第17章 権力の倫理学 n.12


 私としては,善悪は個々人のなかに具体的に表現されるものであって,主として社会の中に表現されるものではない,と考える。組合国家(注:corporative State: ファシズム体制下のイタリアで,ムッソリーニがつくった国家のこと。労働の資本への隷属をはかるため個人と国家との間に官製組合を組織したのでこのように呼称される。)を支持するために用いることができる若干の哲学 -特にヘーゲルの哲学- は,倫理的特質を(個人ではなく)社会そのものにありとし(帰し),そうして,その市民の大部分が(肉体的及び精神的に)哀れであっても国家は称賛すべきものであるとする(attribute 帰する/ありとする)。そのような哲学は権力の保有者の特権を正当化するためのトリック(策略/ごまかし)であり,また,我々の「政治」がどのようなものであろうと,非民主的な「倫理」を支持する妥当な(合理的な)論拠はまったくありえない,と私は考える。私の言う非民主的倫理というのは,人類の一部を選び出し,「これらの人々は良きものを楽しむべきであり,他の人々はただ彼らに奉仕すべきである(minisiter to 役に立つべき)」と言うような倫理のことである。私は,いかなる場合においてもそのような倫理を拒否するが,しかし,前章で見たように,そのような倫理は,自己反駁的な不利な点(立場)をもっている。というのは,実際においては,超人たちのために貴族主義的な理論家が想像しているような種類の生活を超人たちが暮らすこと(送ること)はできるだろうということはとてもありそうもないからである。

Chapter 17: The Ethics of Power, n.121 For my part, I consider that whatever is good or bad is embodied in individuals, not primarily in communities. Some philosophies which could be used to support the corporative State – notably the philosophy of Hegel – attribute ethical qualities to communities as such, so that a State may be admirable though most of its citizens are wretched. I think that such philosophies are tricks for justifying the privileges of the holders of power, and that, whatever our politics may be, there can be no valid argument for an undemocratic ethic. I mean by an undemocratic ethic one which singles out a certain portion of mankind and says “these men are to enjoy the good things, and the rest are merely to minister to them.” I should reject such an ethic in any case, but it has, as we saw in the last chapter, the disadvantage of being self-refuting, since it is very unlikely that, in practice, the supermen will be able to live the kind of life that the aristocratic theorist imagines for them.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER17_120.HTM

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