人間の,帰納(推理)へと向かう動物的な性癖

 ミルは数学を一定程度知っていたが(中村秀吉氏は,”a certain amount of” を”相当”と訳している。),数学的に考えることを知らなかった彼の(言う)因果法則は数理物理学で使われているものではない。それは未開人や哲学者たちによって日常生活における行為において使われる実際的な行動原理(格言)であるが,微分積分学を知っているいかなる人によっても,物理学では使われないものである。物理法則(物理学の法則)はミルの因果法則のように,Aは常にBによって随伴される(Aならば必ずB)とは決して言わない。物理法則は,Aが現存する時には,ある一定方向の変化が存在することを主張するだけである。A(自身)もまた変化するので,変化の方向もそれ自身絶えず変化し続けている。因果法則は「AはBを惹き起こす」という形をしているという考えはあまりに原子(論)的であり,変化の連続性を想像上理解しているいかなる人によっても受け入れられなかった。
しかし独断的にならないようにしよう。物理的変化は連続的でなく,爆発的(注:原子核の周りをまわる電子が軌道を変える時などは「断続的」/「不連続」)であるという人たちがいる。けれども,これらの人々もまた,個々の事象はいかなる因果的な規則性にも従わないとも言うし,世界の外見的な規則性はただ平均の法則のみによっていると言う(注:このあたりは,量子力学の研究者のことを言っていると思われる)。私はこの学説が正しいか間違っているか知らないが,とにかくそれはミルの因果法則とは非常に異なったものである。
ミルの因果法則は,事実,日常的にまた非科学的意味において,ただおおざっぱかつ近似的に真であるにすぎない。にもかかわらず,ミルは,ほかのところではあてにならないとしている推論--(即ち)単純枚挙による帰納推理--によってこの法則が証明されていると考えている。この過程(推論過程)はあてにならないばかりでなく,より多くの場合において,真なる結果よりも偽なる結果に決定的に導くことをまったく明らかに証明できる。AとBの二つの特性をそれぞれもっているN個の対象をみつけたあとで,Aの特性をもっている別の対象をみつけると,その対象はBの特性をもっていそうでないことが容易に証明される。このことは(この事実は),我々の帰納(推理)へと向かう動物的な性癖は帰納(推理)が正しい結果を与えがちである事例に閉じ込められるという事実によって,常識からは隠されている。
次のこと(事例)を誰も行わない帰納(推理)の一例としてとろう。カントがかつて見たあらゆる羊はケーニヒスベルクから10マイル以内にいたが,彼はあらゆる羊がケーニヒスベルクから10マイル以内にいると帰納する気にはまったくならなかった。(注:一般の常識人は,もしもケーニヒスベルクのことしか知らなければ,幼い子どもがそうであるように,羊はケーニヒスベルクにしかいないと思ってしまいがちだということ? 羊だとわかりにくければ,「こうのとり」とか「雷鳥」とかにすれば、そう思いがち?)

Mill, although he knew a certain amount of mathematics, never learned to think in a mathematical way. His law of causation is not one which is employed in mathematical physics. It is a practical maxim employed by savages and philosophers in the conduct of daily life, but not employed in physics by anyone acquainted with the calculus. The laws of physics never state, as Mill’s causal laws do, that A is always followed by B. They assert only that when A is present, there will be certain directions of change; since A also changes, the directions of change are themselves continually changing. The notion that causal laws are of the form “A causes B” is altogether too atomic, and could never have been entertained by anybody who had imaginatively apprehended the continuity of change.

But let us not be too dogmatic. There are those who say that physical changes are not continuous but explosive. These people, however, also say that individual events are not subject to any causal regularity, and that the apparent regularities of the world are only due to the law of averages. I do not know whether this doctrine is right or wrong; but, in any case, it is very different from Mill’s.
Mill’s law of causation is, in fact, only roughly and approximately true in an everyday and unscientific sense. Nevertheless, he thinks it is proved by an inference which elsewhere he considers very shaky: that of induction by simple enumeration. This process is not only shaky, but can be proved quite definitely to lead to false consequences more often than to true ones. If you find n objects all of which possess two properties, A and B, and you then find another object possessing the property A, it can easily be proved that it is unlikely to possess the property B. This is concealed from common sense by the fact that our animal propensity toward induction is confined to the sort of cases in which induction is liable to give correct results. Take the following as an example of an induction which no one would make: all the sheep that Kant ever saw were within ten miles of Konigsberg, but he felt no inclination to induce that all sheep were within ten miles of Konigsberg.
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/1097_JSM-030.HTM

<寸言>
経験を重んじる人間は,少しの経験で,過大な帰納推理をしがち。小さなことであればこれは問題ないが、戦争と平和の問題のような大きな問題の時は,大変惨めな結果を招きやすい。情報が国によって隠されていた戦前(日本)は,多くの国民が間違った帰納推理を行っていた。国や地方自治体その他、あらゆる大きな組織において「情報公開」の重要性を多くの国民が理解しているはずだが、それにしては、(政府にとって都合の悪い情報は特定秘密にしてしまいがちであるのに)政府の情報公開の対し日本の国民甘すぎると言わざるを得ない。

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