たとえば,両者(注:ロックとルソー)とも,自由主義と民主主義に導いた傾向に属している。しかし,それにもかかわらず,両者とも,一人の人間の全ての時間がささげられるような,貴族の少年(息子)の教育しか考察していない。そのような方式(教育法)の結果がいかに優れていたとしても,近代的な物の見方をする人であれば,誰もそのような方式について,真剣に考察しないだろう。なぜなら,すべての子供におとなの個人教師が一人ずつ専念することなど,算術的に不可能だからである。それゆえ,そのようなシステム(やり方)は,特権階級によってのみ採用可能なものであり,公平な世界では存在不可能であろう。
Both, for example, belong to the tendency which led to liberalism and democracy; yet both consider only the education of an aristocratic boy, to which one man’s whole time is devoted. However excellent might be the results of such a system, no man with a modern outlook would give it serious consideration, because it is arithmetically impossible for every child to absorb the whole time of an adult tutor. The system is therefore one which can only be employed by a privileged caste; in a just world, its existence would be impossible.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 1:Postulates of Modern Educational Theory
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE01-010.HTM
[寸言]
私的に大金を払って我が子に優秀な家庭教師をつけるのなら悪くはないであろうが、公的教育機関が経済的に豊かな家庭の師弟しか入学できないようなものであってはならない、ということ。
ルソーの教育論を賞賛する人が少なくないが,当時においてはすばらしくても、一部の富裕層や社会的地位が高い親の師弟しかその恩恵を享受できないような教育(及び公的教育機関)は、現代においては望ましくない。才能にめぐまれたごく小数の子供に対するエリート教育は必要であろうが,それはあくまでも例外的なものであり、社会を分断する(人間をグループ分けする)ような教育は,公的教育機関が行ってはならない。
現代の日本では、経済的格差(貧困)が教育格差を生んでおり,その教育格差が経済的格差を再生産するような状況をもたらしている。だから医者や弁護士になるためには、親が医者や弁護士か、あるいは、親が資産家か、子供が(貸与型ではなく)給付型奨学金をもらえるように抜きん出て優秀である必要がある。