・・・。家畜は、いつも餌をくれる人の姿を見ると、餌を期待する。こういった斉一性(一様性)に対するいささか粗雑な期待はすべて、まちがいやすいものだということをわれわれは知っている。雛に生まれてからずっと毎日餌をやってきた人間も、最後には餌をやらずにその首をひねてしまう。このことは、自然の斉一性に関してもっと洗練された見解をもっていた方が雛にとって役にたったであろうということを示している。
しかしながら、そうした期待のまちがいやすさにもかかわらず、やはりその期待はある。あることが何度かくりかえして起れば、それだけで,人間や動物にまたそれが起るだろうという期待を抱かせる。このようにして,われわれの本能は、太陽がまた昇るだろうということを信じさせるが、その場合われわれは、思いがけなく首をひねられる雛より以上の地位にいるわけではないのかもしれない。それゆえ、われわれは、過去にあった斉一性が未来に関する期待をひき起すという事実と、その期待の妥当性についての疑問がだされときになおその期待を重視するだけの合理的な理由があるかどうかという問題とを、区別しなければならないのである。
Domestic animals expect food when they see the person who feeds them. We know that all these rather crude expectations of uniformity are liable to be misleading. The man who has fed the chicken every day throughout its life at last wrings its neck instead, showing that more refined views as to the uniformity of nature would have been useful to the chicken.
But in spite of the misleadingness of such expectations, they nevertheless exist. The mere fact that something has happened a certain number of times causes animals and men to expect that it will happen again. Thus our instincts certainly cause us to believe the sun will rise to-morrow, but we may be in no better a position than the chicken which unexpectedly has its neck wrung. We have therefore to distinguish the fact that past uniformities cause expectations as to the future, from the question whether there is any reasonable ground for giving weight to such expectations after the question of their validity has been raised.
出典: The Problems of Philosophy, 1912, cahpt. 6: On Induction]
詳細情報:http://russell-j.com/07-POP06.HTM
[寸言]
ラッセルのこの「雛がある日突然首を捻られる」話は、よく引用されるものです。
実験科学(応用科学)は、結局この機能的推論によっており、1,000回予想通りだったとしても、1,001回目も同じとは限らない、という宿命的な限界を持っています。こういった分野においては、確率が重要となります。「哲学の問題は確率の問題だ」とまで言う哲学者もいます。人間(人類)は、大きな目で見れば、家畜が置かれた立場とそう異なるわけではない、とも言えそうです。
地球や人類は(太陽がダメになるまでの)あと数十億年は大丈夫か、それともそれは「幻想」にすぎないか? 、人類の運命やいかに!?