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「法廷劇」ーまるでドーミエのエッチング(の法廷)の世界と同じ

Daumier-etching_hotei それとは対照的に,法廷の光景は,まさにドーミエのエッチング(注:腐食銅版画)の(世界の)ように見えた。(禁固)2ケ月の有罪判決が私に言い渡された時,「恥を知れ! 恥を知れ! 88歳の老人だぞ!」(注:1961年9月の裁判の時には、ラッセルは89歳)という叫びが傍聴人から起こった。私は腹が立った。
その叫びは好意からであることはわかっていたが,私は故意に刑罰を受けようとしていたのであり,いずれにせよ年齢が有罪かどうかということに何らかの関係があるということは理解できなかった。★もしかりに何らかの関係があるとすれば,私の年齢(年をとっているということ)は,それだけ私の罪を大きくした。この訴訟担当の治安判事(警察裁判所判事)が,彼の見地から見れば私はもっと分別があってよい年齢である,と発言したことから判断すると,彼は世間の’標準’に近い人間であると私には思われた。
しかし,大体において,法廷も警察も両者とも,私が望んだ以上に,我々全員に対して,優しく振舞った。裁判が始まる前,ある警察官が,私たちが坐っていた狭い木製のベンチの苦しさを和らげるために,私の腰に当てるクッションを求めて裁判所内を探してくれた。クッションは見付からなかった(それに対して私は感謝した)。しかし,私は彼の骨折りを親切心からのものと受け取った。

By contrast the scene in the courtroom looked like a Daumier etching. When the sentence of two months was pronounced upon me cries of ‘Shame, shame, an old man of eighty-eight!’ arose from the onlookers. lt angered me. I knew that it was well meant, but I had deliberately incurred the punishment and, in any case, I could not see that age had anything to do with guilt. If anything, it made me the more guilty. The magistrate seemed to me nearer the mark in observing that, from his point of view, I was old enough to know better. But on the whole both the Court and the police behaved more gently to us all than I could have hoped. A policeman, before proceedings began, searched the building for a cushion for me to sit upon to mitigate the rigours of the narrow wooden bench upon which we perched. None could be found – for which I was thankful – but I took his effort kindly.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap3:Trafalgar Square,(1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB33-230.HTM

[寸言]
TPJ-ABR3 「現代のソクラテス」と言われる所以(ゆえん)。
 国家犯罪糾弾し抵抗するが、公正な手続きを受けて有罪となった場合にはその刑に服する。もちろん、その法律が悪法の場合は、その法律を改正するように働きかける。(悪法であっても、「遵法精神」の重要性から従うべきだと言うだけで、悪法を改正しようとしない「遵法論者」,「国家主義者」とは異なる。

反核デモのため89歳にして逮捕され,1週間刑務所(付属の病院)に「留置」

BR6109-2 それから一カ月後、私たち夫婦が北ウェールズでの午後のドライブから帰宅すると、我が家の玄関先でオートバイにまたがっている、とても当惑していいるけれども感じのよさそうな巡査部長を見つけた。彼は、(1961年)9月12日にボウ・ストリート(ロンドン中央警察裁判所)に出頭するようにとの召喚状を私たち夫婦に手渡した。(右写真:裁判所に向かうラッセル夫妻及びシェーンマンほか)それは一般民衆を煽動して市民的不服従運動にかりたてたということで出されたものであった。召喚状は、百人委員会の幹部全員に対して出されたということであったが、実際はそのうちの何人かに対してだけであった。召喚を受けて出頭を拒んだ者はほとんどいなかった。

