ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その3_ストローソン氏「指示について」n.02

 ストローソン氏の論文には、私がかつて自己中心的語について考察したことを示すような言葉は一語も見当らない。また(still less いわんや)彼が自己中心的語について主張(擁護)する理論が、既に私が非常に長々とかつて相当詳しく述べた理論そのものであることを示す言葉は一語も見当らない(ラッセルの以下の著作を参照のこと:An Inquiry into Meaning and Truth, Chapter VII, and Human Knowledge, Part II. Chapter IV)。
 彼がそのような語(自己中心的語)について言うところの要点はそれらの語の指示するもの(言及するもの)が、それらの語が用いられる時と場所に依存するという,全く正しい陳述である。このことについては(ラッセル著)『人間の知識』(p.107) から一段落を引用するだけで足りる(であろう)。


「これ」(this) という語は、この語が用いられるその瞬間において、(当該人物の)注意の中心を占めている(occupy 専有している)いかなるものであっても、指示する(denote 指し示す)。自己中心的ではない語に関しては、一定なものは指示された対象における何ものかであるが、「これ(this)」はそれが用いられる機会ごとに異なった対象を指示する(指し示す)。(つまり、)この場合(自己中心的語の場合)一定なものは、指示される対象ではなく、その対象とその語の特定の使用との関係である。「これ」という語が用いられるときはいつでも、それを用いる人が何ものかに注意を向けており、その何ものかをその語は指示する(言及する)のである。(これに対し)自我中心的でない語の場合には、その語の用いられるそれぞれ異なった機会というものを区別する必要はない(のである)。しかし、自己中心的語についてはそれを区別しなければならない。というのは、自我中心的語の指示するものはその語の特定の使用に対して一定の関係をもつところのあるもの(なんらかのもの)だからである。」

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