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知的戯言の概要(1943) n.12

(キリスト教における)罪には多くの種類があるけれども、そのうちの7つは致命的なものであり、悪魔(サタン)の策略(wiles)にとって最も成果のある分野性(に関する罪)である。 この問題に関する正統派カソリックの教義は、聖パウロ、聖アウグスティヌス、聖トマス・アクィナス、に見い出すことができる。独身でいることが最善であるが、禁欲の才能がない者結婚してもよい(とされる)結婚(生活)における性交は、もしそれが子孫がほしいという欲求によって動機づけられているのであれば罪ではない。結婚外のすべての性交は罪である。 また妊娠(conception)を防ぐためになんらかの手段がとられるなら結婚(生活)における性交も罪である(とされる)妊娠中絶(Interruption of pregnancy )は、たとえ -医師の所見で(in medical opinion)- それが母親の命を救う唯一の方法であるとしても、罪である(とされる)。 というのは、医師の所見は誤り易い(fallible)からであり、そうして、神はもし適切と見れば常に奇跡によって生命を救うことができるからである(この見解は米国のコネチカット州の法律に具体化されている)。性病は罪に対する神の罰である。 罪を犯した夫を通して、無実の夫人(妻)及びその子供にふりかかることは確実である。しかし、このことは神の摂理の神秘的な分配(配剤)(dispensation of Providence)であり、それを疑問に思うことは不信心(不敬)なことであるだろう。我々はまた、性病がなぜコロンブスの時代まで神によって実施されなかったのか(instituted 設けられなかったのか)、その理由も尋ねてはならない。(訳注:性病は昔から存在していたが、梅毒がヨーロッパに最初にもちこまれたのは、1493年、コロンブスのアメリカ探検隊の隊員が西インド諸島の原住民との性交渉による感染が原因とされているため。)それ(性病)は、神の定めた罰なのであるから、それをさけるためのあらゆる手段もまた罪である。もちろん道徳的な生活(結婚生活)は別である。(カトリックにおいては)結婚は、名目上は、解消不能なものである。が、結婚しているように思われる多くの人々は、結婚の解消は不能ではない。有力な(影響力を持つ)カソリック教徒のばあいには結婚を無効とするなんらかの理由(ome ground for nullity)を発見できることがしばしばあるが、貧乏人にとっては、おそらく性的能の場合を除いてはようなぬけ道はまったくない。 離婚して再婚する者は神の眼からみれば姦通の罪を犯すことなのである。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.12
Although there are many kinds of sin, seven of which are deadly, the most fruitful field for Satan’s wiles is sex. The orthodox Catholic doctrine on this subject is to be found in St. Paul, St. Augustine, and St. Thomas Aquinas. It is best to be celibate, but those who have not the gift of continence may marry. Intercourse in marriage is not sin, provided it is motivated by desire for offspring. All intercourse outside marriage is sin, and so is intercourse within marriage if any measures are adopted to prevent conception. Interruption of pregnancy is sin, even if, in medical opinion, it is the only way of saving the mother’s life; for medical opinion is fallible, and God can always save a life by miracle if He sees fit. (This view is embodied in the law of Connecticut.) Venereal disease is God’s punishment for sin. It is true that, through a guilty husband, this punishment may fall on an innocent woman and her children, but this is a mysterious dispensation of Providence, which it would be impious to question. We must also not inquire why venereal disease was not divinely instituted until the time of Columbus. Since it is the appointed penalty for sin, all measures for its avoidance are also sin — except, of course, a virtuous life. Marriage is nominally indissoluble, but many people who seem to be married are not. In the case of influential Catholics, some ground for nullity can often be found, but for the poor there is no such outlet, except perhaps in cases of impotence. Persons who divorce and remarry are guilty of adultery in the sight of God.  Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943  Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
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知的戯言の概要(1943) n.11