私たち夫妻は、事務弁護土(法律相談に応じたり、法廷弁護士の訴訟事務を手伝ったりする弁護士のこと)の意見を求めるため,それからもっと重要なことであるが、運動の同志たちと相談するために,ロンドンに赴いた(上京した)。
私はそのことで殉教者になることを少しも望まなかったが、★我々の考え方を一般に知らせるためにいかなる機会も最大限にに活用すべきであると思った。私たちの投獄がある一定の騒動を引き起こすだろうということを理解できないほど我々は無垢ではなかった。我々は、それまで我々がとってきた行動理由(動機)に対してこれまで動かされることがなかった人々の心に突破口を開き,少なくとも幾つかの行動理由(動機)に対して十分な共感(同情心)を創りだすことができるかもしれない、と期待した。
私たち夫婦は、二人とも直近に重い病気にかかっており、長期間の投獄は悲惨な結果をもたらすだろうという診断書を医者からもらっていた。それを、ロンドン中央警察裁判所で私たちの訴訟事件を担当することになっていた法廷弁護士(注:上級裁判所の法廷に立つ弁護士)に渡した。私たちが会った誰もが、私たち夫婦は有罪となって刑務所にいれられるとは、信じていないようであった。法廷弁護士は、そんなことをしたら(民衆の批判を受けて)まったく引き合わないと英国政府は考えるだろうと思っていた。
DOKUSH97 しかし、政府が私たちに禁固刑(投獄)を宣告しないことなどできるものか(ありうるものか)、私たち自身はわからなかった。しばらくの間、私たちの行為が政府を困らせたのは明らかであった。また、警察は百人委員会の事務所の手入れをしたり、その事務所に頻繁に出入りしていた多くの会員に対して下手なスパイ行為をしていた。その法廷弁護士は、私たち夫妻の投獄を完全に阻止することができると考えた。
しかし私たちはいずれにせよ極端は望まなかった。私たちは法廷弁護士に、私たちが無罪放免にはならないようにするとともに,2週間以上投獄という判決にならないようにして欲しい、と指示した。結局は、私たち二人はそれぞれ禁固2ケ月間の判決を受け、その判決は、医者たちの診断書によって、二人とも1週間の刑に減刑された。

A month later, as we returned from an afteroon’s drive in North Wales, we found a pleasant, though much embarrassed, Police Sergeant astride his motorcycle at our front door: He delivered summonses to my wife and me to be at Bow Street on September 12th to be charged with inciting the public to civil disobedience. The summons was said to be delivered to all the leaders of the Committee but, in fact, it was delivered only to some of them. Very few who were summoned refused to appear.
We went up to London to take the advice of our solicitors and, even more important, to confer with our colleagues. I had no wish to become a martyr to the cause, but I felt that I should make the most of any chance to publicise our views. We were not so innocent as to fail to see that our imprisonment would cause a certain stir. We hoped that it might create enough sympathy for some, at least, of our reasons for doing as we had done to break through to minds hitherto untouched by them. We had obtained from our doctors statements of our recent serious illnesses which they thought would make long imprisonment disastrous. These we handed over to the barrister who was to watch our cases at Bow Street. No one we met seemed to believe that we should be condemned to gaol. They thought the Government would think that it would not pay them. But we, ourselves, did not see how they could fail to sentence us to gaol. For some time it had been evident that our doings irked the Government, and the police had been raiding the Committee office and doing a clumsy bit of spying upon various members, who frequented it. The barrister thought that he could prevent my wife’s and my incarceration entirely. But we did not wish either extreme. We instructed him to try to prevent our being let off scot-free, but, equally, to try to have us sentenced to not longer than a fortnight in prison. In the event, we were each sentenced to two months in gaol, a sentence which, because of the doctors’ statements, was commuted to a week each.

出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap3:Trafalgar Square,(1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB33-220.HTM

[寸言]
BRAINS-B 「生涯2度めの投獄」(一度目はもちろん第一次大戦時の反戦運動のため)ということですが、今回は89歳ということで、刑務所付属の病院での拘束となりました。外に出てはいけないことと、外に向かってメッセージを送ってはいけないことだけを守れば,後は自由でした。このラッセルの「刑務所留置(実際は付属病院への収容)」のニュースは世界に配信され、反戦・反核運動のための宣伝になりましたので、ラッセルにとってはまずは成功と言ってよかったのではないでしょうか?

なお、ラッセルは「法律を犯した以上、刑に服することは当然」と考えており、年齢を理由に「無罪」にしてあげようという、法廷での(傍聴者たち)の声には、「年齢のせい」にされることには,『自伝』(次のページ参照)で不満をもらしています。
http://russell-j.com/beginner/AB33-230.HTM
しかし、★ここで重要なのは、法律を犯すことは悪いことだとしても、法律に従うことが法律を犯すこと以上に悪いことであれば、「正しいと信じることを行い、法律に定められた刑に服する」というのが一番正しい態度であると、ラッセルが考えたことです。つまり、「沈黙,あるいは服従は人類に対する罪である」という状況もあることに,人々は思いをいたす必要があるということです。

Has Man a Future ? (1961)の出版 -邦訳書は誤訳が多く・・・

TP-HMF (1961年の)3月末に向けて,私は,『常識と核戦争』(Common Sense and Nclear Warfare, 1959)で扱った主題を進め,またその一部を敷衍して,核問題と軍縮に関する新しい本を執筆することについて,ペンギン・ブックス(社)と打ち合わせをし,続いてペンギン・ブックス(社)は私のいつもの出版者であるスタンレイ・アンウィン卿(注:George Allen and Unwin 社のオーナー)と打ち合わせ(取り決め)を行なった。この新しい本は『人類に未来はあるか?』 (Has Man a Future?)という書名がつけられることになった。私は直ちにその本の執筆を開始した。しかし執筆は,私がロンドンで行なった一連の録音と,バーミンガムでの2回の集会と,それから,しばらくの間いかなる仕事もすることを妨げる非常に悪性の’帯状疱疹’の発症(注:雅子妃殿下がかかったことでも有名)によって中断させられた。しかし,私はその回復期に,この新しい本のかなり多くの分量を執筆した。そして原稿締切りぎりぎりに間に合うように書き終えた。その本は,(1961年)秋に出版された。

