私は前にも述べたように,個人やグループをその政治上の見解や宗教的意見などの理由で投獄したり処刑したりすることに反対する仕事にしだいに深入りしてきた。私に支援を求める文書が全世界の個人や団体から絶え間なく送られてくるようになり,その数もしだいに増え,さらには★ほとんど毎日,そうした団体の代表者の訪問(★北ウェールズの田舎の家に世界中から訪問者が!!)を受けるようになった。
(諸事情で)私自身遠方の国々に旅行することがずっとできないできた。そこで,私は,できるだけ直接的かつ客観的な情報を入手するために,多数の国々に自分の代理を派遣せざるをえなくなっていた。
In recent years I have become, as I have said, more and more involved in work against the incarceration and the persecution of individuals and groups because of their political and religious opinions. I have received a continually increasing number of written appeals for help from individuals and organisations all over the world and almost daily visits from representatives of the latter. I have been unable to travel to distant countries myself, so, in order to have as nearly as possible first-hand objective information, I have been obliged to send representatives to the various countries.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap4:The Foundation,(1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB34-030.HTM
[寸言]
ラッセルは、1955年から1970年2月2日に亡くなるまで約15年間,英国の北ウェールズの自宅(プラス・ペンリン)で,妻エディス(or イーディス: Edith Finch, Countess Russell, 5 November 1900~1 January 1978) とともに暮らしました。
ラッセルの死後も、Edith Finch は引き続き,亡くなるまでプラス・ペンリンに住み続けました。
https://en.wikipedia.org/wiki/Edith_Finch_Russell
1980年の夏、ラッセルのゆかりの地を(友達と一緒に)めぐった時、電車を何度も乗り継ぎ,かなり時間をかけて,プラスペンリンの自宅も訪れました。
あいにく、そこに住んでいる方は不在でしたが、--近くの住人の方だったかどうか記憶にないですが--、その家にはアムネスティの活動をしているミュージシャンが住んでいるとのことでした。プラス・ペンリンの自宅の玄関のガラス窓に貼られたアムネスティのポスター(添付写真参照)からも,住んでいる人の人柄の一端が伺えます。
アムネスティの関係者が住むようになったのは、ラッセル夫妻が政治犯の釈放・解放運動の支援をしていた関係だろうと推察されます。