 (カトリック)教会が、医学研究の関係で、死体の解剖を認可(是認)したのは、非常にゆっくりかつ不承不承にであった。解剖の先駆者はヴェサリウス[Andreas Vesalius, 1514-1564, 近代解剖学の祖/当時神聖ローマ帝国の支配下にあったブリュッセルの医者の家に生まれた。]であり、彼は皇帝チャールス五世〔ドイツ皇帝;在位1516-1556〕の宮廷医だった。彼は医者としての技能は優れていたので、皇帝は彼を保護した。しかし、皇帝の死後、彼はトラブルに巻き込まれた。彼が解剖していた死体はナイフ(手術用メス)の下でまだ生きている徴候を示したとのことで、彼は殺人のかどで告発された。その 査問は国王フィリップ二世[スペイン国王:在位1556-1598」によって、寛大に取り扱われ、ヴェサリウスにはただ聖地(パレスチナ)への巡礼にでるようとの判決がくだされただけであった。母国への帰路、彼が乗った船が難破し、彼は過労死した。この時以後、数世紀の間、ローマ教皇庁大学(the Papal University in Rome 単数形であることに注意)の医学生は、ただ、人体模型(訳注:lay figure フィギア;マネキン)を使って手術することを許されただけであり、(しかも)その人体模型からは生殖器の部分はとりのぞかれていた。(注:理想社刊の訳書では、”lay figure は「素人の書いた図形」と誤訳されている。)  死体は神聖なものであるということは、広く行き渡っている信仰である。この信仰は, エジ プト人によってさらに推し進められ、彼らの間では、それは死体をミイラにするという慣行へと導いた。この信仰は中国ではいぜんとしてその威力をふるっている(It still exists in full force in China. )。西洋医学を教えるために中国人に雇われたあるフランス人外科医は、彼の解剖用の死体の要望は(中国人に)恐怖の念をもって受け取られたが、そのかわり生きた罪人なら無制限に入手できると確約された、と語っている。彼がこの代替手段に反対したことは、彼を雇った中国人達には全く理解することができなかった

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.11
It was only very slowly and reluctantly that the Church sanctioned the dissection of corpses in connection with the study of medicine. The pioneer in dissection was Vesalius, who was Court physician to the Emperor Charles V. His medical skill led the emperor to protect him, but after the emperor was dead he got into trouble. A corpse which he was dissecting was said to have shown signs of life under the knife, and he was accused of murder. The Inquisition was induced by King Phillip II to take a lenient view, and only sentenced him to a pilgrimage to the Holy Land. On the way home he was shipwrecked and died of exhaustion. For centuries after this time, medical students at the Papal University in Rome were only allowed to operate on lay figures, from which the sexual parts were omitted. The sacredness of corpses is a widespread belief. It was carried furthest by the Egyptians, among whom it led to the practice of mummification. It still exists in full force in China. A French surgeon, who was employed by the Chinese to teach Western medicine, relates that his demand for corpses to dissect was received with horror, but he was assured that he could have instead an unlimited supply of live criminals. His objection to this alternative was totally unintelligible to his Chinese employers.  Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943  Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
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知的戯言の概要(1943) n.10

      火葬

 この関係から、キリスト教正統派は奇妙に火葬に反対するが、それは神の全能を十分に認識していないこと(注:彼らは信じていると思っているが実際には信じていないこと)を示しているように思われる。焼かれた肉体地下に埋葬されてうじ虫と化した肉体よりも、神は(肉体の再生のために)再び寄せ集めること困難だろうと考えられる(考えられている)。空気中から微粒子を集め、燃焼の化学的作業を元に戻すことはいくらか骨の折れる作業であることは疑いないだろう。しかし そのような作業が神にとって不可能であると想像することは確かに神を冒することである。(そこで)火葬に反対することは重大な異端を意味する(注:神の全能を信じないことは異端のはず、ということ)と、私は結論を下す。しかし、私の意見(判断)がキリスト教正統派にとって大いに重きをなすかどうかは疑問である。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.10
In this connection the orthodox have a curious objection to cremation, which seems to show an insufficient realization of God’s omnipotence. It is thought that a body which has been burnt will be more difficult for Him to collect together again than one which has been put underground and transformed into worms. No doubt collecting the particles from the air and undoing the chemical work of combustion would be somewhat laborious, but it is surely blasphemous to suppose such a work impossible for the Deity. I conclude that the objection to cremation implies grave heresy. But I doubt whether my opinion will carry much weight with the orthodox.
 Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943  Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
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知的戯言の概要(1943) n.9