TPJ-HMFTowards the end of March, I had arranged with Penguin Books, who, in turn had arranged with my usual publisher, Sir Stanley Unwin, to write a further book for them on nuclear matters and disarmament, carrying on my Common Sense and Nuclear Warfare and expanding parts of it. The new book was to be called Has Man a Future ? and I began work on it at once. But it was interrupted by a series of recordings that I made in London and by the two Birmingham meetings and then by a very bad bout of shingles which prevented my doing any work whatsoever for some time. But during my convalescence I wrote a good deal of the new book, and it was finished in time to meet its first deadline. It was published in the autumn.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap3:Trafalgar Square,(1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB33-200.HTM

[寸言]
CV-GOYAK 日高一輝氏による邦訳書(『人類に未来はあるか?』)は誤訳が多いので、別宮貞徳氏にケチョンケチョンに揶揄されてしまいました。詳しくは,次のページに詳しくご紹介しておきました。
★ 参考:別宮貞徳「刷数多きが故に貴からず(ラッセル著,日高訳『人類に未来はあるか』他,多くの邦訳書の誤訳指摘)」
http://russell-j.com/cool/GOYAKU58.HTM

(故)日高氏は,日本にいるより海外にいることの方が多く、「実用英語」はとてもできたと思われますが、『ラッセル自伝』ほか、日高氏が邦訳されたラッセルの著作は誤訳がとても多く、注意して読む必要があります。日本語の意味がとれないことろは誤訳しているだろうと考えてまず間違いありません。

英国国防省前での座り込みデモ(1961年2月18日)

1961C100-300x217 (1961年)2月18日(ラッセル88才の時)の朝は、うす暗く、霧雨が降り、寒かった。そのためにわれわれは気が重かった。もしも雨になれば、(核兵器反対の)デモ参加者の数は、すでに参加を誓約していた多数の中核者たちがあったにもかかわらず、減るだろうことは、疑い得なかった。しかしわれわれがトラファルガー広場に集合した時には、大群集となっていた。どれほど大きな群衆であったか、正確に言うことは不可能である。新聞社や警察や百人委員会が計算した数の★中間★をとると、デモ参加者は約2万人を数えた。演説は立派に、てきぱきと行われた。集会の後、大きな幟(のぼり)を先頭に、ホワイトホール(ロンドンの官庁街)に向かって行進が始まったが、その行進は、百人委員会のデモ進行係の人たちの熟練された手ぎわのよさで、守備よく差配された。その行進は、トラフファガー広場にいた人々(約2万人)の中から、5千人をやや上まわる、波のように押し寄せたけれども、穏やかで真摯な,群衆から成っていた。ある地点で、われわれは警察によって、★交通を妨げるという理由★で停止させられたけれども交通障害という理由は、明らかに効き目はなく、行進は続行された。最終的には、5千人以上の人々が国防省のまわりの歩道に坐ったり、横になったりした。そうしてわれわれは暗くなるまで約2時間、そこに坐った(写真:国防省前に座り込むラッセルを始めとした百人委員会のメンバー)。それは、まったく無音ということではなかったが、きわめてまじめで静かな、政府の核政策に対する抗議であった。この座り込みの間、かなり多数の人々が座り込みに加わり、さらに多くの人々がわれわれを一瞥しようとやってきた。また、当然のこと、新聞やテレビの関係者が周囲に群れ集まり、いろいろ質問を行なった。‘デモ行進者が全員座った’ことがアナウンスされるやいなや、マイケル・スコットとシェーンマンと私は、事前に用意した貼り紙'(ビラ)を取り出し、国防省玄関のドアに貼り付けた。
BR-1961B 政府当局が消防用のホースを我々に向けて放水するように消防庁に依頼していたことを、我々は知った。幸いにも、★消防庁はそれを拒否した。午後6時になったところで、座り込みの終了を宣言した。’歓喜の波‘が全群衆にひろがった。夕暮れの中、灯火に照らされながらホワイトホールヘと引き返し、歓呼する支持者たちの間を通り過ぎた時、私は非常に幸せであった。我々はその日の午後始めたことを完全になし遂げ、我々が志した真剣な目的が何であるかを明らかにすることができたからであった。また、私を迎えてくれた群衆の歓呼と、私が通過する際に彼らが一斉に叫んでくれた「彼はとてもいい奴だから・・・」という大合唱に、私は感動させられた。

