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『ラッセル自伝』AB32-200.HTM(松下彰良・訳)

次ページ 前ページ  v.3,chap.2 (At home and abroad) 目次  Contents (総目次)
第3巻第2章 国の内外で

 パリ滞在中,この計画についてフレデリック・ジョリオ=キュリー(Frederic Joliot-Curie, 1900年-1958年8月14日:フランスの原子物理学者で,1935年に妻イレーヌ・ジョリオ=キュリーとともにノーベル'化学賞'受賞。イレーヌとは1926年に結婚したが,その際,姓を2人の旧姓を組み合わせ「ジョリオ=キュリー」とした。晩年はパグウォッシュ会議の設立にも尽力)と長時間に渡って語り合った。彼は,心からこの計画を歓迎してくれるとともに,ただ一句を除いて,この声明(文)に賛成してくれた。(その一句というのは,)私が次のように書いたところであった。「もしも多数の原爆が使用されるならば,全人類の死(全体的破滅に到る恐れがある。それは,少数の者だけにとっては幸運にも一瞬の出来事(即死)であるが,大多数の者にとっては徐々に進行する病気と人間崩解の責め苦である」。キュリーは,私がその少数者を'幸運にも'と表現したところを好まなかった。「死ぬことは幸運なことではない」と彼は言った。恐らく,彼の言うことは正しかったであろう。'皮肉'というものは,国を越えると,'悪ふざけ'ととられる場合がある(から注意が必要である)。ともかく私は,その句を削除することに同意した。英国に帰国してしばらくの間,彼から何のたよりも来なかった。後に知ったことであるが,その時彼は病気をしていたとのことであった(注:フレデリック・ジョリオ=キュリーは,3年後の1958年8月14日に死亡。妻のイレーヌは長年の放射能研究により1956年白血病で死亡しているが,夫のフレデリックも同様と思われる。)。また,他の多くの重要な科学者たちからも一通も返事を受け取ることができないでいた。私が手紙を送った中国の科学者からは何の音沙汰もなかった。彼宛の手紙は,おそらく宛先の住所が間違えていたものと思われる。アインシュタインは,ニールス・ボ-ア(Niels Henrik David Bohr,1885年-1962年11月18日:デンマークの理論物理学者で,1922年に量子論の研究でノーベル物理学賞受賞。デンマーク語では,ネルス・ボア)もリストに加えて協力を得るようにと私に勧めてくれていた。アインシュタインは,ボーアはまちがいなく私の計画と声明に賛成してくれるものと考えていた。けれども私は,手紙や電報をくり返し送ったにもかかわらず,彼からは何週間というもの返事がなかった。そうして,彼から私の計画にも声明にも何の関係も持ちたくないという短い手紙が送られてきた。ロシア・アカデミー(学士院)会員も,いまだ西側に対して疑念を持っており,署名を拒否した。ただし,彼らは,私の計画にある程度好意を持ってくれて,賞賛するという趣旨が返事に書かれていた。オットー・ハーン教授(Otto Hahn, 1879年-1968年7月28日:ドイツの化学者・物理学者で,原子核分裂を発見し,1944年にノーベル'化学賞'受賞)は,2,3度手紙のやりとりをした後,署名を断わってきた。彼は当時間近にひかえていた科学者のマイナウ宣言Mainau Declarationのために活動しており,署名拒否の理由はそのためだろうと,私は理解した。このマイナウ宣言は,既に準備中であったが,西側の科学者だけを署名者として含むよう意図されていたことにより,いささか'骨抜き'にされていると私には思われた。幸いにも,マイナウ宣言に署名したハーン教授以外の科学者たち(でラッセルが書名を依頼した科学者)が賛成し,両方に署名してくれた。私が個人的に最も失望したのは,英国学士院院長で(私の母校の)トリニティ・コレッジ学寮長だったエイドリアン卿(Edgar Douglas Adrian,1889年-1977年8月8日:神経細胞の機能に関する発見により,チャールズ・シェリントンとともにノーベル生理学・医学賞受賞)の署名を得られなかったことだった。私は,彼が私の放送「人類の危機」(Man's Peril)の原則に賛成していることを知っており,それら原則は彼が署名してくれるだろうと思っていた声明(ラッセル=アインシュタイン声明)の原則にほかならなかった。卿自身,同じ意味の話を公にしていた。それから,(エイドリアン卿が学寮長をしている)トリニティ・コレッジが,私の「人類の危機」の原縞を図書館に保存したいと希望していることを知り,うれしく思っていた。しかし,'声明'のことで彼と議論した時,なぜ彼が署名に気が進まないのか,その理由が理解できたと思った。「署名してもらえないのは,声明が雄弁すぎるからですか?」と,私は尋ねた。すると,「その通りです」と彼は答えた。けれども,私が手紙を送った科学者たちの多くは,すぐにそして心から署名に同意してくれた。それからもう一人,ライナス・ポーリング(Linus Carl Pauling, 1901年-1994年8月19日:アメリカの量子化学者,生化学者で,1954年にノーベル化学賞受賞。また,地上核実験に対する反対運動の業績により1962年にノーベル平和賞も受賞)は,この計画をまた聞きしただけで,署名をすることを申し出てくれた。私は喜んで彼の署名を受けいれた。

v.3,chap.2: At home and abroad

While I was in Paris I had a long discussion about my plan with Frederic Joliot-Curie. He warmly welcomed the plan and approved of the statement except for one phrase: I had written, 'It is feared that if many bombs are used there will be universal death - sudden only for a fortunate minority, but for the majority a slow torture of disease and disintegration'. He did not like my calling the minority 'fortunate'. 'To die is not fortunate', he said. Perhaps he was right. Irony, taken internationally, is tricky. In any case, I agreed to delete it. For some time after I returned to England, I heard nothing from him. He was ill, I learned later. Nor could I induce an answer from various other important scientists. I never did hear from the Chinese scientist to whom I had written. I think the letter to him was probably misaddressed. Einstein had advised me to enlist the help of Niels Bohr who, he thought, would certainly be in favour of my plan and my statement. But I could achieve no reply from him for many weeks in spite of repeated letters and telegrams. Then came a short letter saying that he wished to have nothing to do with either plan or statement. The Russian Academicians, still suspicious of the West, also refused to sign, although they wrote commending the plan with some warmth. After some correspondence, Professor Otto Hahn refused to sign, because, I understood, he was working for the forthcoming 'Mainau Declaration' of scientists. This declaration was already in preparation, but seemed to me to be somewhat emasculated by the fact that it was intended to include among its signatories only scientists of the West. Fortunately, others who signed the Mainau Declaration agreed with me and signed both. My most personal disappointment was that I could not obtain the signature of Lord Adrian, the President of the Royal Society and Master of my College, Trinity. I knew that he agreed with the principles in my broadcast, which were those of the manifesto that I hoped he would sign. He had himself spoke publicly in similar vein. And I had been pleased when I learned that Trinity wished to have in its Library a manuscript of 'Man's Peril'. But when I discussed my statement or manifesto with him I thought I understood why he was reluctant to sign. 'It is because it is too eloquent, isn't it ?' I asked. 'Yes', he said. Many of the scientists to whom I wrote, however, at once warmly agreed to sign, and one, Linus Pauling, who had heard of the plan only at second hand, offered his signarure. I was glad to accept the offer.

(掲載日:2009.10.11/更新日:2012.4.4 掲載)