 カトリック教会の公認の哲学者の聖トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225年頃-1274年:イタリアの神学者・哲学者)はある一つの非常に重大な問題を長々と真面目に論じたが、(I fear 残念ながら)その問題を現代の神学者達は不当に軽視しているのではないかと、私には思われる。アクィナスは、人肉以外何も食べたことがなく、その父母も(before 彼が生まれる前に)同様の傾向を持っていた(=ほとんど人肉しか食べていなかった)、一人の人喰い(a cannibal)を想像している(訳注:赤ん坊の時は母乳ではなく、人肉スープを飲んでいるということになりそうです)。(人肉しか食べたことがないわけなので)彼の肉体のあらゆる微粒子(細胞など)は当然のこと、他人のものに属している(ことになる)。 人喰いによって食べられた人々の微粒子は永遠に(through all eternity)欠けるとは想定できない。しかし、もし(食べられてしまった人々の肉体が復活して)人喰いの肉体の微粒子が欠けるようなことになったら、その人喰いに何が残るだろうか? もし、彼の肉体(の諸部分)が全てそのもとの所有者(食べられた人々)に(肉体の復活によって)戻るならば、どのようにして彼(人喰い)は地獄できちんと焼かれることができるのだろうか? これは聖トマスが正しくも認識したように、人を当惑させる問題である。(訳注:あくまで神学及び哲学上の問題です。)

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n9
St. Thomas Aquinas, the official philosopher of the Catholic Church, discussed lengthily and seriously a very grave problem, which, I fear, modern theologians unduly neglect. He imagines a cannibal who has never eaten anything but human flesh, and whose father and mother before him had like propensities. Every particle of his body belongs rightfully to someone else. We cannot suppose that those who have been eaten by cannibals are to go short through all eternity. But, if not, what is left for the cannibal? How is he to be properly roasted in hell, if all his body is restored to its original owners? This is a puzzling question, as the Saint rightly perceives.
 Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943  Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7: More info.: http://www.ditext.com/russell/rubbish.html

知的戯言の概要(1943) n.8

 罪であることにも、罪でないことにも、同様に(equally)、私は当惑させられる。(訳注:”equally”は「罪であること」と「罪でないこと」の両方にかかっている。つまり、この後を読めばわかるように、「動物を殺すことは罪でない」ということにも当惑させられること。しかし、理想社版の山田英世・訳では、原文にない「の区別」を補って、「罪であることと罪でないこと(の)区別によって私はひどく当惑させられる」と訳出している。) 動物虐待防止協会(動物愛護協会)ローマ教皇に支持を求めた時、人間は下等動物に対しては義務を負っておらず、動物を虐待することは罪ではないとの理由で、彼は支持することを断った。これは動物は魂を全く持っていないという理由からである。他方、あなた(注:男性)は、自分の亡き妻の妹(あるいは姉)と結婚することは、たとえ両者が結婚したいとどれだけ強く望んでいても、邪悪であると、少なくとも(カトリック)教会はそのように教える(訳注:同上、山田・訳では「your deceased wife’s sister(あなたの亡くなった妻の妹or姉)を「自分の病気の妻の妹」と誤訳している。「deceased」は「死亡」の婉曲表現だと言うことぐらい・・・?)  これは、(結婚の結果起こるかもしれない)何らかの不幸が理由ではなく、聖書に書かれている文章がその理由である。  使徒信条のなか一箇条である肉体の復活は様々の奇妙な結果を生み出す教義である。 それほど昔のことではないが、ある一人の著作家が世界の終末の日を計算する独創的な方法を持っていた。彼は、世界の終わりの日(終末日)に全ての人に必要なものを与えるのに十分なだけの人体に必要な成分というものがなければならない、と論じた。手に入る原材料を注意深く計算し、彼は、そこで、その分をさし引い てあまりの利用可能な原材料を注意ぶかく計算することによっ、それはすべてある特定の日までに消費されてしまうだろうと、結論を下した。その期日がやってくればこの世界は終 るにちがいない。なぜなら、そうでないと、必要な原材料が不足して肉体の復活は不可能となるに違いないからである。不幸にも私は、その日(世界の終末の期日)がいつだったかを忘れしまっている。しかし、それはそう遠くではない、と私は信じている(注:からかい言葉)。