BR-1961The morning of February 18th was dark and drizzly and cold, and our spirits plummeted. If it rained, the numbers participating in the demonstration would undoubtedly dwindle in spite of the large nucleus already pledged to take part. But when we assembled in Trafalgar Square there was a great crowd. Precisely how great it was, it is impossible to say. The median number as reckoned by the press and the police and the Committee made it about 20,000. The speeches went well and quickly. Then began the march up Whitehall preceded by a large banner and managed with great skill by the Committee’s marshals. It comprised a surging but calm and serious crowd of somewhat over 5,000 of those who had been in the Square. At one point we were held up by the police who tried to stop the march on the ground that it was obstructing traffic. The objection, however, manifestly did not hold, and the march proceeded. Finally, over 5,000 people were sitting or lying on the pavements surrounding the Ministry. And there we sat for about two hours till darkness had fallen, a very solid and quiet, if not entirely mute, protest against governmental nuclear policies. A good many people joined us during this time, and more came to have a look at us, and, of course, the press and TV people flocked about asking their questions. As soon as word came that the marchers had all become seated, Michael Scott and Schoenman and I took a notice that we had prepared and stuck it on the Ministry door. We learned that the Government had asked the Fire Department to use their hoses upon us. Luckily, the Fire Department refused. When six o’clock arrived, we called an end to the sit-down. A wave of exultation swept through the crowd. As we marched back towards Whitehall in the dusk and lamplight, past the cheering supporters, I felt very happy – we had accomplished what we set out to do that afternoon, and our serious purpose had been made manifest. I was moved, too, by the cheers that greeted me and by the burst of ‘for he’s a jolly good fellow’ as I passed.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap3:Trafalgar Square,(1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB33-190.HTM

[寸言]
1961年2月18日(ラッセル88歳の時)の寒い日に行われた,核兵器撤廃運動の歴史に残る座り込みデモ。(すぐ後ろにエディス夫人がピッタリと付き添っている。) 写真には、ラッセルを委員長としていますが、マイケル・スコット(写真で、向かって、ラッセルの左に座っている人)が議長(行動隊の隊長のようなもの)ですので、ラッセルは「100人委員会総裁」という表現の方がよいだろうと思われます。

なお、最後の行の「「彼はとてもいい奴だから・・・」という大合唱に、私は感動させられた。」の、「彼はとてもいい奴だから(For He’s a Jolly Good Fellow)・・・」は、英米で、お祝いの時(誕生日や結婚式ほか)に広く歌われる(定番の)歌だそうです。
http://www.worldfolksong.com/songbook/usa/jolly-good-fellow.htm

R. シェーンマンは「重大な事柄の中にユーモアを見出す能力に長けた青年」

Schoenman-R 1960年7月の終わり近くに,ラルフ・シェーンマン(Ralph Schoenman, 1935~ /右の写真及び下の写真の左端)という名前の若いアメリカ人が初めて私を訪ねて来た。彼がCNDに関連した活動をしていることをある程度聞いていたので,彼と会うことにかなり興味を抱いていた。彼は -政治に関して,経験がなく,少し理論に走るきらいがあるにせよ- エネルギーに満ちあふれ,アイデアに富んでおり,知的な人間であるということがわかった。また,私が信奉する主義主張において,残念ながら多くの労働者に欠けているところのもの,即ち,’風刺’を解する能力や,’本質的に非常に重大な事柄の中にユーモアを見出す能力’を彼は備えており,私は彼のそういうところも好きであった。彼はすぐ共感し,また激し易い人間であることがわかった。私が徐々にのみ理解するようになったことであり,時が経つにつれてのみ明らかになったことであるが,彼は反対されることに我慢することが困難であり,驚くほど完璧で比類がないほどの自信をもっていた。私は,経験を活かすためには知性にも’訓練’というものが必要だ,と信じていた。私は当初彼を十分に理解していなかったが,たまたまあることで彼に賛成し,続いて当時彼が活動していたことに賛成した。そうして,彼が個人的に私に対し絶えず示してくれた’寛大さ’に対し深く感謝したし,今日なお感謝あるのみである。彼の精神は,非常に敏速かつ確固たる動きをみせた。彼の精力は無尽蔵であるかのごとく思われた。物事をなしうるために,彼に頼りたいという誘惑にかられた。

