「親の心子知らず」と同じく「子の心親知らず」

A3_Poster_out 私は5歳の時,幼年時代は人生で一番幸福な時期だ,と言われたのを覚えている(当時を思えば,真っ赤な嘘である)。私は,慰めようもないくらい泣き,死んでしまいたいと思い,また,これからの年月,どのようにして退屈に耐えるべきだろうかと思案した。今日では,子供に向かってそんなことを言う人がいるとはほとんど想像できない。
子供の人生は,本能的に前向きである。つまり,つねに,将来可能になるだろうことに向かっている。このことは,子供の努力に対する刺激の一部である。子供の心を後向きにすること,未来を過去よりも悪いものとして示すことは,子供の人生を根元から害するものである。しかし,それは,心ない感傷主義者たちが,以前,子供に向かって幼年時代の喜びを語ることによってやっていたことである。
幸い,彼ら(ラッセルの家族)の言った言葉の印象は,そう長続きしなかった。たいていの場合,私は,大人は勉強しなくてもいいし,好きなものが食べられるのだから,彼らは完全に幸福なのにちがいない,と信じていた。この信念は健康かつ心を活気づけるものであった。

I can remember, at the age of five, being told that childhood was the happiest period of life (a blank lie, in those days). I wept inconsolably, wished I were dead, and wondered how I should endure the boredom of the years to come. It is almost inconceivable, nowadays, that anyone should say such a thing to a child. The child’s life is instinctively prospective : it is always directed towards the things that will become possible later on. This is part of the stimulus to the child’s efforts. To make the child retrospective, to represent the future as worse than the past, is to sap the life of the child at its source. Yet that is what heartless sentimentalists used to do by talking to the child about the joys of childhood. Fortunately the impression of their words did not last long. At most times I believed the grown-ups must be perfectly happy, because they had no lessons and they could eat what they liked. This belief was healthy and stimulating.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 4: Fear.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE04-140.HTM

[寸言]
jido-gyakutai_poster02 「躾のために7歳の子どもを山の中に置きざりにした事件」は、無事解決し、父親も深く反省しているということで、この件は一見落着しました。
しかし、「躾」がなっていなくて親になった大人が、自分の子どもに「躾」と称して「虐待」をする事件が頻発しています。自分が我が子と同じ年頃の時にどうであったか(どれだけの理解力があったか、精神の発達はどうであったか)ということを考える想像力がないくせに、自分は子どもを理解していると錯覚している親が多すぎますね。
子どもとともに親は成長する、ということをよく自覚すべきです。

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