問題は、その仕事[核と平和の問題に関する科学者会議(=後にパグウォッシュ会議と呼ばれるようになった会議)の開催のための準備作業]をどのように遂行したらよいか、その様な会議をどこで開催したらよいか、それからとりわけ開催のための財政的裏づけをどうすれば得られるか、ということであった。私は、この会議はいかなる既成の団体の主義・主張にも縛られるべきではなく、完全に中立かつ自立したものであるべきだと確信していた。そして私以外の他の計画立案者も同様に考えた。けれども私たちは、英国では、仮に可能としても、自分から進んでその会議開催のために資金を提供しようとする者は個人にしろ団体にしろ一人も発見できなかった。また、紐つきでない自発的な支援者を見つけることはまったく不可能であった。そのすこし前、私はアメリカ在住のサイラス・イートン(Cyrus Eaton)から、私がなそうとしていることに賛成する温かい手紙を受け取っていた。彼は資金援助を申し出てくれていた。ギリシアの海運界の大立者アリストテレス・オナシス(Aristotle Onassis、1906年-1975年3月15日)もまた、もし会議をモンテ・カルロで開くならば資金援助をすると申し出ていた。サイラス・イートンは、今度は、もしその会議を自分の出生地である(カナダの)ノヴァ・スコシアのパグウォッシュ村で開くという条件で自分の申し出を確約した。彼は以前この会議と性質をまったく異にしているわけではない(→やや似ている)他の異なった種類の会議をそこで何度か開催したことがあった。私たちはイートンの示した条件に同意した。(写真:「第一回パグウォッシュ会議の参加者たち」-ラッセルは病気のため不参加)
The problem was how the work was to be carried out and where such a conference should be held and, above all, how it could be financed. I felt very sure that the conference should not be bound by the tenets of any established body and that it should be entirely neutral and independent; and the other planners thought likewise. But we could find no individual or organisation in England willing, if able, to finance it and certainly none willing to do so with no strings attached. Some time before, I had received a warm letter of approbation for what I was doing from Cyrus Eaton in America. He had offered to help with money. Aristotle Onassis, the Greek shipping magnate, had also offered to help if the conference were to take place at Monte Carlo. Cyrus Eaton now confirmed his offer if the conference were to be held at his birthplace, Pugwash in Nova Scotia. He had held other sorts of conferences there of a not wholly dissimilar character. We agreed to the condition.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 2: At home and abroad, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB32-320.HTM
[寸言]
パグウォッシュ会議は、1995年にノーベル平和賞を受賞した。しかし、ラッセルは米国をベトナム戦争その他で非難していたので、(アインシュタインとともに)パグウォッシュ会議の開催に尽力したラッセルはノーベル平和賞を受賞することはなかった。(因みに、平和運動においてラッセルほどの功績があるわけではない米国人のライナス・ポーリングは、ノーベル化学賞だけでなく、ノーベル平和賞も受賞している。)