19610912Towards the end of July, 1960, I received my first visit from a young American called Ralph Schoenman. I had heard of some of his activities in relation to CND so I was rather curious to see him. I found him bursting with energy and teeming with ideas, and intelligent, if inexperienced and a little doctrinaire, about politics. Also, I liked in him, what I found lamentably lackng in many workers in the causes which I espoused, a sense of irony and the capability of seeing the humour in what was essentially very serious business. I saw that he was quickly sympathetic, and that he was impetuous. What I came only gradually to appreciate, what could only emerge with the passage of time, was his difficulty in putting up with opposition, and his astonishingly complete, untouchable self-confidence. I believed that intelligence working on experience would enforce the needed discipline. I did not at first fully understand him but I happened to be approved of him and, in turn, to approve of what he was then working for. And for his continued generosity towards me personally I was, and can still only be, deeply grateful. His mind moved very quickly and firmly and his energy appeared to be inexhaustible. It was a temptation to turn to him to get things done.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap3:Trafalgar Square,(1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB33-150.HTM

[寸言]
ある日、R.シェーンマン(Ralph Schoenman, 1935~ )というアメリカの青年がラッセルを訪ねてきた。シェーンマンには若さがあり、精力があふれ、また才気があふれており、ユーモアを解した。老齢のラッセルは、平和運動において、シェーンマンにたよるようになっていき、そうして多くの成功を収めることができた。
しかし、しだいにシェーマンの強引さがめだつようになり、自分の意見なのにラッセルの意見であるとか、ラッセルの代理だと言ったりするようになっていった。
晩年(1969年12月/ラッセル97才の時)には、残念ながら、「メモランダム」を発表して、シェーンマンと断絶せざるを得なくなった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ralph_Schoenman

利用したいところだけツマミ食いして利用する政治家-日本では常態です!

nakatani_tuihonne 大きな期待を持ったひとときがあった。それは、国防大臣のダンカン・サンディス(Edwin Duncan Sandys, Baron Duncan-Sandys、1908-1987)が私のその本を推薦する文を書き、その本について私と語り合いたいと言った時である。彼は保守党員であり、英国政府の政策立案者でもあった。しかもこうした問題に関するあるパンフレットづくりに協力していた。ところが、私が彼に会いに行った時、彼はこう言った。「これはたいへんいい本です。しかし、必要なのは単に核兵器撤廃ばかりでなく、戦争そのもの禁止です」。 私は、その本の中で、核戦争をひき起こさないよう世界に保証を与える唯一の道は戦争をなくすことであると述べている部分を指摘したが、無駄だった。彼は私がそれほど聡明なことを言いえていないと信じ続けた。彼は私の論じた他の議論を退けた。私は失望し、彼のもとを去った。私は、私の本を読み既に知識を持っている人たちは大部分、自分のとり入れたいと思うところだけをとり入れようとする強い先入感をもって読むだろうということを悟った。そこで私は、その後数ケ月間、CNDや他の諸所の集会で演説をしたり、放送をしたりといった、その時々の仕事や自分自身の人生を楽しむ生活に戻った。

I had one moment of high hope when the Minister of Defence, Duncan Sandys, wrote commending the book and saying that he would like to talk with me about it. He was a Conservative, and a policy-maker in a national Government, and had collaborated in a pamphlet on the subject himself. But when I went to see him, he said, ‘It is a good book, but what is needed is not only nuclear disarmament but the banning of war itself’. In vain I pointed out the passage in my book in which I had said that the only way to ensure the world against nuclear war was to end war. He continued to believe that I could not have said anything so intelligent. He cast my other arguments aside. I came away discouraged. I realised that most of the already informed people who read my book would read it with a bias so strong that they would take in only what they wished to take in. For the following months, therefore, I returned to the piecemeal business of speaking at meetings, CND and other, and broadcasting, and to the pleasures of my own life.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 (1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB33-070.HTM

[寸言]
panama-papers_kyoshano-tengoku 政治家が調子の良いことを言っても大部分信じるに値しないことはわかっているはずなのに,同じような期待をして裏切られても「◯×よりはましだ」という世論づくりによって騙されて,現状維持を容認し続ける選挙民。

「国防関係」は,どこの国においても、愛国主義を看板にしながら権力者や軍需産業が堂々と利益を得られる,費用対効果がすぐれた分野。賄賂が横行しても,特定秘密保護法に守られて安心して、国民やマスコミの目を盗んで蓄財に励むことができる。その利益は、タックスヘブンなどを利用して「節税」(法律が未整備なので法律に触れない!)につとめることができる。

 パナマ(強者の天国)良いと~こ、一度~はおいで、ドコイショ・・・」

科学行政を担当する御用学者が世界に溢れ・・・(日本で言えば誰?)

