子供の時,私はとんぼ返りが大好きだった。とんぼ返りをするのは悪いことだとは思わないが,今ではそんなことは(私は)決してしない。同様に,青ひげになって楽しんでいる子供も,やがてこの趣味を卒業して,別なやり方で権力を求めるようになるだろう。
そして,もし子供の想像力が,幼年期にその時期にふさわしい刺激によって生き生きと保たれたならば,想像力は後年にもより生き生きと保たれる傾向があり,おとなにふさわしいやり方で働き続けることができるのである。
なんの反応も呼び起こさない時期(年頃)に道徳的な観念を押しつけても無駄であり,そういった時期には,まだ行動をコントロールするのにそういった道徳観念は必要でもない。そういった道徳観念を教えようとしても,子どもは退屈に思うだけであり,また後年,道徳観念が効き目を持つ年ごろにそれに無感覚になってしまう(という結果になるであろう)。児童心理の研究が教育にとってきわめて重要である一つの理由は,とりわけこの点にある。
When I was a child, I loved to turn head over heels. I never do so now, though I should not think it wicked to do so. Similarly the child who enjoys being Bluebeard will outgrow this taste, and learn to seek power in other ways. And if his imagination has been kept alive in childhood by the stimuli appropriate to that stage, it is much more likely to remain alive in later years, when it can exercise itself in the ways suitable to a man. It is useless to obtrude moral ideas at an age at which they can evoke no response, and at which they are not yet required for the control of behaviour. The only effect is boredom, and imperviousness to those same ideas at the later age when they might have become potent. That is one reason, among others, why the study of child-psychology is of such vital importance to education.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 5: Play and fancy.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE05-070.HTM
[寸言]
子どもの成長に即した躾や教育が重要だとしても、児童心理学や発達心理学の成果をよく学ばないと、気が付かないことが少なくない。ましてや、幼児期にまちがった躾や教育を受けて成長した大人は、児童の教育にあたる者としてふさわしくない。それにもかかわらず、国や地方自治体の教育担当官僚(教育行政の担当者)は幼児期や義務教育において知育に偏った教育を受け、教育者としてふさわしくない人が少なくない。
そういった人間が、「ゆとり教育」は間違っていたとして、小学校における道徳教育や「詰め込み教育」を企画などしたら、子どもたちは大変不幸なことになってしまう。文科省の教育再生会議の関係者などには不適格と思われるような人物が散見され・・・。