私の知っている平和主義者の中には,戦争に言及しないで歴史を子供に教えたいと望み,できるだけ長い間,この世の残酷さについて子供を無知にしておくほうがよいと考える者がいたし今でもいる。しかし,私は,知識の欠如(無知)に依存するような「逃避的かつ遁世的な美徳」を賛美することはできない。
歴史教育が少しでも始めるやいなや,隠さずにありのままの歴史を教えるべきである。★真実の歴史が私たちの与えたいと思っている道徳と矛盾するならば,我々の道徳はまちがっているにちがいないのであり,そのような道徳(倫理)は捨ててしまうほうがよいであろう。
私は,この上なく有徳ないくらかの人たちも含めて,多くの人が,事実(というもの)は不都合なものであると気づいていることを十分認める。しかし,そのように思うのは,それらの人たちの美徳のある種のひ弱さのせいである。真にたくましい倫理は,世の中で実際に起こっていることを全て知ったとしても,ただ強化されるだけのものである。
私たちは,無知のままに教育した若者が,世の中にはこんな悪(徳)があるのだということを発見すると,たちまち喜んで悪に走るというような危険を冒してはならない。★若い人たちに残酷さへの嫌悪感を植えつけないかぎり,彼らは残酷なことを慎むことはしないだろうし,残酷さが世の中にあるということを知らないかぎり,残酷さへの嫌悪感を持つことはできないのである.
I have known some pacifists who wished history taught without reference to wars, and thought that children should be kept as long as possible ignorant of the cruelty in the world. But I cannot praise the “fugitive and cloistered virtue” that depends upon absence of knowledge. As soon as history is taught at all, it should be taught truthfully. If true history contradicts any moral we wish to teach, our moral must be wrong, and we had better abandon it. I quite admit that many people, including some of the most virtuous, find facts inconvenient, but that is due to a certain feebleness in their virtue. A truly robust morality can only be strengthened by the fullest knowledge of what really happens in the world. We must not run the risk that the young people whom we have educated in ignorance will turn to wickedness with delight as soon as they discover that there is such a thing. Unless we can give them an aversion from cruelty they will not abstain from it; and they cannot have an aversion from it if they do not know that it exists.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE11-120.HTM
[寸言]
権力者が権力を強めるにつれて自分(たち)の行為に甘くなり、ほとんどと言ってよいほど、圧政を行ったり、腐敗したりするようになるのは、歴史が証明している。
しかし、世間から権力批判を受けるようになると、自分たち(の政権)は民主的であり、独裁などという非難はあたらないと必ず弁解するが、そう言わなければならない事態こそ、すでに為政者が民衆から離れてしまっている証拠である。
そういう事態に危機感が強まり、国民の批判が強まり政権が崩壊すればよいが、そういう場合、多くの政府(国家)が行ってきたことは、海外(外国政府の横暴さなど)に目を向けさせることであった。仮想敵国を想定し危機を煽り、あるいは大規模な自然災害から国民の命を守るために、即ち、緊急事態に為政者が全権(指揮権)をふるえるようにするために必要だとし、非常事態措置法(緊急事態措置法)を通したり、必要なら憲法を改正するなどして、なし崩し的に、(結果として)国民が自分たちをしばる法律や社会体制をつくるという悲劇や喜劇が起こったことは忘れてはならない(あるいは知らなければならない)。
ナチス(ヒトラー)による政権掌握も、民主主義的な手続き(議会による賛成多数)によって、いわば「お試し改憲」によって、そういう事態が実現したのである。
現代日本においては、「客観的」で「不偏不党」の歴史教育や報道の名目で、政府批判につながるような学校教育や報道を規制する措置がいろいろ行われている。こういった政府のやり方を国民は許してはならないが、マスコミが政府のコントロール化にある限り、そういった動きをとめることは大変困難だと言わざるをえない。
ラッセルの次の言葉を日頃反芻する必要があるであろう。
「我々の時代において新しいこと(の一つ)は,権力者たち(政府その他大きな権力を持っている人たち)が,自分たちの(様々な)偏見を民衆に押し付けることができる力が増したことである。」
( What is new in our time is the increased power of the authorities to enforce their prejudices.
出典: Bertrand Russell: Symptoms of George Orwell’s 1984 (1954執筆). Also quoted on Who Said That? BBC TV, Aug. 8, 1958)