【「(日刊)ラッセルの言葉366_本日の言葉」v.2 (second series】の投稿
も、本日で400回目になりました!】

TPJ-CNWZ 私は、1958年の夏に執筆し1959年初めに出版した『常識と核戦争』(Common Sense and Nuclear Warfare, 1959)の序文の中で、明確に自分の見解を述べた。私はカリンガ賞(注:科学の普及に顕著な業績のあった人に与えられるユネスコの賞。インドのカリンガ財団創設者 Bijoyanand Patnaik氏からの寄附により1952年に創設されたもの/ラッセルが受賞したのは1957年度)を受賞することによって、1958年の間、大きな励ましを受けていた。インドまでは(体力その他の関係で)旅行ができなかったので、カリンガ賞はパリのユネスコ本部でいただいた。(ラッセル原注:これは確かな話であるが、その受賞の行事に際し、私に付き添うよう委任されていたフランスの物理学者は、私の見解を詳しく紹介した後、自分の妻に向かって彼女を慰めるようにこう言った。「いや、まったく気にすることはないよ。来年中には、フランスは国産(自国)の原爆を爆発させることができるだろうからね」)

それから、フルシチョフやアイゼンハウアー(注:ただし、米国側は、ダレス長官が返事を執筆)との間の公開書簡において示された(一般の)関心と同様に、パグウォッシュ運動の継続的なまたしだいに大きくなっていく成功は、私を大いに勇気づけてくれた。私は、それ以後今日までやってきたように、政府の見解とともに、一般民衆の見解を左右するための何か新鮮な方法を発見しようと探求を続けた。

TP-CNWI had put my point of view clearly in the introduction to my book Common Sense and Nuclear Warfare which I wrote during the summer of 1958, and published early in 1959. I had been encouraged during 1958 by receiving the Kalinga Prize, at Unesco in Paris as I could not travel to India. (To be sure the French physicist who was deputed to bear-lead me on that occasion remarked comfortingly to his wife after I had been expounding my views : ‘Never mind, my dear, by next year France will be able to explode her own bomb.’) And the continued and growing success of the Pugwash movement, as well as the interest shown in the open correspondence with Khrushchev and Eisenhower (Dulles) were encouraging. I continued my search, as I have done since, to find fresh approaches through which to try to sway public opinion, including governmental opinion.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 (1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB33-060.HTM

[寸言]
goyogakusha_madarame (ユネスコの)カンリガ賞授与式の時にラッセルの世話をしたフランスの物理学者は研究者というよりも科学行政を担当する官僚(御用学者)
科学研究がビッグサイエンス化し、研究開発費用が高額になればなるほど、どの国でも、こういった科学行政担当の御用学者が増えていく。お金の配分額を決める実質的な権力をもっているので、ますます増長していく。たとえ、ノーベル賞をもらっていても・・・。

(老体に鞭打ち)核兵器撤廃運動に熱心に取り組むラッセル夫妻

DOKUSH60 私たち(夫婦)は二人とも、核兵器の危険について、可能な限り多くの方法で一般大衆の注意を喚起するようにしなければならないということ、また、たとえどれほど称賛に価することであろうとも、★我々が単なる集会や単調な平和行進だけにとどまるならば、既に核兵器反対に立っている人々に対して説教するだけに終わってしまう★だろう、ということを確信していた。CND(Campaign for Nuclear Disarmament)の議長(委員長/ラッセルはCND総裁は、市民的不服従運動(Civil Disobedience:政府の核政策に対する一般市民の不服従運動/イラスト参照)に賛同していなかった。それで、名目上は直接行動委員会(Direct Action Committee)はその活動を黙認されていたけれども、CNDから公然と支援を受けることができなかった。例えば、オルダーマストン平和行進にCNDは参加しなかった。というのは、その平和行進は直接行動委員会によって1958年に企てられたものだからである。平和行進は成功した。そこでCNDは、当然のこと、その翌年、その一切合切をひき継ぎ、その行進をさらにより大きなものにし、より重要なものにした。(つまり、成功して世間の支持を集めてから始めて動き出す 日和見主義的対応?)

