それから一カ月後、私たち夫婦が北ウェールズでの午後のドライブから帰宅すると、我が家の玄関先でオートバイにまたがっている、とても当惑していいるけれども感じのよさそうな巡査部長を見つけた。彼は、(1961年)9月12日にボウ・ストリート(ロンドン中央警察裁判所)に出頭するようにとの召喚状を私たち夫婦に手渡した。(右写真:裁判所に向かうラッセル夫妻及びシェーンマンほか)それは一般民衆を煽動して市民的不服従運動にかりたてたということで出されたものであった。召喚状は、百人委員会の幹部全員に対して出されたということであったが、実際はそのうちの何人かに対してだけであった。召喚を受けて出頭を拒んだ者はほとんどいなかった。
私たち夫妻は、事務弁護土(法律相談に応じたり、法廷弁護士の訴訟事務を手伝ったりする弁護士のこと)の意見を求めるため,それからもっと重要なことであるが、運動の同志たちと相談するために,ロンドンに赴いた(上京した)。
私はそのことで殉教者になることを少しも望まなかったが、★我々の考え方を一般に知らせるためにいかなる機会も最大限にに活用すべきであると思った。私たちの投獄がある一定の騒動を引き起こすだろうということを理解できないほど我々は無垢ではなかった。我々は、それまで我々がとってきた行動理由(動機)に対してこれまで動かされることがなかった人々の心に突破口を開き,少なくとも幾つかの行動理由(動機)に対して十分な共感(同情心)を創りだすことができるかもしれない、と期待した。
私たち夫婦は、二人とも直近に重い病気にかかっており、長期間の投獄は悲惨な結果をもたらすだろうという診断書を医者からもらっていた。それを、ロンドン中央警察裁判所で私たちの訴訟事件を担当することになっていた法廷弁護士(注:上級裁判所の法廷に立つ弁護士)に渡した。私たちが会った誰もが、私たち夫婦は有罪となって刑務所にいれられるとは、信じていないようであった。法廷弁護士は、そんなことをしたら(民衆の批判を受けて)まったく引き合わないと英国政府は考えるだろうと思っていた。
しかし、政府が私たちに禁固刑(投獄)を宣告しないことなどできるものか(ありうるものか)、私たち自身はわからなかった。しばらくの間、私たちの行為が政府を困らせたのは明らかであった。また、警察は百人委員会の事務所の手入れをしたり、その事務所に頻繁に出入りしていた多くの会員に対して下手なスパイ行為をしていた。その法廷弁護士は、私たち夫妻の投獄を完全に阻止することができると考えた。
しかし私たちはいずれにせよ極端は望まなかった。私たちは法廷弁護士に、私たちが無罪放免にはならないようにするとともに,2週間以上投獄という判決にならないようにして欲しい、と指示した。結局は、私たち二人はそれぞれ禁固2ケ月間の判決を受け、その判決は、医者たちの診断書によって、二人とも1週間の刑に減刑された。
A month later, as we returned from an afteroon’s drive in North Wales, we found a pleasant, though much embarrassed, Police Sergeant astride his motorcycle at our front door: He delivered summonses to my wife and me to be at Bow Street on September 12th to be charged with inciting the public to civil disobedience. The summons was said to be delivered to all the leaders of the Committee but, in fact, it was delivered only to some of them. Very few who were summoned refused to appear.
We went up to London to take the advice of our solicitors and, even more important, to confer with our colleagues. I had no wish to become a martyr to the cause, but I felt that I should make the most of any chance to publicise our views. We were not so innocent as to fail to see that our imprisonment would cause a certain stir. We hoped that it might create enough sympathy for some, at least, of our reasons for doing as we had done to break through to minds hitherto untouched by them. We had obtained from our doctors statements of our recent serious illnesses which they thought would make long imprisonment disastrous. These we handed over to the barrister who was to watch our cases at Bow Street. No one we met seemed to believe that we should be condemned to gaol. They thought the Government would think that it would not pay them. But we, ourselves, did not see how they could fail to sentence us to gaol. For some time it had been evident that our doings irked the Government, and the police had been raiding the Committee office and doing a clumsy bit of spying upon various members, who frequented it. The barrister thought that he could prevent my wife’s and my incarceration entirely. But we did not wish either extreme. We instructed him to try to prevent our being let off scot-free, but, equally, to try to have us sentenced to not longer than a fortnight in prison. In the event, we were each sentenced to two months in gaol, a sentence which, because of the doctors’ statements, was commuted to a week each.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap3:Trafalgar Square,(1969)
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB33-220.HTM
[寸言]
「生涯2度めの投獄」(一度目はもちろん第一次大戦時の反戦運動のため)ということですが、今回は89歳ということで、刑務所付属の病院での拘束となりました。外に出てはいけないことと、外に向かってメッセージを送ってはいけないことだけを守れば,後は自由でした。このラッセルの「刑務所留置(実際は付属病院への収容)」のニュースは世界に配信され、反戦・反核運動のための宣伝になりましたので、ラッセルにとってはまずは成功と言ってよかったのではないでしょうか?
なお、ラッセルは「法律を犯した以上、刑に服することは当然」と考えており、年齢を理由に「無罪」にしてあげようという、法廷での(傍聴者たち)の声には、「年齢のせい」にされることには,『自伝』(次のページ参照)で不満をもらしています。
https://russell-j.com/beginner/AB33-230.HTM
しかし、★ここで重要なのは、法律を犯すことは悪いことだとしても、法律に従うことが法律を犯すこと以上に悪いことであれば、「正しいと信じることを行い、法律に定められた刑に服する」というのが一番正しい態度であると、ラッセルが考えたことです。つまり、「沈黙,あるいは服従は人類に対する罪である」という状況もあることに,人々は思いをいたす必要があるということです。