテン語である。
(これに対し)正しい科学は絶えず変化しているので,有能な青年はこの過程を押し進めることを待ち望んでいるかもしれない。従って,科学教育によって生み出された態度は,死語の研究によって生み出された態度よりも,建設的である傾向がある。誤りを避けることを目指すべき主目的としている場合には,教育は,知的な面で生気のないタイプの人間を生み出しやすい。自分の知識活かして何か冒険的なことをやるという展望を,すべての有能な青年男女の前に示してあげなければならない。

Even in purely intellectual matters it is possible to have a constructive or a destructive bias. A classical education is almost entirely critical : a boy learns to avoid mistakes, and to despise those who commit them. This tends to produce a kind of cold correctness, in which originality is replaced by respect for authority. Correct Latin is fixed once for all.. it is that of Vergil and Cicero. Correct Science is continually changing, and an able youth may look forward to helping in this process. Consequently the attitude produced by a scientific education is likely to be more constructive than that produced by the study of dead languages. Wherever avoidance of error is the chief thing aimed at, education tends to produce an intellectually bloodless type. The prospect of doing something venturesome with one’s knowledge ought to be held before all the abler young men and young women.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 6: Constructiveness.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE06-060.HTM

[寸言]
温故知新という意味で、過去の時代の人類の知的遺産を学ぶことは大変有益である。しかし、古典を学ぶといっても古語(欧米ではギリシア語やラテン語)を習うことが中心となって時間を費やすことになれば、新しい時代に必要な科学的知識及び論理的推論能力の要請が不十分になってしまう。
学ぶべきことは、時代の進歩とともにどんどん多くなっていく以上、古典に関する学習の比率は相対的に減らさざるをえなくなる。従って、古典の学習を益あるものにするためには、題材や学習方法(教育方法)の工夫が必要である。

kentei_zettai-fgokaku-kobun 『検定不合格教科書』という本の紹介に次のような文章があった。面白そうなんで転載。

「もし、村上春樹でも、重松清でも、なんでも、小説などの文学作品を、すべての単語を品詞に分解し、助詞を識別し、わからない語句をしらみつぶしに辞書で調べ、意味を解釈していく授業をしたとしたら、どうだろう? 目を光らせて学ぶだろうか? するわきゃない。
しかし、古文の授業ではそれが当たり前に行われている。とくに高校では。
学校で教える古文が「古典文法の学習」に終始せざるを得ないのは、一つには「大人の事情」もあるのかもしれない。(田中貴子『検定絶対不合格教科書 古文』にはそれが慎重に論じられている)古典文学は、ちょっと深読みすると、その作品世界の根底には、性、宗教、差別などが広がっている。あらゆる社会的な禁忌に触れざるを得ない。(そしてそれこそが「文学」の本質でもある)
科書に収録された古文が、タブーなるものから無味脱臭された、抜け殻のような作品のみを扱い、かつ「文学として読むこと」が許されない現状である限り「古文嫌い」はこれからも量産されるだろう。」

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