BR1958CYWe both believed that the dangers must be called to the attention of the public in as many ways as possible and that if we stuck to merely meetings and even marches, no matter how admirable they might be, we should end by preaching only to the already converted. The chairman of the CND did not approve of civil disobedience and so, though nominally the Direct Action Committee was to be tolerated, it could not be aided openly by the CND. The latter did not, for instance, take part in the Aldermaston March, as it was staged by the Direct Action Committee in 1958. The march proved a success, and the CND took it over lock, stock and barrel the following year and made, of course, a much larger and more important thing of it.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 (1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB33-040.HTM

[寸言]
1954年3月1日、アメリカはビキニ環礁において初めての水爆実験を行った。
ラッセルは危機感を覚え、アインシュタインに働きかけ、1955年7月9日ラッセル=アインシュタイン声明を発表した(アインシュタインは4月18日にすでに亡くなっていたが、死ぬ2週間ほど前に声明に署名していた)。
PUGWASH また、ラッセル=アインシュタイン声明で提唱された,核と平和の問題について科学者たちが集まって検討するパグウォッシュ会議(第一回会議)が,サイラス・イートン(上の写真参照)の支援を受けて、1957年にカナダのパグウォッシュ村(注:赤毛のアンで有名なプリンス・エドワード島の近く/上の地図参照)で開催された。
このように、科学者による検討は始まったものの、政治や軍事の世界では、核兵器の開発や配備は進むばかりであり、諸国政府に影響を与えない限り、お題目を唱えるだけで終わってしまう。ラッセルは,核兵器反対の大衆運動の必要性を痛感し、CND(Campaign for Nuclear Disarmament 核兵器撤廃運動/市民的不服従運動)を始め(総裁に選ばれる)、しばらくして、その限界を感じ、精鋭だけを集めて百人委員会(Committee of 100)を結成し(ラッセルは総裁)より先鋭的な運動の駆り立てられていくことになる。
peace なお、世界的に知られている「平和のシンボルマーク」(右のイラスト)は、ラッセルが始めたCNDで初めて使われたものである。

ウッド夫妻を失い、落胆するラッセル

WOOD-BR 彼ら(A.ウッド夫妻)を失ったこと(注:ウッドは1957年10月に死亡)は,私にとって計り知れないものであった。私は彼らがとても好きだったばかりでなく,私と関係のある全てに関する彼らの知識と彼等の私に対する好意的な理解(力)に頼るようになっており,また,彼らとの親しい交友を大いに楽しんだ。

(だが)私に関する本の中で論じられている諸問題についてのアランの理解には限界があった,と言わなければならない。特に,政治問題に関する議論においては,彼の理解力に限界が見られた。私は彼をかなり保守的であるとみなしており,彼は私を当時の私が実際そうだったよりも,また現在そうであるより,ずっと急進的であるとみなしていた。私がすべての人が投票権をもつべきだと論じた時,彼は,私がすべての人間が能力において平等だと主張しているのだというふうに考えた。私は,生来の能力の差異に関わりのある優生学を支持してきたという事実を指摘して,彼のその信念は誤っていることを指摘するにとどめた。けれども,そのような見解の不一致も,私たちの友情を損なうことも,また純粋の哲学上の会話を邪魔するようなこともまったくなかった。

Their loss to me was incalculable. I not only was very fond of them, but had come to depend upon their knowledge of everything to do with me and their sympathetic understanding, and I greatly enjoyed their companionship.
It must be said that there were limitations to Alan’s understanding of the matters discussed in my books. This showed particularly in regard to political matters. I regarded him as rather conservative, and he regarded me as more radical than I was or am. When I argued that everybody ought to have a vote, he thought that I was maintaining that all men are equal in ability. I only disabused him of this belief by pointhg out that I had supported eugenics, which is concerned with differences in natural ability. Such disagreements, however, never marred our friendship, and never intruded in purely philosophical conversations.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 (1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB33-010.HTM

[寸言]
TPJ-BRPS 頼りにしていたA.ウッドが急逝し(また続いてウッド夫人もなくなり)、落胆するラッセル。
アラン・ウッドは,ラッセル哲学の網羅的研究を開始したばかりで急逝してしまった。ウッドはラッセルの伝記 Bertrand Russell – a passionate sceptic (邦訳書:碧海純一(訳)『バートランド・ラッセル-情熱の懐疑家』)を執筆しており、名著のほまれが高く、ラッセルの哲学の網羅的研究には、ラッセル自身も期待していた。
 ラッセルの哲学は、理論哲学だけではなく、いろいろな分野で哲学的思索(政治の分野では政治哲学)を幅広く行った。従って、一人の人間がラッセルの哲学全体をカバーするのは、ラッセルと同等の能力をもっていない限り、難しい。そういうわけで、ウッドの(ラッセルの)理論哲学に対する理解には期待していたが、政治の問題(政治哲学)に対するウッドの理解は不充分として不満を持っていた。
問題の「優生学」をラッセルは Marriage and Morals, 1929 の第18章で扱っている。「優生学」という言葉に対しては生理的に拒否感を抱く人がすくなくなく、誤解を招くかもしれない。「遺伝研究(の活用)」であるならば、違和感をもつ人は少ないであろう。ラッセルは、同書第18章を次の言葉で結んでいる。

