第16章 権力哲学 n.3


 フィヒテの哲学は,自我(エゴ)を世界における唯一の存在(存在する唯一のもの)とし,ここから出発する。自我(エゴ)は自らを事実として、断定する(結論を下す)故に存在する(注:The ego exists because it posits itself. /たとえば「我思う故に我あり」のように,考えている自分がいることは否定できないので自我は存在すると断定する,ということか?)。自我以外のものは一切存在しないが,自我(エゴ)はある日軽いノックを受け,その結果,自我は非我(non-ego 自我以外の全てのもの)を仮定する。(注:Although nothing else exists, the ego one day gets a little knock, as a result of which it posits the non-ego. 自我だけではく、自我でないものもあるんだなと推測/仮定する。/ちなみに,みすず書房版の東宮訳では「・・エゴつまり自我は,ある日のこと,軽くお払い箱になり,その結果,自我は非我を仮定する」となっており,「軽くお払い箱になり」とはどういう意味かよく理解できない。) 自我(エゴ)は,それから(その後),グノーシス派(注:前キリスト教的東方的起源をもつ古典ギリシア後期の宗教運動の一派)の神学にも似た(似ていなくもない)各種のものを発出する(流出させる)。グノーシス派は,発出されたものを神に帰し(帰属させ),自分自身については謙虚に考えたのに反して,フィヒテ()は神と(人間)自我(エゴ)との区別は不要と考える自我(エゴ)は,形而上学を片付けてしまうと(do with 処置する),さらに進んで,ドイツ人は善(人)であるがフランス人は悪(人)だと断定し(推定し),それゆえ,ナポレオンと戦うのはドイツ人の義務だと断定(推定)する。もちろん,ドイツ人もフランス人もフィヒテ(の自我)から発出したもの(emanation 流出物)に過ぎないが,しかし,(フィヒテの自我にとって)ドイツ人のほうがより高級な発出物(流出物),即ち,唯一の究極の実体(実在)(=絶対者)に近いのであり,この究極の実体(実在)とは,,フィヒテの自我(エゴ)である(ということになる)。アレクサンダー(大王)とアウグストゥス(ローマ帝国初代皇帝)は,共に自分は神であると主張し,自分以外の者たちに同意を装うことを強要した。(これに対し)フィヒテは政治の主導権を持っていなかったので,(彼の)無神論(信仰)によってその職を失った。それは,彼が自分自身の神性を十分に主張できなかったからである。  フィヒテの形而上学のようなものが,社会的義務のための余地(place )を残さないのは明らかである。というのは(フィヒテの形而上学においては)(自分の)外側の世界は自分の夢から生れたものに過ぎないからである。この哲学と適合する唯一の倫理は,自己啓発(self-development)の倫理しかない。けれども,人は,非論理的に,自分の家族や自国民を,他の人間よりも,より親密に,自分の自我(エゴ)の一部であると考えるかも知れず(考えることがあり),それゆえより重要なものだと考えるかも知れない(考えることがある)。人種とナショナリズムに対する信念は,このようにして,心理的に言って,独我論(solipsistic philosophy 唯我論哲学)の自我(エゴ)の自然な帰結である。この場合,権力愛がこの理論を吹き込むのは明らかであり,また権力を得るには他人の助けによってのみ達成されることを想えば,このことはなおさらそうである。

Chapter 19: Power Philosophies, n.3 The philosophy of Fichte starts from the ego, as the sole existent in the world. The ego exists because it posits itself. Although nothing else exists, the ego one day gets a little knock (ein kleiner Anstoss), as a result of which it posits the non-ego. It then proceeds to various emanations, not unlike those of Gnostic Theology; but whereas the Gnostics attributed the emanations to God, and thought humbly of themselves, Fichte considers the distinction between God and the ego unnecessary. When the ego has done with metaphysics, it proceeds to posit that the Germans are good and the French are bad, and that it is therefore the duty of the Germans to fight Napoleon. Both the Germans and the French, of course, are only emanations of Fichte, but the Germans are a higher emanation, that is to say, they are nearer to the one ultimate reality, which is Fichte’s ego. Alexander and Augustus asserted that they were gods, and compelled others to pretend agreement; Fichte, not being in control of the government, lost his job on a charge of atheism, since he could not well proclaim his own divinity. It is obvious that a metaphysic such as Fichte’s leaves no place for social duties, since the outer world is merely a product of my dream. The only imaginable echic compatible with this philosophy is that of self-development. Illogically, however, a man may consider his family and his nation more intimately a part of his ego than other human beings, and therefore more to be valued. Belief in race and nationalism is thus a psychologically natural outcome of a solipsistic philosophy — all the more since love of power obviously inspires the theory, and power can only be achieved with the help of others.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER16_030.HTM

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