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『バートランド・ラッセル自伝』(松下彰良・訳)

* The Autobiography of Bertrand Russell (London; Allen & Unwin, 1967-1969. 3 vols. illus. port. 25 cm.)

* 総目次

第3巻(1944-1967)第2章(通しで第14章):英国の内外で イントロ累積版


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  1. 最近20年間(松下注:1948年頃~1968年頃)の、将来に対する暗い不安と予感を切り抜けるにあたって、いかなるものよりも重要なことは、私がエディス・フィンチ(右欄写真出典:The Autobiography of B. Russell, v.2)に恋し、彼女が私に恋していたという事実である。・・・。(More important than anything in pulling me through the dark apprehensions and premonitions of these last two decades is the fact that I had fallen in love with Edith Finch and she with me.)
  2. エディスも私も、それぞれの家系に語るべき'神話'があった。・・・。
  3. すべてこのような回想(懐旧談)は、愉快なものであったとしても、ケーキの'糖衣'(とうい)の上の唐草模様のようなものでしかなかった。・・・。
  4. 私達の初めての長期旅行は、フォンテーヌブロー行きだった。・・・。
  5. 1952年の春、私達はギリシャを訪ずれ、アテネにしばらく滞在し、その後10日間ほどペロポネソス半島をドライブした。・・・。
  6. 1953年、エディスと私は、スコットランドで3週間過ごした。・・・。
  7. それから2年後(1955年)、私達は再びセント・フィランスを訪れた。・・・。
  8. ピーター(注:ラッセルの三番目の夫人)が私のもとを去った時(注:1949年)、私は継続してフェスティニオグに住んでおり、古い黙示録にでてくる天国を描いた版画のような、'渓谷に向けての絶景'を望む丘の端(=小山の崖っぷち/下の写真参照:左下及び右下写真(1972年牧野教授撮影)に建っている家で、楽しく仕事を続けていた。・・・。
  9. 幼少時代を過ごしたリッチモンドに戻ると、何となくリッチモンドが実在していないような気分にかられた。・・・。
  10. 訪問客の中にアラン・ウッドとメアリ・ウッドの夫妻がいた。・・・。
  11. 既に前にふれたが、私が病院に運ばれたときの話は、私に関する伝説の一つになった。 ・・・。
  12. リッチモンドでの暮らしは楽しいものであったが、これまで述べた以外の憂鬱な時期があった。・・・。
  13. 私は、退院した時、しばらくの間あまり元気はなかった。・・・。
  14. その後間もなく、私達は、スコットランド(旅行)からリッチモンドに戻る途中、北ウェールズに立ち寄った。・・・。
  15. しかし、すべてこうしたことは、私達の'日常生活の背景'であり、私の主たる関心事であった国際問題の暗い世界からの'息抜き'であった。・・・。
  16. その放送は、私的(個人的)にも、公的(社会的)にも効果があった。・・・。
  17. 私が演説した会議(集会)のなかで最も印象深かったものの一つが、1943年2月にワルシャワで亡くなったユダヤ人達を偲んで1955年4月に開かれた。・・・。
  18. 私はローマから北へ向かう途中、セッティニャーノ(Settignano:フィレンツェの近郊にあり)にバーナード・ベレンソン(Bernard Berenson,1865年-1959年10月6日:リトアニア出身のアメリカの美術史家・美術評論家)を訪ねたいと思っていた。・・・。
  19. その間、私は、自分の放送が勝ち得た反響を評価し、次に何をなすべきかを考えた時、私が全力を傾注すべき要点は、諸国間の協力の必要性であるということを悟った。・・・。
  20. 私は、パリ滞在中、私のこの計画についてフレデリック・ジョリオ=キュリーと長いこと語り合った。・・・。
  21. 当時のことをふり返ってみる時、昼夜にわたり、どのようにしてそれら全てのことをやるだけの時間が与えられたものか、自分にもわからない。・・・。
  22. 6月となった。しかし、科学者たちに送った私の手紙に対する返事は、まだ全て届いているわけではなかった。・・・。
  23. '最悪の事態'と思われたことは、その少し前に、結局のところ'声明書'に署名することはできないかもしれないと書かれたジョリオ=キュリーからの手紙を受け取ったことであった。・・・。
  24. 私につきまとったもう一つの困難は、その集会の司会者 -その共同記者会見に当たって、光彩をそえてくれるだけでなく、確実に出されるであろういろいろな技術的かつ専門的な質問において、私を補佐してくれるだけの力量が備わっている人- を見つけ出すことであった
  25. この集会(記者会見)で私を勇気づけてくれた人として他に、オブザーヴァー紙のケネス・ハリスと共に、アラン・ウッドとマリー・ウッドの夫妻がいた。・・・
  26. けれども共同記者会見が終わり、私達夫婦が週末を過ごしていたミルバンク(Millbank)のフラットにもどると、反動が起こった。・・・。
  27. ラッセル=アインシュタイン声明が全世界にわたって広く報道されると、この声明に対する'言葉'がどっと流入し続けた。・・・。
  28. 7月末のこのパリ会議の後、私達は'別のもう1つの会議'に出席するため、リッチモンドに戻った。・・・。
  29. 1956年の前半を通して、私達は全力をあげて、会議(科学者会議)のための計画を完成させた。・・・。
  30. 1951年、ローゼンバーグ裁判とローゼンバーグの死(彼は暗殺されたと言いたい誘惑にかられる)があった、恥ずかしいことだが、進行しつつあることに対して私はおおざっぱな注意しか払っていなかった。・・・。
  31. 1947年の初め、私は、英国議会の貴族院(上院)で、「米国では、'国連を支持する者'は誰でも危険な'赤'(共産主義者)としてのレッテルを貼られる」と演説したことがある。・・・。
  32. しかし、私達が提唱した科学者会議に関するかぎり、1956年の夏時点では、私達の目指す方向に事が順調に進んでいるように見えた。・・・。
  33. 私は、自分の年齢と健康状態のせいで、この最初の会議に出かけることができなかった。・・・。
  34. しかしパグウォッシュ会議に話をもどそう。・・・。
  35. 私は出席していなかったので、この第1回会議や以後の会議の活動や成果について詳細に述べることはさしひかえたい。・・・。
  36. パグウォッシュ運動の最もあきらかな成果は -パグウォッシュ運動が大きな影響を与えた- 平和時における地上での核実験を禁止する'部分的核実験禁止条約'の締結であった。・・・。
  37. パグウォッシュ運動は現在ではしっかりと定着したように思われる。・・・。
第3部第3章