我々は次の問いに面と向わなくてはならない(face the question 対峙しなければならない)。(即ち)倫理原理/原則(an ethical doctrine)とは何であるか,そして,また,もし何らかの倫理原理があるとしたら,それはどのような方法でテストすることができるだろうか? 歴史的に見れば,倫理学は宗教と結びついている。大部分の人々にとって,権威は十全たるもの(十分なもの)であった。(即ち)聖書あるいは教会によって正しいとか間違っているとか規定されているものは(lay down 規程される),(そのまま)正しいか間違っているのであった(注:聖書に書かれている通りor教会が言う通り)。しかしある一定の個人が,時々,神によって霊感を与えられた(聖なる霊感に打たれた)。彼らは何が正しく何が間違っているかを知っていたが(理解していたが),それは神が彼らに直接語ったからである。こうした人々は,正統派の意見によれば,みな大昔に生きていた人々であり,現代人が,自分もそのような人々の一人だと公言すれば,教会が彼の発言を実際に認可しない限り,彼を保護施設(asylum)に入れてしまうのが最善である。けれどもこれは,反逆者が独裁者になる通常の事態であり(注:昔はこういった反逆者が独裁者になるのが普通であった),反逆者の正当な機能が何であるかということを我々が決める助けにはならない。 我々は倫理学を非神学的な言葉で翻訳すること(書き改めること)ができるであろうか? ヴィクトリア朝時代の自由思想家たちは,これが可能であることをまったく疑っていなかった(信じていた)。たとえば,功利主義者たちは,とても道徳的な人々であり,自分たちの道徳には理性的な(合理的な)根拠があると確信していた。しかし,問題は,彼らがそうだと思っていたよりももっとかなり難しいものである。
Chapter 15: Power and Moral Codes, n.20
We must face the question: What is meant by an ethical doctrine, and in what ways, if any, can it be tested? Historically, ethics is connected with religion. For most men, authority has sufficed : what is laid down as right or wrong by the Bible or the Church is right or wrong. But certain individuals have, from time to time, been divinely inspired: they have known what was right or wrong because God spoke directly to them. These individuals, according to orthodox opinion, all lived a long time ago, and if a modern man professes to be one of them it is best to put him in an asylum, unless, indeed, the Church sanctions his pronouncements. This, however, is merely the usual situation of the rebel become dictator, and does not help us to decide what are the legitimate functions of rebels. Can we translate ethics into non-theological terms? Victorian freethinkers had no doubt that this was possible. The utilitarians, for instance, were highly moral men, and were convinced that their morality had a rational basis. The matter is, however, rather more difficult than it appeared to them.
出典: Power, 1938.
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