知的戯言の概要(1943) n.7

A woman with medium length red hair, wearing a pink shirt, light blue leggings and gray shoes, kneels on a kneeler with soft beige cushion, as she closes and bows her head to pray, both hands together in praying position and resting on top of a beige confessional, that is separating her from a seated priest with balding gray hair, wearing a black clergy gown, white collar, a violet stole worn around his neck, black pants and black shoes, both of his eyes are closed in concentration

 「罪」という概念全体が非常に人を戸惑わせる概念だと私には思われるが、これは私の罪深い性格によるものであることは疑いもないことである(注:冗談)。もし「罪」というものが、無用の損害をさけることにあるというのであれば、私も理解できる。数年前、イギリスの上院(貴族院)で、苦痛がはげしくて耐えられない場合安楽死を合法 化する法案が提出された。数枚の診断書患者の同意が必要であった。私には、単純に考えて、患者の同意を要求することは当然のことだと思われた。しかし、前カンタベリー大僧正 -カンタベリー大僧正は罪にかんするイギリスの公認専門家である―  はそのような見解は誤りであると説明した。 (即ち、)患者の同意は安楽死を自殺にかえるものであり、そうして自殺は罪である(とのことであった)。上院の閣下達(貴族院議員諸君)はこの権威の声に耳を傾けた(傾聴した)、そうして、その法案を否決 した。その結果、大僧正を ―そして、もし彼が正しく報告しているとすれば、(彼が信ずる)神を喜ばせた。癌の犠牲者達はいぜんとして、かれらの医者あるいは看護婦が殺人のとがめを受ける危険をおかしてもよいとするほど十分になさけ深くないかぎり、何ヶ月も全く無用の苦しみに耐えなければならないのである。そのような拷問をじっと見つめる(熟視熟考する)ことから喜び得る神というものの概念に私は困難を見出す(理解できない)。そしてそのような気まぐれな残忍行為をなしうる神が もしあるとすれば、その神は崇敬に値するものとはとても考えられない。 しかしこのことはただ私が 道徳的にどんなに堕落しているかを証明するものにほかならない(注:もちろん、皮肉)。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.7 .
The whole conception of “Sin” is one which I find very puzzling, doubtless owing to my sinful nature. If “Sin” consisted in causing needless suffering, I could understand; but on the contrary, sin often consists in avoiding needless suffering. Some years ago, in the English House of Lords, a bill was introduced to legalize euthanasia in cases of painful and incurable disease. The patient’s consent was to be necessary, as well as several medical certificates. To me, in my simplicity, it would seem natural to require the patient’s consent, but the late Archbishop of Canterbury, the English official expert on Sin, explained the erroneousness of such a view. The patient’s consent turns euthanasia into suicide, and suicide is sin. Their Lordships listened to the voice of authority, and rejected the bill. Consequently, to please the Archbishop — and his God, if he reports truly — victims of cancer still have to endure months of wholly useless agony, unless their doctors or nurses are sufficiently humane to risk a charge of murder. I find difficulty in the conception of a God who gets pleasure from contemplating such tortures; and if there were a God capable of such wanton cruelty, I should certainly not think Him worthy of worship. But that only proves how sunk I am in moral depravity.  Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943  Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
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知的戯言の概要(1943) n.6

