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ラッセル関係書籍の検索 ラッセルと20世紀の名文に学ぶ-英文味読の真相39 [佐藤ヒロシ]

『バートランド・ラッセル自伝』(松下彰良・訳)

* 原著:The Autobiography of Bertrand Russell (London; Allen & Unwin, 1967-1969. 3 vols. illus. port. 25 cm.)
* 総目次

第1巻(1872-1914)第3章:ケンブリッジ大学時代-イントロ累積版


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  1. 私の父はケンブリッジ大学だったが,兄はオックスフォード大学にいっていた。・・・。(My father had been at Cambridge, but my brother was at Oxford.)
  2. 1890年10月の始めにケムブリッジ大学に入学した時からは,すべてがうまくいった。・・・。
  3. 私が最も親しかった友人の中に,クロムプトン・ルーエリン・デーヴィスとセオドール・ルーエリン・デーヴィスの2人(の兄弟)がいた。・・・。
  4. 1905年の春,彼(セオドール)が34歳の時,カークビイ・ロンスデールの近くの池で彼の死体が発見された。・・・。
  5. ヘンリー・ジョージ(Henry George,1839-1897)は,現在ではほとんど忘れられた予言者であるが,私が初めてクロムプトンを知った頃の1890年には,'地代'はすべて私的な地主よりはむしろ国家に支払うべきであるという彼の信条は,経済的現状に満足していない人々の間においては,いまだ社会主義と活発に張り合っていた。・・・。
  6. クロムプトンを非常に賞賛に値し,同時にとても楽しい人間にしたのは,彼の才能ゆえではなく,彼の強い愛憎(の感情),空想的なユーモア,岩のようにゆるぎない誠実さのためであった。・・・。
  7. 彼はいつもみすぼらしい服を着ており,あまりにひどいので友人たちがいさめたほどであった。・・・。
  8. 1905年末,自由党が政権につき,太っていて,気楽で,和やかなホールデン卿が陸軍省の国務大臣になった時,クロムプトンは非常に厳粛な態度で,陸軍改革案が出された時に陸軍大将連中が脳卒中にならないようにするために自分は選ばれたと言っていた・・・。
  9. 彼の晩年,我々,すなわち,彼と私の妻と私3人は,夕食後よく一緒に,ロンドン市内を散歩した。・・・。
  10. 彼はその気質から,無政府主義の傾向があった。・・・。
  11. 彼は長い間私の弁護士をつとめていた。・・・。
  12. 彼は晩年,余暇の多くを哲学に関するある本を書くことに費やしたが,それを彼は,ある戯曲に出てくる一老人--パイ料理を作るしか能が無く,たった一つの野望というのが一度でよいから死ぬ前に本当においしいパイを作ることである老人--のように,要するに自分は,(自分の)「パイ料理」を作っている(にすぎない)のだ,と卑下して言っていた。・・・。
  13. 私のケンブリッジ時代のもう一人の友人に,哲学者のマクタガート(McTaggart, John McTaggart Ellis, 1866-1925/右写真)がいたが,彼は私よりもなおいっそう内気であった。・・・。
  14. ケンブリッジ大学時代初期の頃に出会い,以来ずっとつきあいが続いていた友人があと2人いた。・・・。
  15. ケンブリッジ時代の最初(の瞬間)から,私は,恥ずかしがり屋であったにもかかわらずとても社交的であり,そうして私が(学校にいかずに)家庭でずっと教育を受けてきたことによって何らかの障害が生じることは全然ないことがわかった。・・・。
  16. しかし,私は3年生の時,G.E.ムーア(1873-1958)に出会った。・・・。
  17. ムーアの友人全てにとって,ムーア(G. E. Moore)がパイプ(の煙草)に火をつけようとするのを見まもることは,お気に入りの楽しみの1つであった。・・・。
  18. 当時トレヴェリアン3兄弟(松下注:Charles, Robert, and George Trevelyan)がいた。・・・。
  19. 私がこれまでに知った者のうちで,ボブ・トレヴェリアン(Robert Trevelyan)は,一番'本好きな'人間であったと思う。・・・。
  20. (トリニティ・カレッジの)学監たちは,私がケンブリッジ(大学)の生活を楽しむのにほとんど貢献しなかった。・・・。
  21. ある日,学寮長邸(公邸)での朝食会に出かけたときのこと--その日はたまたま彼の義妹の誕生日であったが--を私は覚えている。・・・。
  22. 学部生の頃,私は彼ら全員を単に滑稽な人物とみなしていたが,私が評議員になり,トリニティ・カレッジの会議に出席するようになって初めて,彼らはまことに恐るべき悪の勢力であるということがわかり始めた。・・・。
  23. 私は,ケンブリッジ大学(トリニティ・カレッジ)に入る前に既に哲学に興味をもっていたが,ジョン・スチュアート・ミル以外は余り読んではいなかった。・・・。
  24. この頃までに,私は,初めてケンブリッジに入った時のように,'内気で堅苦しい'人間ではまったくなくなっていた・・・。
  25. 私のケンブリッジ時代における最大の幸福は,会員の間では,'The Society'(学会)という名で知られていた--この会のことを知っている外部の人たちは,'The Apostles'(使徒団)と呼んでいた--ある団体に結びついていた。・・・。
  26. 私は1892年の姶め頃 'The Society'(「学会」といったニュアンスか?) の会員に選ばれた。・・・。
  27. 'The Society' は,私の時代より少し後になると,いくつかの点で,かなり事情が変わってきた。・・・。
  28. 私は,ケインズを彼の父を通して,またリットン・ストレイチーをその母を通して,初めて知った。・・・。
  29. 私は,ケインズ理論に専門的意見を言えるほど十分に経済学を知っていないが,私の判断できる限りでは,近年英国が大規模の失業問題で苦しまずに済んだのは,彼のおかげであると思われる。・・・。
  30. 私は,リットン・ストレイチーとは,前述したように,彼の母親(Lady Strachey)を通して,初めて知りあいになった。・・・。
  31. ストレイチー夫人(Lady Strachey,1840-1928/右肖像画=キャリントン作)は,大変精力的な女性であり,子供達のなかの少なくとも何人かは有名になるべきであるという,大きな望みをいだいていた。・・・。
  32. リットン(Lytton Strachey, 1880-1932)はいつもエキセントリックであったが,しだいにその度を増していった。・・・。
  33. 私が初めてムーア(G. E. Moore, 1873-1958)の優秀さに気づいたのは,'ザ・ソサイエティ(The Society)'においてであった。・・・。
  34. ケンブリッジ大学は,私に友を与え,知的議論の経験をもたらしたという事実のおかげで,私の人生にとって重要であったが,現実の大学教育を通しては,重要ではなかった。・・・。

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