物理的世界と心的世界の関係-現代物理学と「心」を持つ人間との関係?


 しかし,「知覚(perception)」という語は,通常使用される時(は),論点を先取りするもの(言葉)である。
たとえば,私は椅子を見ている(I see a chair),あるいはむしろ,通常そのように記述される出来事があると(いう言い方/状況を)仮定しよう。この句(注: phrase 2語以上の集合体で意味機能上の一単位をなすもの)は,「私」が存在しかつ椅子が存在し,また,知覚することがその両者間の関係である,を意味すると解釈される
既に私は,「私 I」について取り扱った。しかし,椅子は物理的世界に属するものであり,当面のところ,(物理世界に属するものごとは私が)無視しようとしているものである。
当面は次のことだけを言っておこう。(即ち,)常識は,私の知覚する椅子が,私が知覚しなくても,たとえば仮に私が目を閉じていても,(やはり)そこに存在すると仮定する。それらの間にある物理学と生理学は,私が見ることとは独立して(無関係に)存在するものは,視覚的経験とはほとんど似ていないもの,即ち,無数の量子遷移(注:原子がある定常状態からエネルギーの違う他の定常状態に突然飛び移ること)をする無数の電子の不規則運動であることを保証している(確かだと言っている)。
 私のこの対象への関係は間接的なものであり,推論によってのみ知られる。つまり,その関係は,私が「椅子を見る」と呼ぶ出来事が存在するときにいつも私が直接経験するものではない。実際私が「机を見る」と呼ぶ経験をするとき,生起することの全体は,私の心的世界に属するものと考えられるべきである。
私が堅く信じているように,私の心的世界の外側に(物理的な)椅子が存在するとするならば,それは直接的に経験する対象ではなく,推論という過程によって(推論を経て)到達されるものである
この結論は,奇妙な結果をもたらす。(即ち)我々は,物理学の物理的世界と,日常経験の物理的世界とを区別しなければならない物理学を正しいものとすれば,物理学の物理的世界は,私の精神生活とは独立に(無関係に)存在している(注:私や人類が存在しなくても,やはり存在する,ということ)。形而上学的見地からすれば,その世界は堅固でありかつ自存するものであり,常にそのような世界が存在することを仮定している
 これに反し,私の日常経験の物理的世界は,私の精神生活の一部である。物理学の物理的世界とは違ってそれは堅固なものではなく,私が夢で見る世界同様に実体的(実質的)なものではない。他方では,物理学の物理的世界が疑いうる(疑えないものではない)やり方において,それ(私の日常経験の物理的世界)は疑いえないものである。椅子を見る経験は,簡単に片付けられない(説明しつくすことはできない)ものである。私は,たとえ夢で(架空の椅子を)見ていても,この(架空の椅子を見るという)経験をもっている。だが,物理学の椅子は,確かに堅固なものではあるが,多分存在していない。もし私が夢を見ているならば,それは存在していない。そして,たとえ私が眼をさましていたとしても,ある種の推論に誤りがあれば,それ(椅子)は存在しないかも知れないが,それは論証できない。
要するに,ミッコーバー氏が言うように,物理学の物理的世界は堅固なものではあるが疑いえないものではないのに対し,日常経験の物理的世界は,(存在することは)疑いえないが堅固なものではないのである。この陳述において,私は「堅固」という語を「私の心的生活から独立に存在する」という意味で使っている。

But the word “perception,” as ordinarily used, is question-begging. Suppose, for example, that I see a chair, or rather that there is an occurrence which would ordinarily be so described. The phrase is taken to imply that there is “I” and there is a chair, and that the perceiving is a relation between the two. I have already dealt with “I,” but the chair belongs to the physical world, which, for the moment, I am trying to ignore. For the moment I will say only this: common sense supposes that the chair which I perceive would still be there if I did not perceive it, for example, if I shut my eyes. Physics and physiology between them assure me that what is there independently of my seeing, is something very unlike a visual experience, namely, a mad dance of billions of electrons undergoing billions of quantum transitions. My relation to this object is indirect, and is known only by inference; it is not something that I directly experience whenever there is that occurrence which I call “seeing a chair.” In fact the whole of what occurs when I have the experience which I call “seeing a chair” is to be counted as belonging to my mental world. If there is a chair which is outside my mental world, as I firmly believe, this is something which is not a direct object of experience, but is arrived at by a process of inference. This conclusion has odd consequences. We must distinguish between the physical world of physics, and the physical world of our everyday experience. The physical world of physics, supposing physics to be correct, exists independently of my mental life. From a metaphysical point of view, it is solid and self-subsistent, always assuming that there is such a world. Per contra, the physical world of my everyday experience is a part of my mental life. Unlike the physical world of physics, it is not solid, and is no more substantial than the world that I see in dreams. On the other hand it is indubitable, in a way in which the physical world of physics is not. The experience of seeing a chair is one that I cannot explain away. I certainly have this experience, even if I am dreaming. But the chair of physics, though certainly solid, perhaps does not exist. It does not exist if I am dreaming. And even if I am awake it may not exist, if there are fallacies in certain kinds of inference to which I am prone, but which are not demonstrative. In short, as Mr. Micawber would say, the physical world of physics is solid but not indubitable, while the physical world of daily experience is indubitable but not solid. In this statement I am using the word “solid” to mean “existing independently of my mental life.”
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter070.HTM

<寸言>
私たちは、現代物理学(量子力学と相対性理論)を信じるとともに、自分の心の存在も「信じて」おり、両者が本当に両立するのかどうか論理的整合性を疑うことを余りしない? 果たして両者は同時に肯定できるであろうか? 厳密に考え始めると、大変難しい問題がそこには潜んでいることがわかる。

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