『バートランド・ラッセル自伝』(松下彰良・訳)
* 原著:The Autobiography of Bertrand Russell (London; Allen & Unwin, 1967-1969. 3 vols. illus. port. 25 cm.)* 総目次
第3巻(1944-1967)第3章(通しで第15章):トラファルガー広場 イントロ累積版
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- 1957年の初めの5ケ月間,私はBBCからきわめて多くの放送をした。・・・。(During the first five months of 1957 I made a great many broadcasts for the BBC. )
- これらの悲しい出来事(ウッド夫妻が亡くなり彼らの子供達が遺児になったこと)や,妻が(1957年)6月の初めに重い心臓発作におそわれたことから,数ケ月間,私達の活動はかき乱され,進行が遅くなった。・・・。
- この年(1957年)の秋,ジョージ・ケナン(George Frost Kennan, 1904年-2005年:米国の外交官,政治学者)は,BBCを通じてリース記念講演を行い,米国とソ連の政策に関する彼の広範かつ直接的な知識から引き出される,洞察力をのあるいくつかの卓見を述べていた。・・・。
- CNDは,1958年2月17日,ウェストミンスターのセントラル・ホールで大集会を開催し,公の活動を開始した。・・・。
- この1960年のオルダーマストン平和行進の後間もなく,アイゼンハウアーとフルシチョフとの間で巨頭会談(頂上会談)が開かれた。・・・。
- 私は,1958年の夏に執筆し1959年初めに出版した『常識(良識)と核戦争』(Common Sense and Nuclear Warfare, 1959)の序文の中で,明確に自分の見解を述べた。・・・。
- 必要とされた政策は,'良識'(常識)が命ずる政策であった。・・・。
- 私の87回目の誕生日を祝って、私たち夫婦は、バース(Bath)とウェルズ(Wels)とグラストンベリー(Glastonbury)を通って、ドーセットまでドライブした。・・・。
- 1960年の初め,私達(夫婦)は短期間コペンハーゲンに行った。・・・。
- 当時の数年間,数多くの演説をし論文を書いたが,たいていは核問題に関するものであったので,まれにしか楽しいものではなかった。・・・。
- 私はウードロウ・ワイアット(Woodrow Wyatt, 1918-1997:当時,労働党下院議員)を対談者とする一連のテレビ対談に応じた。・・・。
- その頃,私は,シドニー・フック(Sidney Hook, 1902-1989)という名前の米国の哲学者と論争を行った。・・・。
- '人類の破滅'に対する大部分の人類の態度に,私は驚いた。・・・。
- 1960年の夏になると,パグウォッシュ会議やCNDも,また我々が人々を鼓舞しようとそれまで努めてきたその他の方法も,その効果の限界に達してしまったかのように,私には思われた。・・・。
- 1960年7月の終わり近くに,ラルフ・シェーンマン(Ralph Schoenman, 1935~ )という名前の若いアメリカ人が初めて私を訪ねて来た。・・・。
- シェーンマンの企画は大いに可能性があるように私には思えた。・・・。
- この計画中の'市民的不服従の'大衆運動がイブニング・スタンダード紙に発表された以後は,われわれの計画を急いで仕上げる必要があった。・・・。
- とかくするうちに,大衆の不服従運動として発展していくこの新しい運動は,Committee of 100(百人委員会)と呼ばれることになった。・・・。
- (1961年)2月18日の反核デモのためになされつつあった仕事と準備に対する私の意気込みは大きかった。・・・。
- このデモ(示威行動)は,われわれが期待する権利がある以上に,ずっと幸先の良いものであった。・・・。
- (1961年)8月6日の「ヒロシマ・デー」に,百人委員会は2つの集会を開く準備をした。・・・。
- それから一カ月後,私達が北ウェールズでの午後のドライブから帰宅した時,わが家の玄関先でオートバイにまたがっている,とても当惑していたけれども愛想のよさそうな巡査部長を見つけた。・・・。
- その日の朝10時30分少し前,私達夫婦が大勢の傍聴人の間を'法廷'に向かって同志たちと共にボウ・ストリートを歩いた時,そこはまるで'舞台のセット'のように思われた。・・・。
- 前回(第一次世界大戦中)私が投獄された時はタクシーでブリクストン刑務所に連れていかれたので,囚人護送車(Black Maria)に乗るのは私にとってこれが初めてのことだった。・・・。
- そのデモの詳細の物語について語るのは,歴史家あるいはデモに参加した人のいずれかに委ねなければならない。・・・。
- このデモやデモに先立つ私たちの投獄に関するテレビや新聞の解説や写真が,全世界の国々において発表された。・・・。
- 釈放された週の終わりに私たち夫婦は,北ウェールズに戻った。・・・。
- 次の数ケ月間,百人委員会の -公的あるいは私的な- 集会がかなり頻繁にもたれた。・・・。
- 百人委員会は他のことで既に自らを'弱体化'させ始めていた。・・・。
- 12月9日のデモの直接の余波は,百人委員会の5人の幹部が「1911年国家機密保護法」に違反するものとして'告訴'されたことであった。・・・。
- その後しばらくの間,私は,百人委員会のために公的に演説するという方法ではほとんど活動しなかった。・・・。
- 8月の終わりに向けて,百人委員会は,(1962年)9月9日のデモの計画を実行し始めた。・・・。
- 国家機密保護法違反の裁判事件以降のその時期に,百人委員会とは関係のない多くの出来事が私に起こっていた。・・・。
- 私の誕生日当日(1962.5.18)は,私たち夫婦は二人の孫及びロンドンの自宅の家政婦のジーン・レドモンドと一緒に,家族だけの楽しいティー・パーテイを開いた。・・・。
- その翌日(1962.5.19)の午後,(ロンドンの)ロイヤル・フェスティバル・ホールで,支配人 T.E.ビーンの思いやりのある後援のもと,祝賀パーテイが催されたが,それについて,何をどういったらよいかわからない。・・・。
- 私の誕生日の最後の公式の祝賀行事がその次の週に催された。・・・。
- 私が九十歳代の人間になることに関連して行なわれたこのような楽しいお祭り騒ぎが全て終わると,私たち夫婦はウェールズに引っ込んだ。・・・。
- その年(1962年)の最後の2,3ケ月は,キューバ危機とその後に続いた中印国境紛争とで多忙であった。・・・。
- 9月の諸行事の間における百人委員会の数人の幹部たちによる愚行と,百人委員会の方針がしだいに有名無実なものになっていったことにより,私はかなり悩まされるようになっていたので,(1963年)1月初めにロンドンの中央委員会を辞した。・・・。