「宗教は、歴史が始まる前から存在してきたが、」科学はせいぜい(今から)4世紀前から存在しているにすぎない。しかし、科学が年月を経て敬われるようになると、科学は宗教と同じように大きく我々の生活をコントロールするだろう。人間精神の自由を大事にする人々が、こぞって科学の暴政に反逆しなければならない時期が来るのを、私は予感している。にもかかわらず、暴政がさけられないとすれば、その暴政は科学的であるほうがよいだろう。

ラッセル,喉の障害に苦しむ -第1回パグウォッシュ会議に出席できず

PUG1-MEM 私は,自分の年齢と健康状態のせいで,この最初の会議(写真:第1回パグウォッシュ会議=正式名称は、「科学と世界の諸問題に関するパグウォッシュ会議」であり、1995年にノーベル平和賞を受賞)に出かけることができなかった。1957年(ラッセル85歳の時)の私の時間の大部分は,★自分の咽喉の障害★の原因が何かをはっきりさせるための各種の医学的検査に費やされた。2月に,咽喉癌ができているかどうかはっきりさせるため,短期間ではあるが入院しなければならなかった。私が入院した日の夕べ,私はBBC放送でダウンサイド修道院のバトラー院長(Abbot Butler of Downside)と討論(対論)を行い,大いに楽しんだ(テレビ討論終了後,そのまま病院に向かったと思われる。)。彼も同様楽しんだと思う。その出来事は,そういったつらいことの成就がそうであるように,終わったときには楽しくなった。そうして結論として癌ではないということがわかった。しかし,それならいかなる病気にかかっていたのか? そこで検査が続けられ,私は乳幼児食やその他の同じような(味気ない)物を食べて暮らし続けなければならなかった。

それ以来(退院後は),私は数回海外旅行をしたが,いづれも(カナダの)パグウォッシュほど遠くへいったことはない。長旅を避けた理由は,幾分かは,もし私がある国へ行けば,私を自国に来させようと懇願してきた他の国々の人々を侮辱することになると恐れるからである。公職についていない人間にとって,それを回避する唯一の方法は,遠出の旅行を(一切)やめることである。

I was unable to go to this first conference because of my age and my health. A large part of my time in 1957 was devoted to various medical tests to determine what was the trouble with my throat. In February, I had to go into hospital for a short time to find out whether or not I had cancer of the throat. The evening that I went in I had a debate over the BBC with Abbot Butler of Downside which I much enjoyed, and I think he did also. The incident went off as pleasantly as such a trying performance could do and it was discovered conclusively that I did not have cancer. But what did I have? And so the tests continued and I continued to have to live on baby’s food and other such pabulum.
Since that time I have made several journeys abroad, though none so long as that to Pugwash. I fight shy of longer journeys partly because I fear if I go to one country people in other countries who have pressed me to go there will be affronted. The only way around this, for one who is not an official personage, is to renounce distant travels.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 (1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB32-330.HTM

[寸言]
ラッセルは、ここに書かれているように,晩年(1957年=ラッセル85歳の時),喉に障害が起き、手術したために、しゃがれた声しか出せなくなってしまった。TV番組の録画を視聴すると声がしゃがれているものが多いが、幸い、喉をまだ痛めていない1948年に録音された Reith 記念講義はクリアかつなめらかな発声になっている。
http://russell-j.com/cool/YouTube-BR.htm

HASKER43(注:日高一輝氏の次の証言にあるように,日本でも老齢のラッセルを招待しようという計画があった。(写真は、ロンドンの Hasker 通り43番地で,自宅にしているフラットの1階玄関前に立つラッセルと日高一輝氏。ラッセルが不機嫌そうなのは、日高氏の強引さのためか?)
即ち,

「(日高氏が)当時,最も身近な相談相手として相談にのってもらっていた朝日新聞論説主幹の笠信太郎先生を茅ヶ崎の自邸に訪ねた。先生は,即座にこのプラン(ラッセルの日本への招待)に賛意を表された。そして,ラッセル卿夫妻を日本に招待する費用は,一切,朝日新聞が負担することにしようと約束してくださった。」
(出典:日高一輝著『世界はひとつ,道ひとすじに』)」
http://russell-j.com/cool/HIDA-ONE.HTM
日高氏がラッセルに直接会い,訪日を打診したところ,年齢を理由に断ったそうであるが,一番大きな理由は,上記に書かれている理由(ひとつ引き受けると他を断れなくなってしまうために,遠い国からの招待は原則断わることにした。)であったかも知れない。