 もし信心深い人々の言うことを信じるべきであるとすれば、神の慈悲は時折、不思議なほど選択的(選り好みをするもの)である。『千歳岩(Rock of Ages)』の著者トップレディ(Augustus Toplady, 1740-1778)は ある牧師館から別の牧師館に移動した。(そうして)その一週間後に、彼が前に住んでいた牧師館が火事で焼け落ち、その牧師館に新しく赴任してきていた教区牧師に大きな損失をもたらした。その結果を受けて、トップレディは神に感謝した。 しかし、その新任の教区牧師がどうしたか(感謝したかどうか)は知られていない。ボロウ(George Borrow、1803-1881)は(自著)『スペインの聖書』のなかで、彼が、山賊が出没する山道をどうやって無事に横切っていったか(越していったか)を記録している。 けれども、彼の次(後)に山を越した一行は山賊に襲われ(be set upon)、彼らの何人かは殺害された。ボロウは、これを聞き、トップレデイ同様、神に感謝した。    
 我々は(学校の)教科書でコペルニクス天文学(太陽が地球の周りを回るのではなく、地球が太陽の周りを回ること)を教わるけれども、それはいまだ我々の中に浸透しておらず、占星術に対する信仰を打ち破ることにすら成功していない。人々は、依然として、 神の計画は特に人間に言及しており、そして特別な摂理(Providence)が善人を手助けするばかりでなく邪悪な人々を罰すると考えている。私は、自らを信心深いと考える人々による(神に対する)冒涜行為(blasphemies)にショックを受けることが時々ある。たとえば、いつも入浴用の化粧着(バスローブ)を着ることなしには決して入浴しない修道女(の例である)。 誰も彼女達を見ることをできないことから、なぜかと尋ねると、彼女達は「おお、しかし、あなたは神が見ていること忘れています!」と答える。明らかに彼女達は神を出歯亀(ピーピング・トム)だと考えている(想像している)ようである。出歯亀としての神は、全能の力によって浴室内を透視する(覗き見する)ことができるがバスローブによって裏をかかれるようである。 このような考えかたは、私には興味深い(strikes me as curious)。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.6
ometimes, if pious men are to be believed, God’s mercies are curiously selective. Toplady, the author of Rock of Ages, moved from one vicarage to another; a week after the move, the vicarage he had formerly occupied burnt down, with great loss to the new vicar. Thereupon Toplady thanked God; but what the new vicar did is not known. Borrow, in his “Bible in Spain,” records how without mishap he crossed a mountain pass infested by bandits. The next party to cross, however, were set upon, robbed, and some of them murdered; when Borrow heard of this, he, like Toplady, thanked God. Although we are taught the Copernican astronomy in our textbooks, it has not yet penetrated to our religion or our morals, and has not even succeeded in destroying belief in astrology. People still think that the Divine Plan has special reference to human beings, and that a special Providence not only looks after the good, but also punishes the wicked. I am sometimes shocked by the blasphemies of those who think themselves pious — for instance, the nuns who never take a bath without wearing a bathrobe all the time. When asked why, since no man can see them, they reply: “Oh, but you forget the good God.” Apparently they conceive of the Deity as a Peeping Tom, whose omnipotence enables Him to see through bathroom walls, but who is foiled by bathrobes. This view strikes me as curious.
 Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943 Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
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知的戯言の概要(1943) n.5

 ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin, 1706-1790:米国の政治家、著述家、気象学者)が避雷針を発明した時、英米両国の聖職者は、ジョージ三世(英国の国王/在位:1760-1820)の熱烈な支持のもと、避雷針は神の意志を打ち負かそうとする不信心な企て(不敬な行い)であるとして非難した。というのは、物事を正しく考える人なら全て知っているように、稲妻(雷)は不信心あるいは何らかのその他の重大な罪を罰するために神によって発せられるのであり、有徳な人は決して稲妻に打たれることはないからである。それゆえ、もし神が 誰かに一撃を加えたいと欲するのであるならば、ペンジャミン・フランクリン神の計画(His design 神の計画・意図)を打ち負かすべきではない。実際、神の計画を打ち負かすことは罪を犯した者が逃げるのを助けることである。しかし、 もし我々がボストン(在住の)の指導的神学者の一人である著名なプライス博士の言うことを信じるとすれば、 神は事に当たって動じなかったのである(equal to the occasion その場に臨んで動じない/フランクリンが「避雷針」を発明した時に動じなかっ「た」こと)。 「賢明なフランクリン博士によって発明された鉄の尖端 (iron points) 」によって稲妻が効き目がないものにされてしまったために、マサチューセッツ州は地震にみまわれ、ブライス博士は、この地震を神の「鉄(製)の尖頭」に対する激怒によるものだと認識した。この問題についての説教のなかで、彼は言った。「ボストンではニュー・イングランドの他のどこよりも (多くの避雷針が)建てられており(erected)、それで、ボストンの揺れ方はいっそう恐ろしいものであるように思われます。ああ! 神の強大な手( the mighty hand of Go)から逃れることは決してできないのです」。しかし、明らかに、神の摂理(Providence)はボストン(の人々)をその不道徳さ(wickedness)を治す望みを全てあきらめてしまった。というのは、 避雷針はますます一般に広まっていったが、マサチューセッツ州の地震はまれなままであったからである。それにもかかわらず、プライス博士の見解、あるいはそれに非常に似た見解は、依然として、現在生きている最も影響力ある人々によって支持されているのである。(たとえば)かつて、インドでいくつかのひどい地震があった時マハトマ・ガンジー は、彼の同胞たちに これらの災害は彼ら(同胞たち)の罪に対する罰として(神から)送られたものであると厳粛に警告した。
 私自身が生まれた島国イギリスにおいてさえ、この見解は依然として存在している。先の戦争(注:第一次世界大戦)の間、英国政府は国内における食糧の生産を大いに奨励した。1916年に、事がうまくいっていなかった時、某スコットランドの牧師は新聞に投書して、軍事上の失敗は、政府の認可を得てじゃがいもを(キリスト教の)安息日に植えたせいであると言った。しかし不幸はさけられた。それはドイツ人がモーゼの十戒の一つだけでなく、その全てに従わなかったという事実によったのである。(訳注:モーゼの十戒の第4が「安息日を守ること」であり、英国はこれを破っただけだが、ドイツは十戒の全てを破ったという牧師さんの主張です。しかし、第6戒「殺人をするなかれ」は防衛のためではあっても、英国人も破っています。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.5
When Benjamin Franklin invented the lightning rod, the clergy, both in England and America, with the enthusiastic support of George III, condemned it as an impious attempt to defeat the will of God. For, as all right-thinking people were aware, lightning is sent by God to punish impiety or some other grave sin — the virtuous are never struck by lightning. Therefore if God wants to strike any one, Benjamin Franklin ought not to defeat His design; indeed, to do so is helping criminals to escape. But God was equal to the occasion, if we are to believe the eminent Dr. Price, one of the leading divines of Boston. Lightning having been rendered ineffectual by the “iron points invented by the sagacious Dr. Franklin,” Massachusetts was shaken by earthquakes, which Dr. Price perceived to be due to God’s wrath at the “iron points.” In a sermon on the subject he said, “In Boston are more erected than elsewhere in New England, and Boston seems to be more dreadfully shaken. Oh! there is no getting out of the mighty hand of God.” Apparently, however, Providence gave up all hope of curing Boston of its wickedness, for, though lightning rods became more and more common, earthquakes in Massachusetts have remained rare. Nevertheless, Dr. Price’s point of view, or something very like it, is still held by one of the most influential of living men. When, at one time, there were several bad earthquakes in India, Mahatma Gandhi solemnly warned his compatriots that these disasters had been sent as a punishment for their sins. Even in my own native island this point of view still exists. During the last war, the British Government did much to stimulate the production of food at home. In 1916, when things were not going well, a Scottish clergyman wrote to the newspapers to say that military failure was due to the fact that, with government sanction, potatoes had been planted on the Sabbath. However, disaster was averted, owing to the fact that the Germans disobeyed all the Ten Commandments, and not only one of them..  
Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943 Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
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知的戯言の概要(1943) n.4

 過去四百年を通して - その間、科学の成長は、徐々に、人々(人間)に自然の行程・あり方(the ways of nature)についての知識や、自然の諸力を支配する知識の、獲得方法を示してきた - 聖職者は天文学や地質学、解剖学や 生理学 生物学や心理学や社会学の面で科学と負け戦を戦ってきた。聖職者達は、一つの陣地(position 場所)から追い出されると、別の陣地(場所)を敷いた(taken up another position)。(即ち)天文学で形勢が悪化した後、彼ら(聖職者達)は地質学の勃興をさまたげることに最善を尽くした。彼ら生物学においてはダーウィンと戦い、そうして、現在では、心理学と教育の科学的理論と戦っている。それぞれの段階で、彼らは公衆(一派大衆)に、以前の彼らの無知蒙昧主義(obscurantism  事実・表現・意味などを〕故意に曖昧にするやり方)を忘れさせようと努めているそれは、彼らの現在の無知蒙昧主義をあるがままに認められないようにするためである。科学の勃興以来聖職者達の間に見られた不合理性(irrationality)の例を少し注目してみよう、そうして、その後で、彼ら(聖職者)以外の人類が彼らよりもいくらかでもましであるかどうか、探究してみよう。

 Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.4
Throughout the last 400 years, during which the growth of science had gradually shown men how to acquire knowledge of the ways of nature and mastery over natural forces, the clergy have fought a losing battle against science, in astronomy and geology, in anatomy and physiology, in biology and psychology and sociology. Ousted from one position, they have taken up another. After being worsted in astronomy, they did their best to prevent the rise of geology; they fought against Darwin in biology, and at the present time they fight against scientific theories of psychology and education. At each stage, they try to make the public forget their earlier obscurantism, in order that their present obscurantism may not be recognized for what it is. Let us note a few instances of irrationality among the clergy since the rise of science, and then inquire whether the rest of mankind are any better.
Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943 Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
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知的戯言の概要(1943) n.3

 (所謂)信仰の時代(The Age of Faith)は -それは新スコラ学(注:19世紀後半のカトリック教会内に起こった、教会内外の近代主義化を排し、中世のスコラ哲学、特にトマス=アクィナスの哲学を復興しようとする運動)によって称賛されている時代であり- 聖職者が勝手にふるまった時代であった(注:have everything one’s own way 我儘のし放題をする)。日常生活は、聖者によって行われる奇跡や、悪魔や黒魔術師によって犯される魔法・呪術(wizardry)によって満たされていた。何千という魔女が火刑に処せられた。人々(人間)の罪は疫病(pestilence)や飢饉により、また地震、 洪水、火事によって罰せられた。それにもかかわらず(and yet)、おかしなことを言うようだが、彼ら(当時の人々)は今日におけるよりももっと罪深かった(注:「信仰の時代」にもかかわらず・・・というニュアンス)。(当時は)この世界について科学的に知られていることはわずかであった。 ごく少数の人達は、地球はまるいというギリシャ人の証明を記憶していたが、ほとんど人々は、地球に反対側(注:antipodes 対蹠地 たいしょち)があるという考えを物笑いにしていた(make fun of)。(自分たちが住んでいる場所の,地球の)反対側に人間がいると想定することは異端であった。人類の大多数は呪われていると一般に考えられていた(現代のカトリック教徒はこれよりも穏健な見解をとるけれども)。(いろいろな)危険があらゆるところに(at every turn)潜んでいると考えられた。修道僧が(まさに)食べよううとしている食物の上に悪魔が住み着き、一口食べるごとに(その前に)十字を切ることを省略する不注意な者の体に取り付くのであった。古風な人々はいまだ人がくしゃみをすると「おん身に幸あれ(bless you お大事に)」というが、彼らはこの慣習ができあがった理由は忘れてしまっている。その理由は、人々はくしゃみによって魂をふきとばしてしまい、そうして、彼らの魂が戻ることができないうちに、潜んでいる悪魔が魂不在の体のなかに入り込みがちである、と考えられていたのである。しかし、もし誰かが「御身の上に幸いあれ」と言えば、悪魔どもは追い払われたのである。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.3
The Age of Faith, which are praised by our neo-scholastics, were the time when the clergy had things all their own way. Daily life was full of miracles wrought by saints and wizardry perpetrated by devils and necromancers. Many thousands of witches were burnt at the stake. Men’s sins were punished by pestilence and famine, by earthquake, flood, and fire. And yet, strange to say, they were even more sinful than they are nowadays. Very little was known scientifically about the world. A few learned men remembered Greek proofs that the earth is round, but most people made fun of the notion that there are antipodes. To suppose that there are human beings at the antipodes was heresy. It was generally held (though modem Catholics take a milder view) that the immense majority of mankind are damned. Dangers were held to lurk at every turn. Devils would settle on the food that monks were about to eat, and would take possession of the bodies of incautious feeders who omitted to make the sign of the Cross before each mouthful. Old-fashioned people still say “bless you” when one sneezes, but they have forgotten the reason for the custom. The reason was that people were thought to sneeze out their souls, and before their souls could get back lurking demons were apt to enter the unsouled body; but if any one said “God bless you,” the demons were frightened off.
Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943 Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
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