第三に,私の経験とはまったく別の(別個の)物理的世界のようなものは多分存在しないだろうと私は認めなければならないが,物質(そのもの)へ(と)導く推論が否認されるならば,私が自分の心的過去を信じることに導く推論も否認すべきことになることを指摘したい。さらに,そのような推論のみが正当化できる信念を誰も真面目には否認しない,ということを(も)指摘したい。それゆえ,私が経験しない事象に関するものについて私の経験する事象から推論できるものもあるけれども,私は自分の経験しない事象が存在することを理解する。心的現象に関係する場合を除けば,私の経験の外的原因に関して私が行う推論は,構造に関するものだけであり,質には関係していない。是認(保証)される推論は,理論物理学において導き出されるものである。それは抽象的かつ数学的なものであり,物理的対象の本質的な性質に関しては何の兆候(印)も与えない。
Third: I should admit that there may be no such thing as a physical world distinct from my experiences, but I should point out that if the inferences which lead to matter are rejected, I ought also to reject the inferences which lead me to believe in my own mental past. I should point out further that no one sincerely rejects beliefs which only such inferences can justify. I therefore take it that there are events which I do not experience, although some things about some of these can be inferred from what I do experience. Except where mental phenomena are concerned, the inferences that I can make as to the external causes of my experiences are only as to structure, not as to quality. The inferences that are warranted are those to be found in theoretical physics; they are abstract and mathematical and give no indication whatever as to the intrinsic character of physical objects.
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter190.HTM
<寸言>
誰もが自分(個人)の記憶はあやしいところはあるけれども、だいたいにおいて正しい(記憶である)と信じている。そうでなければ安心して生きていけない。だが、はたしてそれは正しいか?
それから「集団の記憶」というものもある。語り続けられている歴史として、「シーザー(カエサル)がルビコン川を渡った」,そしてその時シーザーは「賽は投げられた」と言ったと伝えられている。それを疑う者はほとんどいない。 しかし、それは本当か? 今生きている人で当時生きていて目撃した人はまったくいないではないか!? 当時のビデオが残っているわけではない。
これには、古代ローマにシーザ(カエサル)という物理的存在があった(いた)という前提があり、必要である。これまでの検討で物理的存在が非常にあいまいになってきている。人間の心的現象はその物理的存在が前提になっている以上、物理的世界のようなものが存在しないのであれば、心的世界(心的過去)も存在するとは言えないのではないか? ということにならないか?
(以上は,「論理的には言えない」と言っているだけです。)