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バートランド・ラッセル自伝 第1巻第3章 - クロムプトン 1(松下彰良・訳)- The Autobiography of Bertrand Russell, v.1

前ページ 次ページ 第1巻 第3章(ケンブリッジ大学時代)累積版 総目次


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 ヘンリー・ジョージ(Henry George,1839-1897/右写真)は,今日においてはほとんど忘れられた予言者であるが,私が初めてクロムプトン(Crompton Llewelyn Davies, 1868-1935)を知った頃の1890年には,'地代'はすべて個人の地主よりはむしろ国家に支払うべきであるという彼(ヘンリー・ジョージ)の信条は,経済的現状に満足していない人々の間においては,いまだ社会主義と活発に張り合っていた。クロムプトンは,この頃すでに,ヘンリー・ジョージの熱狂的な信奉者であった。彼は,予想できるように,社会主義をひどく嫌っており,私企業の自由の原則に対して,非常に献身的であった。彼は,事業によって蓄財する資本家に対してはまったく嫌悪感をもっていなかったが,他人が(事業をおこすのに)必要とする土地を所有しているという理由で,他人の事業に対し'土地使用料を課すことができる人間'を,単なる夢魔(睡眠中の人間の上に乗って苦しめる魔物)にすぎないとみなしていた。国家が全歳入を'地主の身分'(=土地の国有化)から引き出すことになれば,国家権力がとてつもなく強大になるのをどうやって防ぐことができるか,ということについて,彼がかつて自問したことがあったとは思わない。彼の考えでは,ヘンリー・ジョージと同様に,改革とは,現在独占力によって流量が絞られている精力を解放し,個人主義的自由主義を完成させることであった。1909年に,彼は,ヘンリー・ジョージの原理がロイド・ジョージによって実行されつつあると信じ,ロイド・ジョージによる有名な予算案が完全なものになるよう,助力した。
 1914~1918年の第一次世界大戦の初期,彼は,郵政省の事務弁護士であったが,妻の意見に熱烈に同意していたために -彼の妻は,アイルランド国家主義者であり,シンフェィン党員(注:アイルランド独立を目的としたシンフェイン党のメンバー)として投獄されていた- 自分の地位を維持することができなくなった。(注:日高氏は,Post Office '英国郵政省'を,'郵便局'と誤訳されている。『ラッセル自叙伝』第1巻は,誤訳が多すぎることから判断すると,当時日高氏が非常勤講師をしていた大学の学生に下訳をさせ,出版を急いだために,訳をよく点検しないで出版してしまったのだろうか。 彼は即刻解雇された。当時のそのような偏見があったにもかかわらず,彼は,ほとんど解雇と同時に,シテイ(ロンドン・シティ)の事務弁護士の代表的な会社の1つである Messrs Coward, Chance & Co にパートナー社員として雇われた。一般にはまったく知られていないことであるが,1921年にアイルランドの自治を確立した平和条約を起草したのは彼であった。彼は無私無欲であったため,いかなる重要な世俗的成功を得ることはできなかった。なぜなら,自分の為す仕事を認めてもらうために,他人の邪魔をするようなことは決してしなかったからである。彼は,世間に認められることや名誉を好まなかった。しかし,彼の有能さが彼を忘れがたい人にしたのではないが,彼の能力は,非常にすぐれていた。

Henry George is now an almost forgotten prophet, but in 1890, when I first knew Crompton, his doctrine that all rent should be paid to the State rather than to private landowners was still an active competitor with Socialism among those who were not satisfied with the economic status quo. Crompton, at this time, was already a fanatical adherent of Henry George. He had, as was to be expected, a strong dislike of Socialism, and a strong devotion to the principle of freedom for private enterprise. He had no dislike of the capitalist who made his money in industry, but regarded as a mere incubus the man who is able to levy toll on the industry of others because he owns the land that they need. I do not think he ever asked himself how the State could fail to become immensely powerful if it enjoyed all the revenue to be derived from landownership. In his mind, as in Henry George's, the reform was to be the completion of individualistic liberalism, setting free energies now throttled by monopoly power. In 1909, he believed that Henry George's principles were being carried out by Lloyd George, whose famous budget he helped to perfect.
At the beginning of the 1914-18 War he was solicitor to the Post Office, but his ardent agreement with the opinions of his wife, who was an Irish Nationalist and imprisoned as a Sinn Feiner, made his position untenable. He was dismissed at a moment's notice. In spite of the prejudice of the time he was almost immediately taken in as a partner by Messrs Coward, Chance & Co, one of the leading firms of City solicitors. In 1921, it was he who drafted the treaty of peace that established lrish self-government, though this was never publicly known. His unselfishness made any important worldly success impossible, since he never stood in the way of others acquiring credit for his work; and he did not care for public recognition and honours. But his ability, though it was not this that made him unforgettable, was very great.